トップ > 京都部落史研究所刊行物目次 > こぺる目次

京都部落史研究所報目次
こぺる目次
京都部落史研究所報(復刊号)目次 
京都部落史研究所紀要目次 
『京都の部落史』第1巻・第2巻目次

65・66号(1983年6月)
巨星墜つ―朝田善之助氏を追悼して奈良本辰也
ぼく一人のかくれがそうあつむ
事実とちがう事実にご注意山本 尚友
テレビの見方、教えます池村 六郎
わたしの惚れた人たち―山口瞳著『家族』を読むむろあじろう
新しい革袋に 師岡 佑行
我が手で巻こう、腹時計!―恐怖の食品添加物の巻―瀬田恵美子
67号(1983年7月)
豊かさと貧しさの中で見失ったもの―南北問題にみる差別の構造槌田 劭
裏づきあいは戻るかそうあつむ
とにかく批判しとこ 山本 尚友
水戸黄門の解剖 池村 六郎
わたしの惚れた人たち―山口瞳著『家族』を読む( 2 )むろあじろう
《貴方の身体と環境汚染》―恐怖の食品添加物の巻2―瀬田恵美子
68号(1983年8月)
岡山県における融和事業 上 守屋 茂
むかし話を伝えるにはそうあつむ
部落の成立と宗教山本 尚友
画面のメッセージ池村 六郎
わたしの惚れた人たち―山口瞳著『家族』を読む( 3 )むろあじろう
フルーツ・サラダに農薬ドレッシング―恐怖の農薬シリーズ1―瀬田恵美子
69号(1983年9月)
岡山県における融和事業 下守屋 茂
[付記]灘本 昌久
おしきせの生活 運動…そうあつむ
喜田貞吉と職業起源説山本 尚友
「テレビ的」ということ池村 六郎
わたしの惚れた人たち―山口瞳著『家族』を読む( 4 )むろあじろう
《農薬シャワーをたっぷり浴びて》大豆たちのいい日、旅立ち―恐怖の農薬シリーズ2―瀬田恵美子
70号(1983年10月)
戦時下京都市における水平運動と行政の軌跡
―京都部落史年表、近代篇Vによせて―
長尾眞砂子
学力をつけるとは―豊かさを問う中でそうあつむ
レッテル貼りは佐野学から山本 尚友
語り部はどこに池村 六郎
わたしの惚れた人たち―山口瞳著『家族』を読む( 5 )むろあじろう
「農村に農薬、都会に家庭用殺虫剤」薬を浴びてスーパー・ヒーロー恐怖の農薬シリーズ3瀬田恵美子
71号(1983年11月)
古代・中世をどうみるか
―『京都の部落史3 史料古代中世』の発刊に寄せて―
井上満郎
川嶋将生
村井康彦
師岡佑行
72号(1983年12月)
やさしさ時代の若者たちと部落問題 野口 道彦
『あんたも中流』 そうあつむ
封建的身分制に狙いが山本 尚友
阿呆のいない世界池村 六郎
わたしの惚れた人たち―山口瞳著『家族』を読む( 6 )むろあじろう
食卓を見ればわかる あなたは自立していますか!?瀬田恵美子
73号(1984年1月)
現代管理社会と部落差別日高 六郎
わたしの惚れた人たち―野井千代先生・井田賢先生のことむろあじろう
原田伴彦先生を悼む師岡 佑行


このページのトップに戻る

74号(1984年2月)
原田伴彦先生の被差別部落形成論について生瀬 克己
「帝力ナンゾ我ニアランヤ」そうあつむ
近世政治起源説の成立山本 尚友
部落史周辺秋定 嘉和
わたしの惚れた人たち 川崎長太郎―私小説ひとすじ( 1 )むろあじろう
『京都の部落史』刊行のことば京都部落史研究所
75号(1984年3月)
同和教育と朝鮮人教育―特に京都市における―小笠原亮一
わたしの惚れた人たち 川崎長太郎―私小説ひとすじ( 2 )むろあじろう
部落史周辺( 2 )秋定 嘉和
中世に生きる人びと 田植をいろどる楽 田楽一山路 興造
76号(1984年4月)
古代賎民のイメージ―『京都の部落史』第3巻から土方 鉄
わたしの惚れた人たち 川崎長太郎―私小説ひとすじ( 3 )むろあじろう
部落史周辺( 3 )秋定 嘉和
中世に生きる人びと 社寺の祭礼をいろどる楽 田楽二山路 興造
77号(1984年5月)
親鸞と「犬神人」(上)河田 光夫
わたしの惚れた人たち 川崎長太郎―私小説ひとすじ( 4 )むろあじろう
部落史周辺( 4 )秋定 嘉和
中世に生きる人びと 山水河原者 作庭川嶋 将生
78号(1984年6月)
親鸞と「犬神人」(下)河田 光夫
わたしの惚れた人たち 川崎長太郎―私小説ひとすじ( 5 )むろあじろう
部落史周辺( 5 )秋定 嘉和
中世に生きる人びと 犬狩横井 清
79号(1984年7月) 特集・映画『部落ここに生きる』
部落の過去と現在を重ねあわせて土方 鉄
啓蒙活動観をゆさぶる藤田 敬一
わたしの惚れた人たち 川崎長太郎―私小説ひとすじ( 6 )むろあじろう
部落史周辺( 6 )秋定 嘉和
新しいイメージを求めて森本 景武
80号(1984年8月)
別所往生院をたづねて吉田 清
わたしの惚れた人たち―愚直な男、キムさんとウイリヤムス氏( 1 )むろあじろう
京都部落史研究所第6回総会報告
中世に生きる人びと 清目丹生谷哲一
81号(1984年9月)
「旃陀羅」という言葉をめぐって師岡 佑行
わたしの惚れた人たち―愚直な男、キムさんとウイリヤムス氏( 2 )むろあじろう
中世に生きる人びと 松囃子山路 興造
82号(1984年10月)
播磨国鵤荘の「皮屋」細川 涼一
わたしの惚れた人たち―愚直な男、キムさんとウイリヤムス氏( 3 )むろあじろう
部落解放学習(三年) 協和町はホルモン屋みたい(一)大前 純男
中世に生きる人びと 犬神人河田 光夫
83号(1984年11月)
融和事業を振り返って(上)土屋 政一
わたしの惚れた人たち―愚直な男、キムさんとウイリヤムス氏( 4 )むろあじろう
部落解放学習(三年) 協和町はホルモン屋みたい(二)大前 純男
中世に生きる人びと 猿楽山路 興造
84号(1984年12月)
融和事業を振り返って(下)土屋 政一
わたしの惚れた人たち 世間噺しにみせて語る―木山捷平( 1 )むろあじろう
部落解放学習(三年) 協和町はホルモン屋みたい(三)大前 純男
中世に生きる人びと 曲舞川嶋 将生


このページのトップに戻る

85号(1985年1月)
近代初頭、京都の被差別部落の生活(上)
―『京都の部落史6 史料近代1』の発刊に寄せて―
飛鳥井雅道
白石正明
辻ミチ子
師岡佑行
山本尚友
部落解放学習(三年) 協和町はホルモン屋みたい(4)大前 純男
中世に生きる人びと 皮革源城 政好
86号(1985年2月)
近代初頭、京都の被差別部落の生活(下)
―『京都の部落史6 史料近代1』の発刊に寄せて―
飛鳥井雅道
白石正明
辻ミチ子
師岡佑行
山本尚友
わたしの惚れた人たち 世間噺しにみせて語る―木山捷平( 2 )むろあじろう
部落解放学習(三年) 協和町はホルモン屋みたい(5)大前 純男
中世に生きる人びと 葬送田良島 哲
87号(1985年3月)
もっと論議を
―現代法の特質と部落解放基本法・差別禁止法要綱案
師岡 佑行
わたしの惚れた人たち 世間噺しにみせて語る―木山捷平( 3 )むろあじろう
部落解放学習(三年) 協和町はホルモン屋みたい(6)大前 純男
中世に生きる人びと 傀儡山路 興造
88号(1985年4月)
もっと論議を
―現代法と部落解放基本法・差別禁止法要綱案(承前)
師岡 佑行
わたしの惚れた人たち 世間噺しにみせて語る―木山捷平( 4 )むろあじろう
部落解放と法井上 清
中世に生きる人びと 節季候川嶋 将生
89号(1985年5月)
戦前の「差別規制法」構想
―「差別言動取締法令」制定運動の概略
藤野 豊
最近の歴史に学ぶ井上 清
中世に生きる人びと 壁塗吉村 亨
90号(1985年6月)
中世に生きる人びと―連載の完結に寄せて―横井 清
わたしの惚れた人たち 作家の風貌姿勢―野口雨情( 1 )むろあじろう
日本とドイツの権力者井上 清
近世に生きる人びと1 皮なめし源城 政好
91号(1985年7月)
南アフリカ人女性の語るアパルトヘイト―飢餓キャンペーンの前にモード=ジャクソン
/神野明訳
わたしの惚れた人たち 作家の風貌姿勢―野口雨情( 2 )むろあじろう
いまの権力に何も期待できない井上 清
近世に生きる人びと2 鉢叩き山路 興造
92号(1985年8月)
狭山事件とその闘いの歴史から
―最高裁判所の再審特別抗告棄却にさいして―
師岡 佑行
わたしの惚れた人たち 作家の風貌姿勢―野口雨情( 3 )むろあじろう
「被差別部落」という語について井上 清
近世に生きる人びと3 隠坊(三昧聖)吉田 清
93号(1985年9月)
部落実態調査と調査票―「京都府部落解放実態調査」を終えて―石元 清英
わたしの惚れた人たち 作家の風貌姿勢―野口雨情( 4 )むろあじろう
改善と解放井上 清
近世に生きる人びと4 青屋山本 尚友
94号(1985年10月)
『京都の部落史6 史料近代1』を読んで小山 仁示
わたしの惚れた人たち 作家の風貌姿勢―野口雨情( 5 )むろあじろう
マートンの4つのタイプと部落解放のてだて野口 道彦
近世に生きる人びと5 千秋萬歳山路 興造


このページのトップに戻る

95号(1985年11月)
部落問題と学際学秋定 嘉和
わたしの惚れた人たち 作家の風貌姿勢―野口雨情( 6 )むろあじろう
親と子のはざま野口 道彦
近世に生きる人びと6 野非人芳賀登
96号(1985年12月)
もう一つの「七分の一の命事件」
―幕末、東上州におけるある差別事件―
大熊 哲雄
わたしの惚れた人たち 作家の風貌姿勢―野口雨情( 7 )むろあじろう
「どんな私」と、一生付き合うのか野口 道彦
近世に生きる人びと7 履物直し岡本 良一
97号(1986年1月)
米騒動の民衆にもたらしたもの(上)
―『京都の部落史7 史料近代2』の発刊に寄せて―
白石正明
師岡佑行
松尾尊■【よし】
渡部徹
山本尚友
わたしの惚れた人たち 作家の風貌姿勢―野口雨情( 8 )むろあじろう
後ろめたさを解消する方法野口 道彦
近世に生きる人びと8 鉦叩き山路 興造
98号(1986年2月)
米騒動の民衆にもたらしたもの(下)
―『京都の部落史7 史料近代2』の発刊に寄せて―
白石正明
師岡佑行
松尾尊■【よし】
渡部徹
山本尚友
わたしの惚れた人たち 作家の風貌姿勢―野口雨情( 9 )むろあじろう
部落のイメージと現実との落差野口 道彦
近世に生きる人びと9 太鼓屋辻 ミチ子
99号(1986年3月)
部落問題と社会学江嶋 修作
わたしの惚れた人たち 作家の風貌姿勢―野口雨情( 10 )むろあじろう
「低位性モデル」から「生活者・共同体モデル」へ野口 道彦
近世に生きる人びと10 傾城屋と傾城町森谷 尅久
100号(1986年4月)
あたらしい部落史像をもとめて(1)―『こぺる』百号によせて師岡 佑行
わたしの惚れた人たち 作家の風貌姿勢―野口雨情( 11 )むろあじろう
セットの埃依田 義賢
〈研究ノート〉下野国の長吏旦那場制のびしょうじ
101号(1986年5月)
あたらしい部落史像をもとめて(2)―『こぺる』百号によせて 師岡 佑行
わたしの惚れた人たち 作家の風貌姿勢―野口雨情( 12 )むろあじろう
セットづくり 依田 義賢
近世に生きる人びと11 斃牛馬処理 のびしょうじ
102号(1986年6月)
アメリカにおける黒人問題研究の1争点
―人種的要因と階級的要因をめぐって―
灘本 昌久
わたしの惚れた人たち 作家の風貌姿勢―野口雨情( 13 )むろあじろう
女のしごと依田 義賢
近世に生きる人びと12 節季候山路 興造
103号(1986年7月)
「日の丸・君が代」の強制に反対する小笠原亮一
わたしの惚れた人たち 作家の風貌姿勢―野口雨情( 14 )むろあじろう
なまけて見えるも仕事のうち依田 義賢
近世に生きる人びと13 あるき藤田 彰典
104号(1986年8月)
被差別の陰の貌(上)金時鐘
土方鉄
藤田敬一
105号(1986年9月)
被差別の陰の貌(中)金時鐘
土方鉄
藤田敬一
106号(1986年10月)
被差別の陰の貌(下)金時鐘
土方鉄
藤田敬一
近世に生きる人びと14 小法師辻 ミチ子
107号(1986年11月)
中世から近世へ、被差別民はどう生きたか(上)
―『京都の部落史4 史料近世1』の発刊に寄せて―
辻ミチ子
土方鉄
森谷尅久
守屋毅
山本尚友


このページのトップに戻る

108号(1986年12月)
中世から近世へ、被差別民はどう生きたか(下)
―『京都の部落史4 史料近世1』の発刊に寄せて―
辻ミチ子
土方鉄
森谷尅久
守屋毅
山本尚友
部落問題日録 '86 10.1〜11.8
うちみねんざと芸能界 依田 義賢
近世に生きる人びと15 ささら権藤 芳一
109号(1987年1月)
地対協意見具申・報告書の歴史的位相 師岡 佑行
部落問題日録 '86 11.1〜30
わたしの惚れた人たち 作家の風貌姿勢―野口雨情( 15 )むろあじろう
時代映画づくりの職場 依田 義賢
近世に生きる人びと16 春駒山路 興造
110号(1987年2月)
「大逆事件」と部落対策の転換八箇 亮仁
部落問題日録 '86 12.1〜31
わたしの惚れた人たち 作家の風貌姿勢―野口雨情( 16 )むろあじろう
新しい差別論のための読書案内( 1 ) 『社会変動と偏見』灘本 昌久
近世に生きる人びと17 夙の者田良島 哲
111号(1987年3月)
特集 地対協意見具申のきせき
部落問題日録 '87 1.1〜31
新しい差別論のための読書案内( 2 ) 『アメリカ人種差別の歴史』灘本 昌久
近世に生きる人びと18 刑吏辻 ミチ子
112号(1987年4月)
『京都の部落史』史料近代篇全3冊完結によせて師岡 佑行
部落問題日録 '87 2.1〜28
新しい差別論のための読書案内( 3 ) 『不平等の地理学』灘本 昌久
近世に生きる人びと19 非人番のびしょうじ
113号(1987年5月)
舞鶴東郵便局員結婚差別事件
新しい差別論のための読書案内( 4 ) 『不平等を生み出すもの』灘本 昌久
近世に生きる人びと20 草履・草鞋づくり源城 政好
114号(1987年6月)
「心理」と「思想」の狭間から―藤田敬一著 『同和はこわい考―地対協を批判する―』に寄せて―横井 清
「同和はこわい考」を読む―連載にあたって
新しい差別論のための読書案内( 5 ) 『異人論序説』灘本 昌久
近世に生きる人びと21 旅芝居守屋 毅
115号(1987年7月) 特集・『同和はこわい考』を読む
『同和はこわい考』を読む( 2 ) 地対協との違いはどこに小森 龍邦
『同和はこわい考』を読む( 3 ) 自らを糾す中山 武敏
116号(1987年8月) 特集・『同和はこわい考』を読む
『同和はこわい考』を読む( 4 ) ズシッときて、自ら省みるものあり吉田 賢作
『同和はこわい考』を読む( 5 ) 関係性の迷宮構造八木 晃介
117号(1987年9月) 特集・『同和はこわい考』を読む
『同和はこわい考』を読む( 6 ) まさに一本の楔―小森龍邦さんに土方 鉄
新しい差別論のための読書案内( 6 ) 『汚穢と禁忌』灘本 昌久
近世に生きる人びと22 辻芸人守屋 毅
118号(1987年10月) 特集・『同和はこわい考』を読む
『同和はこわい考』を読む( 7 ) ここちよい殻から脱け出すとき山下 力
『同和はこわい考』を読む( 8 ) 同業者よ、そりゃーないんじゃないかな江嶋 修作
119号(1987年11月) 特集・『同和はこわい考』を読む
『同和はこわい考』を読む( 9 ) 「別れても共にうつ」と思い直して中村 大蔵
『同和はこわい考』を読む( 10 ) 「ふまれた者の痛みは、ふまれたものにしかわからない」か……津田ヒトミ
〈紹介〉『下野国太郎兵衛文書』
―関東部落史研究に加えられる至宝
のびしょうじ
近世に生きる人びと23 雪踏つくり源城 政好
120号(1987年12月) 特集・『同和はこわい考』を読む
『同和はこわい考』を読む( 11 ) 再び「地対協との違い」を問う小森 龍邦
近世に生きる人びと24 非人山本 尚友
121号(1988年1月) 特集・『同和はこわい考』を読む
『同和はこわい考』を読む( 12 ) 率直な書と出会う吉田 明
『同和はこわい考』を読む( 13 ) 「地対協路線」を支えるもの本山 勝美
122号(1988年2月) 特集・『同和はこわい考』を読む
『同和はこわい考』を読む( 14 ) 批判は妥当性をもつか
―部落解放同盟中央本部「『同和はこわい考』にたいする基本的見解」をめぐって―
師岡 佑行
近世に生きる人びと25 院内山本 尚友
123号(1988年3月) 特集・『同和はこわい考』を読む
『同和はこわい考』を読む( 15 ) 私のなかにある両側中島 久恵
新しい差別論のための読書案内( 7 ) 『社会主義と社会的不平等』灘本 昌久
124号(1988年4月) 特集・『同和はこわい考』を読む
『同和はこわい考』を読む( 16 ) 対話の芽を大切に前川 む一
『同和はこわい考』を読む( 17 ) 議論を正しい軌道に梅沢 利彦
125号(1988年5月) 特集・『同和はこわい考』を読む
『同和はこわい考』を読む( 18 ) 部落解放運動をめぐる率直な論議を
―あわせ聞けばあかるく、かたより信ずればくらし―
藤田 敬一


このページのトップに戻る

126号(1988年6月) 『同和はこわい考』をめぐって・1
部落差別を根拠とする権利の合理性について灘本 昌久
『同和はこわい考』をめぐって―連載にあたって
近代に生きる人々・連載にあたって山本 尚友
127号(1988年7月) 『同和はこわい考』をめぐって・2
部落差別は、どのように存在しているのか山城 弘敬
〈投稿〉灘本昌久「部落差別を根拠とする権利の合理性」を読んで内田 雄造
近代に生きる人々1 草履表山本 尚友
128号(1988年8月) 『同和はこわい考』をめぐって・3
被差別部落と貧困―その再生産構造について―山本 尚友
本と雑誌( 1 ) 「ナマケモノ」考池村 六郎
129号(1988年9月) 『同和はこわい考』をめぐって・4
今日における実態的差別―その克服への視点―住田 一郎
本と雑誌( 2 ) 嘘をついている顔池村 六郎
近代に生きる人々2 竹の皮中村水名子
130号(1988年10月) 『同和はこわい考』をめぐって・5
部落青年のアイデンティティー―その現在・過去・未来―今岡順二
中島久恵
灘本昌久
山城弘敬
山本尚友
本と雑誌( 3 ) 週間誌の読み方指南ならびに『ミカドの肖像』池村 六郎
131号(1988年11月) 『同和はこわい考』をめぐって・6
解放をどう展望するか
―多岐にわたって提起された問題について整理してみる―
津田ヒトミ
本と雑誌( 4 ) 『天皇の肖像』を取り上げたくないワケ池村 六郎
近代に生きる人々3 マッチ八箇 亮仁
132号(1988年12月) 『同和はこわい考』をめぐって・7
近代の部落差別と人権―部落差別の定義をめぐって柚岡 正禎
本と雑誌( 5 ) 相対化の視座 『進化しない日本人へ』池村 六郎
近代に生きる人々4 わらじ長尾眞砂子
133号(1989年1月) 『同和はこわい考』をめぐって・8
自らの課題をまさぐる一つの試み
―第5回部落問題全国交流会から―
藤田 敬一
本と雑誌( 6 ) カネとイカ池村 六郎
近代に生きる人々5 番茶刈り小林 丈広
134号(1989年2月)
天皇報道の洪水のなかで師岡 佑行
メディア・メディア( 1 ) ビデオ元年のファミリー池村 六郎
近代に生きる人々6 春駒土方 鉄
135号(1989年3月) 『同和はこわい考』をめぐって・9
同和事業総括の一視点―戦後同和事業略史をつうじて―山本 尚友
メディア・メディア( 2 ) 美人―歴史的社会的考察池村 六郎
近代に生きる人々7 行商人灘本 昌久
136号(1989年4月) 『同和はこわい考』をめぐって・10
同和事業総括の一視点(下)―戦後同和事業略史をつうじて―山本 尚友
メディア・メディア( 3 ) 『レイン・マン』池村 六郎
〔史料紹介〕食事をともにすること師岡 佑行
137号(1989年5月) 『同和はこわい考』をめぐって・11
「差別語」といかに向きあうか(上)―「新平民」「特殊部落」という言葉の歴史―灘本 昌久
138号(1989年6月) 『同和はこわい考』をめぐって・12
糾弾論の系譜―水平社運動における―師岡 佑行
メディア・メディア( 4 ) メディア経験池村 六郎
近代に生きる人々8 くず買い中村水名子
139号(1989年7月) 『同和はこわい考』をめぐって・13
「差別語」といかに向きあうか(下)―差別のフェティシズムを越えて―灘本 昌久
メディア・メディア( 5 ) 見えない場所池村 六郎
近代に生きる人々9 ブラシ金子真知子
140号(1989年8月)
民主と中国李 冬木
抗議文
中国人留学生の人権擁護を求める声明
メディア・メディア( 6 ) 瑣末な話題・ニオイ池村 六郎
近代に生きる人々10 生業1師岡 佑行


このページのトップに戻る

141号(1989年9月) 『同和はこわい考』をめぐって・14
差別糾弾の有効性について山城 弘敬
メディア・メディア( 7 ) 瑣末な話題・臭気池村 六郎
近代に生きる人々11 生業2師岡 佑行
142号(1989年10月) 『同和はこわい考』をめぐって・15
同和教育における学力保障稲垣 有一
メディア・メディア( 8 ) 瑣末な話題・メンド臭さ池村 六郎
近代に生きる人々12 井戸掘り八箇 亮仁
143号(1989年11月)
京都柳原銀行小史―近代被差別部落の経済力―重光 豊
メディア・メディア( 9 ) 疎ましさ、あるいは疎ましい犯罪池村 六郎
近代に生きる人々13 葱屋(仲介業)前川 む一
144号(1989年12月) 『同和はこわい考』をめぐって・16
図書館の自由と差別表現高木奈保子
近代に生きる人々14 土方小林 丈広
145号(1990年1月)
ヨ―ロッパの宇宙観と差別(上)阿部 謹也
146号(1990年2月)
ヨ―ロッパの宇宙観と差別(下)阿部 謹也
147号(1990年3月) 『同和はこわい考』をめぐって・17
朝日新聞に見る5年間の差別の諸相梅沢 利彦
笑さんのこと奈良本千枝
近代に生きる人々15 膠造り中村水名子
148号(1990年4月)
誕生から葬送へ(上)横井 清
メディア・メディア( 10 ) 「無礼者!」考池村 六郎
近代に生きる人々16 ほうき作り中村水名子
149号(1990年5月)
誕生から葬送へ(下)横井 清
清水紫琴「移民学園」について師岡 佑行
近代に生きる人々17 漫才土方 鉄
150号(1990年6月)
宿・鉢叩村を部落史にどう位置づけるか(上)山本 尚友
151号(1990年7月)
宿・鉢叩村を部落史にどう位置づけるか(下)山本 尚友
紹介『翁の座―芸能民たちの中世』・芸能の担い手を照射する川嶋 将生
紹介『妣の闇』・あれはなんだったのだろうか師岡 佑行
紹介『近江の被差別部落史』・滋賀県における部落史研究の動向亀岡 哲也
152号(1990年8月)
不足をいわない運動(上)―河原地域20年のとりくみ―中村勉
村田徹
村田麗子
薮内重子
吉田花子
山本尚友
近代に生きる人々18 靴直し灘本 昌久
153号(1990年9月)
不足をいわない運動(下)―河原地域20年のとりくみ―中村勉
村田徹
村田麗子
薮内重子
吉田花子
山本尚友
近代に生きる人々19 毛モス買い灘本 昌久
154号(1990年10月)
外骨と部落(上)師岡 佑行
メディア・メディア( 11 ) 「魔」のさすとき―あるいは「プッツン」考池村 六郎
155号(1990年11月)
外骨と部落(下)師岡 佑行
メディア・メディア( 12 ) 校則が奪うもの池村 六郎
156号(1990年12月)
日本中世における聖別と賎視の諸相(上)網野 善彦
メディア・メディア( 13 ) 『ダイ・ハード』DieHard池村 六郎
近代に生きる人々20 法界屋中村水名子


このページのトップに戻る

157号(1991年1月)
日本中世における聖別と賎視の諸相(下)網野 善彦
メディア・メディア( 14 ) 路上幻景池村 六郎
158号(1991年2月)
照射しあう「私」と現代と中世文化
―横井清著『光あるうちに』を読む―
藤田 敬一
部落につくられた牢屋山本 尚友
近代に生きる人々21 くつ小林 丈広
159号(1991年3月) 野間宏さんを悼んで
『暗い絵』の頃―野間宏君を悼む―奈良本辰也
深夜の電話師岡 佑行
メディア・メディア( 15 ) 占いと女性池村 六郎
近代に生きる人々22 人力車夫灘本 昌久
160号(1991年4月)
解放新聞とわたし土方 鉄
メディア・メディア( 16 ) 表情の多面性池村 六郎
近代に生きる人々23 バラス上げ中村水名子
161号(1991年5月)
湾岸戦争と西光万吉の和栄政策師岡 佑行
戦争観仲田 直
メディア・メディア( 17 ) ハトポッポ池村 六郎
162号(1991年6月)
櫓銭について山路 興造
求められるのは「負担と犠牲」か―師岡さんの西光論によせて―梅沢 利彦
163号(1991年7月)
西光万吉の和栄政策をどのようにとらえるか
―梅沢利彦・福田典子さんの批判にたいして―
師岡 佑行
メディア・メディア( 18 ) 装いとしての無関心と無関心の装い池村 六郎
近代に生きる人々24 蛇捕り藤田 敬一
164号(1991年8月)
江戸時代の肉食観―穢れの問題を中心に―原田 信男
柳原銀行保存の動き山本 尚友
近代に生きる人々25 瓦づくり(上)中村水名子
165号(1991年9月)
差別って、いったい何だろう―『ちびくろサンボ』に考える―灘本 昌久
166号(1991年10月)
「民主原理」の欠落―師岡さんの反批判によせて―梅沢 利彦
戦後思想を超えた西光万吉の主張師岡 佑行
柳原銀行の保存基金運動前川 修
メディア・メディア( 19 ) 映画館で考えた池村 六郎
近代に生きる人々26 瓦づくり(下)中村水名子
167号(1991年11月)
人間どうしの関係をつくりあげるために(上)出倉純
高木奈保子
柴田則愛
小林丈広
168号(1991年12月)
人間どうしの関係をつくりあげるために(下)出倉純
高木奈保子
柴田則愛
小林丈広
169号(1992年1月)
部落の《いま》をどう見るか山下 力
170号(1992年2月)
「鮮人」呼称について
―1992年・秀吉の朝鮮侵略開始4百周年と関連して―
金 光哲
メディア・メディア( 20 ) 油まみれの水鳥池村 六郎
171号(1992年3月)
差別と自立―自立の多義性をめぐって―東谷 修一
メディア・メディア21 ふりかえる池村 六郎
感想・「部落の《いま》をどう見るか」市川 正昭
172号(1992年4月)
過去と対話する感性(上)―『京都の部落史2近現代』をよんで―井上清
師岡佑行
藤田敬一
173号(1992年5月)
廃刊のごあいさつ京都部落史研究所
過去と対話する感性(下)―『京都の部落史2近現代』をよんで―井上清
師岡佑行
藤田敬一


このページのトップに戻る

京都部落史研究所報/こぺる/京都部落史研究所報(復刊号)/京都部落史研究所紀要/『京都の部落史』第1巻・第2巻目次


トップご案内業務内容図書情報販売書籍Memento
|京都部落史研究所刊行物目次|古書市人権関係テレビ番組情報リンク