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Memento 3号(2001年1月25日発刊)
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学生諸君! 部落問題で卒論を書こう!
灘 本 昌 久

1.部落問題研究の盛衰
1981年3月、私は大学の史学科を卒業した。卒論題目は「高松差別裁判糾弾闘争」。史学科卒業のうち現代史専攻は12人で、このうち私を含む4人が部落問題を卒論のテーマにとりあげて卒業した。現代史専攻といっても、カバーしている範囲は広く、ラテンアメリカやヨーロッパなど、世界中を相手にしている中での、部落問題4人。まさに、部落問題研究の「黄金期」だった。少し先輩にあたる、和気隆さんの論文「水平社解消論」(『部落解放研究』16号、1978年12月)も卒論で、その年度で最も優秀な卒論のひとつであったそうである。

当時は、狭山差別裁判闘争がきっかけとなって、いろいろな市民団体や学生運動が部落解放運動にぞくぞくと参加してきていた時期で、同和事業も上り坂の時期でもあった(予算的にみると、ピークは1984年で、国と地方自治体あわせての、年間の同和予算は約8000億円にのぼった)。全国の大学には、無数の部落解放研究会があり、活発な活動をくりひろげていた。

その後、学生運動が低迷する中で、全国の学生部落研活動も1980年代の半ばごろには、ほとんど開店休業状態に陥った。そして、部落問題を卒論に書いて卒業していく人も、昔に比べてずいぶん少なくなった(これは、私の個人的体験からの推測で、どれくらい減っているかは定かではない)。

しかし、部落問題研究は、もうされつくされてしまったのだろうか。私は、そうではないと思う。確かに、今まで、膨大な研究がなされては来たのだが、それらは概して解放運動の教育・宣伝活動にそった内容で、運動からの距離をおいた、「客観的な」研究は、最近始まったばかりといってもいい。運動と表裏一体の研究もそれなりの存在価値はあるが、そうした研究は、運動の衰退とともに忘れ去られていくもので、アジびらと似たような運命をたどるしかない。

2.歴史研究の視座
歴史研究で考えても、研究はこれからだ。たとえば、そもそも部落差別の起源は何に由来するのか、あるいは被差別部落という集団はどうしてできたのかという研究も、まだ始まったばかりで、私自身、すっきりした結論にはたどりつけていない。それもそのはずで、横井清氏や落合重信氏などのごく少数の人が、今の中世起源説につらなる研究をされていたとはいえ、それらは黙殺されるか悪くすれば禁圧の対象となるのが関の山で、教育現場での需要ともなればまったくなく、長い間、近世権力・幕藩体制が成立したときに政治的な目的で支配の道具として作られたという、今となっては普通の研究者は誰も信じていない「近世政治起源論」の枠組みにかなりしばられていたのである。

近代の研究もそうで、私の世代がやっていた研究は、水平社運動はりっぱで、糾弾は正しく、あとはそれらの功績を証明し顕彰するというニュアンスが強かった。また、その反対に近代国家は悪で、差別の元凶・張本人であるとするようなスタンスで研究がなされてきた。しかし、最近の朝治武氏の一連の研究に触れて、私はいかに水平社運動の研究も、限られた視点、あるいは、左翼的偏見でやってきたかを痛感させられた。たとえば、「創立期全国水平社と南梅吉(上)(中)(下)」(『京都部落史研究所報』10-12号、1999.7-2000.1)で、朝治氏は全国水平社の初期の財政を明らかにし、初代委員長南梅吉が水平社の組織活動などのためにつくった莫大な借金にたいし、有馬頼寧(旧久留米藩主有馬家の長男で、のち伯爵、貴族院議員)が6700円という巨額の支援を与え、その後も、京都の保守政治家(主に憲政会)が南にさまざまな援助をあたえたことを論じている。確かに、掛谷宰平、秋定嘉和、藤野豊ら諸氏による有馬に関する先行研究があったのだが、私は彼の功績などは、エピソードか伯爵家ボンボンの道楽ぐらいにしか考えておらず、水平社の屋台骨を支えるほどの金額と援助内容であるという認識には至らなかった。水平社創立にあたった米田富さんから、有馬が関西方面を列車で通過するたびに、通過駅まで歓迎に行って、しばしばカンパを受け取っていたことを私自身聞いていたのだが、左翼的偏見がわざわいしてか、そうしたことをしっかり研究する気がなかったのである。

また、朝治氏は、「全国水平社の組織原理」(『大阪人権博物館紀要』4号、2000年)で、全国水平社の規約を詳細に検討している。水平社運動を研究しながら、今まで規約を細かく検討したことのなかった自分の不勉強を恥じるばかりであるが、水平社の規約が時々の改正によって6種類もあることをはじめて知った。規約の検討などは、組織の実態を明らかにする基本中の基本であるはずなのだが、私もしてこなかったし、他の人もおそらくやっていないと思う。それほど、基礎的研究に穴がある。

私が、卒論を書いたころは、まだまだ社会運動研究の中で、「獄中18年史観」、すなわち、天皇制に反対して闘った徳田球一など、三・一五事件(1928年)で逮捕され非転向を貫いた共産主義者を基準にして、すべてを評価するという傾向が強く、社会民主主義者の功績を評価することでさえ、渡部徹・秋定嘉和氏らごく少数の研究者がなしえた程度だったので、それより「右」の人々の功績など、まったく過小評価していたのである。

こんな有様だったので、水平社と対立した融和運動や融和事業の評価も、概して過小評価しており、1951年のオールロマンス事件をきっかけに、運動が同和事業を要求するまでは、なにほどのことも行政はしていないし、する気もなかったという先入観が強かったように思う。しかし、師岡佑行氏の「幻の住宅建設計画―戦時下京都市融和事業の挫折― 」(『京都部落史研究所紀要』8号、1988.3)で明らかなように、京都市の歳入額が2300万円の時に、総額2000万円に達する不良住宅地区計画の10ヵ年計画を策定した京都市の融和事業は、かなりの本気といわねば公平を欠いた評価といわなくてはならない。しかし、行政の融和事業に最初から低い評価を与えていたので、融和事業の実証的研究はまだまだこれからである。たとえば京都府立総合資料館には、膨大な行政文書が残されており、融和事業に関しても、細かい工事の実施計画や仕様書などが含まれているが、それらが、どの程度部落の改善に貢献したかなどの研究はほとんど手付かずの状態である。今までの様々な行政施策の功罪を明らかにして、今後の社会政策を考えていく上では、重要な作業だろう。

3.社会学的・政治学的アプローチ
以上は、歴史学からみた部落問題研究の今後であるが、政治学や社会学研究からみると、さらに部落問題は未開拓の領域である。従来から、オルソンの集合行為論、スメルサーの集合行動論、相対的剥奪論、構築主義、「新しい社会運動」など、先進資本主義国における社会運動については、多くの研究がなされてきており、成果もあげている。そして、日本でもそれらの翻訳がたくさん出されているのみならず、日本に適用した様々な論文が発表されている。しかし、研究対象としているのは反公害運動であったり、有害図書禁止運動であったりはするのだが、部落解放運動を対象にしている研究は皆無に近い。その結果、部落解放運動研究の理論的基礎は、あいかわらず窮乏革命論という素朴でマルクス主義的な解釈を出ない。つまり、差別・抑圧への反撃・反発・反動としてしか、部落解放運動を理解できず、心理的要因や経済的利害は分析対象からはずれてしまっている。また、その結果、運動団体も自分たちを客観的に映す鏡を持つことができず、運動の長期的展望を考える上での理論的助けを借りることができない。

たとえば、オルソンが『集合行為論』の中で検討していることは、部落問題研究の立場から、たいへん興味深いものである。普通、社会運動というものは、そのグループの共通利益を実現するため(たとえば、労働組合は労働者階級の待遇改善)に存在すると、通俗的には理解されている。しかし、運動の結果もたらされる利益(たとえば賃上げ)は、運動に尽力しなかった人にも供給されるという、フリー・ライダー(ただ乗り)問題が発生する。これを部落問題にあてはめると、同和事業の窓口一本化(運動に加わった人、たとえば同和住宅を建てるために、行政との交渉に参加した人にのみ、運動の成果を分配する)などは、上記のフリー・ライダー問題への一つの対策であって、それ自身がいけないことであるとは必ずしもいえず、むしろありうべき方策であると考えられる。これを批判する共産党系の人々は、利権団体のひとりじめであると批判し、部落解放同盟は、同和事業は手段で、部落完全解放が目的であるという立場を表明して、激しく対立してきたことは周知のとおりである。ここでは、その当否はさておくとして、さまざまな社会運動が、どのような利益を追求しようとするのか、そしてその際、フリー・ライダー問題をどのように解決しようとしてきたのかは、アカデミックに検討する価値のあることである。

紙数の都合で、他の社会運動理論の紹介は省くが、これまでになされてきた社会運動の研究は、部落解放運動研究に応用できるものがたくさんありながら、それがなされてはこなかった。こうしたことも、歴史の分野と同じく、これからの課題である。
この他にも、部落問題に関する文学の研究、あるいは部落問題と宗教の関係等々、今までの枠組みを乗り越えなければならない研究領域は、広範囲にわたる。

4.資料センターの説明会
部落問題研究はこれからまだまだ発展する余地があるし、また発展させて次の時代のよりよき社会建設に役に立てたいものだ。

そこで、当センターとしては、近日、できれば5月のゴールデンウィーク明け頃に、部落問題(あるいは、関連した分野)で、卒業論文、修士論文、博士論文など、研究論文を書こうとされる方を対象に、所蔵資料の説明会を開催しようと考えている。当センターには、部落問題関係の図書が1万5670冊、京都市の行政関係資料を中心とする近代史料が613点、京都府下の同和地区に残されていた古文書などの近世史料が7737点、その他、写真資料や聞き取りテープ、年表カードなど、膨大な史料が自由に閲覧できるように整理されている。ただ、あまりに膨大なため、どうぞご自由にとすすめられても、途方に暮れてしまう分量ではある。それを研究に生かせるように、系統立てて、大まかなアウトラインを頭に入れていただこうという企画である。詳細は、追って広報しますので、その節は、多くの学生、院生、研究者の方々が参加してくださいますよう、お願いします。もちろん、一般の参加も歓迎です。
最近こんな映画を観ました(2) 松江哲明監督『あんにょんキムチ』と李相日監督『青〜chong〜』
前 川修
京都新聞(2000年1月20日)の「話題の映画『あんにょんキムチ』来月、関西で初公開」という記事に釣られて、2000年2月19日に洛陽教会の地下ホールでおこなわれた上映会にいった。この映画の監督で主人公の松江哲明は、5歳の時に家族とともに日本国籍になっているが、祖父の松江勇吉(劉忠植)は言語上の問題から日本国籍が認められなかったという。『あんにょんキムチ』は松江監督が8年前に死んだ祖父のことを調べるドキュメンタリー映画で、親戚や祖父の友人へのインタビューや韓国の祖父の故郷への訪問などで構成されている。日本映画学校の卒業制作作品で、山形国際ドキュメンタリー映画祭などで受賞している。

映画が始まって数分後、期待に胸を膨らませていた私は失望感に襲われていた。「卒業制作なので、しょうがないか」とも思ったが、入場に2000円近くも払っていたために、「金とってみせる映画じゃないよ」と愚痴りたくもなっていた。なんとか元を取ろうと頑張ったが、土曜の昼下がりでもあり、1週間の疲れと共に、生あくびを連発していた。「在日」青年が自らのルーツを探すドキュメンタリーは何本が観たことがあるが、最も出来の悪いものだった。間延びしたインタビューが延々と続いたり、話者が体を動かすと顔が画面から半分はみ出すなどの素人としか思えない撮影と編集である。民団の集会で、松江監督がワンテンポ遅れて「マンセー」をするシーンや祖父の墓の前で、苦手なキムチを食べて吐き出すシーンは笑いをとるために撮られたのだろうが、白けてしまい笑う気力もおこらない。ラストシーンは、親戚に日の丸と大極旗を持たせ、どちらに帰属意識を持つかを選ばせるのであるが、国家という枠組みでしか帰属意識をとらえられない、お粗末な考え方を露呈しているようだった。

1時間ぐらいでたいくつな映画が終わり、松江監督のトークが始まった。実によくしゃべる。3,40人ほどいた観客はトークに聞き入っているようなので、『あんにょんキムチ』は実は素晴らしい芸術性をはらんだ作品で、それを理解出来ないのは私だけなのではないかと不安になっていった。しかし、「金とってみせる映画じゃないよ」と感じていたのは私1人ではなかった。松江監督のトークが切れた時、初老の婦人が発言をした。「松江さん、NHKで『日本映像の20世紀』というドキュメントを放送しているのご存知ですか。一度、ご覧になったらよろしいと思いますよ、大変参考なりますよ」と。私はおもわず「キッツー」と声を漏らしそうになったほど、京都らしい皮肉たっぷりな言い回しだった。私同様の感想を持った観客がいたことに安堵して、松江監督のトークが続く会場を後にした。

『青〜chong〜』という劇映画も観に行った。この映画も『あんにょんキムチ』同様に、日本映画学校の卒業作品として李相日監督が制作したもので、第22回ぴあフィルムフェスティバルでグランプリを受賞している。NHK教育の「にんげんゆうゆう」で「シリーズ ぼくらコリアンジャパニーズ/朝鮮高校の青春〜映画『青chong』〜」(2000年10月31日放送)と題して、李監督と映画評論家で日本映画学校の校長を務める佐藤忠男が出演し、この映画の解説とダイジェスト版が放送された。この放送にまた釣られて、2000年12月8日に「ぴあフィルムフェスティバルin関西2000」の大阪会場である扇町ミュージアムスクエアに『青〜chong〜』を観にいった。朝鮮高校の野球部のエースを中心に、彼の周囲でおこる出来事を描いた青春映画である。姉が日本人の恋人を両親に紹介するが総スカンをくらい、突然決まった高野連加盟で嫌々試合をするがあまりにもレベルが違いすぎるために惨敗し、片思いの幼馴染が日本人と付き合っているためにクラスでいじめにあったり。

映画を観る前は、『あんにょんキムチ』の後遺症もあり今回も期待を裏切られるものではないかと、内心ヒヤヒヤしていた。しかし、『青〜chong〜』は予想以上に優れた映画だった。李監督は映画が娯楽だということをよく知っていて、観客を飽きさせない工夫が凝らされている。オープニングから面白い。主人公たちが不良にからまれて、「チョン高の名前出せば、俺らがビビるとでも思ってんのか。証拠でもあるのか?」と言われ、外国人登録証を取り出すのである。思わず爆笑したが、会場で笑っているのは私だけだった。コミカルに速いテンポで描くシーンとゆっくりと内面描写をするシーンを上手に使い分けながら、観客を飽きさせることなく引っ張っていく。主人公が幼馴染の少女と浜辺で野球をして遊ぶシーンは、どこかで観た懐かしい青春映画を思い出させてくれる。多くの日本人にとって好奇と偏見の対象になりがちな朝鮮高校の生徒たちだが、彼らも普通の青春を過ごしていることを納得させてしまう。ラストシーンでは、一度は野球を辞めようとしていた主人公が地区予選のマウンドに立ち、様々な悩みからふっきれた様子が映し出される。キャッチャーの友人が駆け寄り、応援に来た朝鮮高校の友人や親戚を見ながら会話が始まる。「すっげえーなぁ、オレ今日ほど自分が朝鮮人と思わされた日はないよ」「やめたいか、朝鮮人」「バッカやろう。オレは生まれ変わっても朝鮮人でいいよ」「そうだよな、なっちまったのはしょうがねえからな」「そうだよな、なっちまったのはしかたねえものな」と。

なお、ぴあフィルムフェスティパルの主催者の話によると『青〜chong〜』は評判がよいため、一般の映画館でも公開されることとなり、まず東京で上映されるとのことです。

紫明だより
ホームページを開設してから3ヵ月になりますが、今のところトラブルもなく順調です。カウンターは1600人を越えていますが、多いのか少ないのかよくわかりません。ホームページを見た方から、メールも届くようになりましたが、中にはアメリカからのメールもあり、「世界中で見れるんやなぁ」と当たり前のことに驚いています。Memento2号も1号同様に、ホーム・ページで読むことが出来るようになっています。京都は雪もちらつき、とにかく寒い日が続いています。(P)紫明だより

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