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Memento 4号(2001年4月25日発刊) 読み物 | ||
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追悼 奈良本辰也先生 | ||
師 岡 佑 行 | ||
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奈良本辰也先生は2001年3月22日、京都市内の病院で亡くなられた。先生には京都部落問題研究資料センターの前身にあたる京都部落史研究所の発足にあたってもつよいご支持をいただき、毎年の総会にはかならず老躯を運ばれた。晩年、足を痛められてからは奥さまの千枝さんが付き添われ、欠席なさることはなかった。若い人たちの姿に接するのは気持ちのよいものだと、よく語られたものだった。在りし日の先生をお偲びするとともに、お寄せいただいたご厚情に深く感謝を捧げたい。 奈良本辰也先生は1913年(大正2)12月11日、風光明媚な瀬戸内海の島、山口県の大島でお生まれになりました。岩国中学校から旧制松山高等学校に進み、さらに京都帝国大学文学部において国史(日本史)学を専攻されたのでありました。 先生の学生時代は、野間宏氏の小説『暗い絵』の時代であって、この小説の登場人物は先生の親しい友人たちで、わずかな良心のひとりとして戦争に抗しておられました。西田直二郎先生に師事され、文化にたいする強い関心を抱かれます。1938年(昭13)に卒業後、但馬の県立豊岡中学校の教壇に立たれましたが、清新と自由と陽性のシンボルとして、生徒たちの心を引き付けました。作家の山田風太郎さんはそのひとりです。 間もなく京都に戻られ、京都市史編纂所に勤務されますが、1943年5月、最初の著作として『近代陶磁器業の成立』を刊行されます。戦争末期、八紘為宇、神国日本は不敗だとの皇国史観が風靡するなかにあって、研究対象に陶磁器を取り上げられたこと自体、静かな抵抗であり、時局に対する先生の姿勢をみごとに示すものでありました。 戦後、故郷に帰られていた先生は京都に戻られます。敗戦の翌1946年、立命館大学文学部の専任講師となり、48年には教授に就任されました。以後、1969年までの23年間、同大学に在籍され、盛名を慕うもの多く、文字通り立命館大学の花形教授でありました。ただし、後述するような理由から名誉教授の称号をもらっておられないことは特記されます。 京都に戻られた先生は、明治維新をテーマに、精力的に研究をすすめられ、1947年には論文「郷士=中農層の積極的意義」を発表され、颯爽と学会にデヴューされたのでした。戦後初期のご研究には、『資本論』やF・ボルケナウのつよい影響がうかがえますが、いずれも学生時代、長谷部文雄さんや梯明秀さんのもとでひそかに研究された成果を基礎とされたものでありました。 1951年、岩波新書の1冊として刊行された『吉田松陰』は、多くの版を重ねました。米ソの対立のもと占領下にあって、民族の独立をもとめる運動に呼応するものとして歓迎されたのでした。戦争の傷痕からどう立ち直るかが緊急の課題でした。両陣営の一方に片寄らない全面講和をもとめ、末川博立命館大学学長ら知識人は平和問題談話会を結成しましたが、気鋭の学者として先生も参加され、オピニオン・リーダーのひとりとして活躍なさいました。 先生とはじめてお会いしたのは1953年、立命館大学文学部3年生に編入したときのことです。以来、すでに半世紀に近い日々が流れています。学問とはなにか、研究をすすめるとはどういうことか。人として物事をどのように処するかについて、ことに触れて教えていただきました。それだけでなく、持病で入院したあと、予後の療養のために、半年近く淡路島の別荘を貸していただくなど、深い恩顧を受けてまいりました。 大学のゼミナールのテーマは戦後史でした。おそらく、当時、敗戦後、わずかに8年、戦後史を対象にゼミを開いた大学はどこにもなく、破天荒なこころみでありました。先生の指導は、学生の報告にたいして、概念の使い方があいまいだったりすると、容赦なくとがめられ、思わず泣き伏した女子学生がいたほどきびしいものでした。 ある講義のなかで、先生は「鳥羽殿へ五六騎急ぐ野分哉」という蕪村の句を示され、どう思うかと感想をもとめられました。保元か、平治の合戦か。いずれにせよ、その緊迫した情景をよく伝える、この一句に匹敵する叙述が大事なのだ。「考証のプロセスは、全部書かずともよい。結論を端的にまず述べよ。その結論が、他者によってたしかめ直されていく過程で、考証の手固さが明るみに出てゆく」。中世史の横井清さんが書きとめられたところですが、ここに奈良本史学の真髄が込められています。 もちろん、こわいばかりの先生ではありません。学生の研究旅行にかならず同行され、懇親会にもすすんで参加されました。お酒を愛され、斗酒をも辞せずと痛飲され、はては民謡、それに流行歌をつぎつぎと歌われました。もっとも、歌詞は正確なのですが、一本調子で、よく「奈良本節」がはじまったと冷やかし、唱和したものでした。 歴史家としての大きなお仕事は、編纂の中心となられた『日本歴史大辞典』全20巻(河出書房新社刊行)であり、「毎日出版文化賞」特別賞を授与されています。また、『社会科学大事典』全20巻(鹿島研究所出版会刊行)の編纂に当たられました。前者は小項目主義で引きやすく、初学者にも大いに利用され、図書館で背表紙がボロボロになったのをよく見かけたものです。1966年には、先生の主宰する部落問題研究所は部落問題研究の業績によって朝日賞を受賞しています。いずれも、多くの学者、研究者によって執筆されるものであり、協同の作業によって成就するものであって、人望と信頼がなければ、その中心に立てるものではなく、先生のお人柄によるものでした。 しかし、先生の歴史家としての真骨頂は『吉田松陰』をはじめとする評伝にありました。このほか、高杉晋作、前原一誠、西郷隆盛、二宮尊徳など、枚挙にいとまのないほど、歴史上の人物の評伝をのこされています。そればかりでなく、淡路島の別荘によく遊びに来ていたグンちゃんの愛称をもつ島の人砂河郡次、叛骨の生涯を送られた岳父の渡辺毅、漂泊をこととした伯父に当たられる方、風流人だった画家小栗美二ら、市井に生きた人々についての評伝とよぶべきものを遺されています。評伝。ここに先生の歴史観の核心がみられます。歴史とはなによりも人間がつくり出してきた。邪悪なものも少なくないが、同時に数々の見事なものを創り出してきた。後者に着目して、人間の可能性を追究し、それを現在に生かしていきたい。先生には『楽天主義』という著作もありますが、まことに向日性ともいうべきご性格で幾多の困難を乗り越えられて来たのでした。 先生は評伝だけでなく、『京都の庭』など庭園、寺院建築、骨董、酒、紀行文など、ひろいジャンルにわたって文章を遺されています。これは人間への深い愛情と関心からであり、かずかずのエッセイによって読者を引きつけ、多くのファンが生まれました。学者だけでなく、むしろ芸術家や作家、文学者など、当代を代表する方々との交友が多かった所以もこのところから来たと申せましょう。 しかし、そればかりではありません。だからこそ、邪悪なことは徹底して憎まれました。理不尽さを見逃すことができず、ことに衆を恃んで、少数を圧殺しようとする動きにたいしては、反骨の精神を燃え上らせました。ダンディにして侠気の人でした。 歴史的にながく日本の底辺に置かれ、賤視を受け、差別されてきた部落に対する強い関心がそのひとつです。はじめて部落についての本格的な研究をすすめた部落問題研究所の所長として、部落問題や部落の歴史を研究する最前線に立たれました。朝田善之助氏や三木一平氏、木村京太郎氏らによってつくられた研究所の所長に迎えられた先生は研究所の研究機関としての充実につとめられました。1960年代のはじめ先生は、独占資本は部落差別を助長することはなく、部落の改善をはかるという論文を発表し、井上清氏らとの間にはげしい論争を生みました。いま、あらためてかえりみると、65年の同対審答申、69年の同和対策事業特別措置法にはじまる十数兆円におよぶ部落への国、地方自治体の巨額の資金投下を、先生は予言せられていたといえます。このことにわたしたちが気付き、この動向をきちんと捉えきっていたならば、部落解放運動が、あるいはそれによる部落の変貌に心を奪われ、あるいは法と予算に目をくらまされてしまうことはなかったかも知れません。 奈良本先生の主張にたいして、返ってきた答えは総スカンに等しいものでした。先生の見方に反発するものが多く、部落問題研究所に内部亀裂が生じました。研究所は部落問題研究の業績によって、朝日賞を受賞しましたが、その直後に先生は、部落解放運動の内紛にかかわって所長を辞職されたのでありました。 その後、1977年、京都部落史研究所の発足にあたっては、絶えず力強い激励と支持を与えられたばかりでなく、代表委員のひとりとして内部にあって支えていただきました。また、朝田教育財団の理事長にも就任なさっていますが、朝田善之助氏との友情からであり、ともに任侠の精神の発露ともいうべきものでありました。 これよりさき、1969年、先生は立命館大学教授を辞められました。数に頼って少数意見を受け入れない独善的な運営に堪えられなかったのです。全共闘学生による「わだつみ像」破壊にも支持を表明されました。平和と民主主義が、内容を伴わず、形式に流れていることにたいする抗議でありました。 あの時以後、三〇数年。大学はマンモス化し、当時、批判の対象だった産学協同はいまや大学経営の核心に据えられています。人心の荒廃は目をおおうばかりの、20世紀を越えた現在、すべては根底から見直すことを迫られていますが、このとき先生が選ばれた思想と行動をあらためて顧みることは欠かせません。 大学を辞められた先生は小さな研究所をつくられますが、間もなく自宅に研究室を設けられ、左方郁子さん、高野澄さんらの助力を得て、著述をはじめ、各地で講演され、テレビに出演されるなど、八面六臂のお仕事をつづけられたのでした。 1990年から雑誌『フロント』に「日本の滝紀行」を連載され始めます。78歳のご高齢でした。そして1997年、あらためて『日本の滝紀行』上下2冊の大冊として世に問われました。神に近づかれた先生は、滝という自然に眼を向けられました。だが、読んでいてつくづくと思い知らされるのは、日本各地百八に及ぶ滝のそれぞれに込めた人間の心であり、人間によってとらえられた歴史のなかの滝であるということです。滝それぞれの見事な美しさだけでなく、文人、墨客が詠い、詠んだ和歌、俳句、漢詩、あるいは民謡の数々が散りばめられ、絢爛たる姿をしめされました。しかも、先生の博識がけっして目立つのでなく、滝のなかにとけ込み、滝の音となって響いて参ります。 脚を痛められていた先生はおひとりでは急坂の多い、滝にまで行くことはできません。かならず、奥様が同行されて介添えなさいました。ベレー帽をかぶられ、ステッキをついた、お痩せにはなったが背筋を伸ばした長身の先生と、ひたと付き添われた奥様の姿が浮かんでまいります。奥様の愛情あふるるご協力なしにはけっして生まれることのできなかった著書であります。90歳に近い最晩年、このようにして大著を世に送られたことは、ただただ感嘆の極みであります。 先生の一生は、小事に拘泥せず、陰謀を廻らさず、闊達自在な自由人としての生涯でありました。ファンも多かったが、敵視する人たちもけっして少なくありませんでした。多くの著作、各地での講演、テレビジョンへの出演などから来るやっかみに由るものです。 位階なく、勲章なく、名誉教授の称号もなく、博士号さえない。野にあってひとりの歴史家として屹立されていた先生。奈良本辰也先生は、俗に似て、俗に非ず、まさしく反俗の人でありました。合掌。 | ||
部落史の中の「虚構」と「神話」 | ||
前 川 修 | ||
最近「オール・ロマンス事件」について話す機会が何回かあった。主なものは、2001年3月3日の第32回部落解放京都市集会での「オール・ロマンス事件の見直し」と題した報告と、3月10日に大阪人権博物館での「オール・ロマンス事件の実像」と題したキムチョンミ氏との対論だった。準備のために、現在「オール・ロマンス事件」がどのように記述されているかを調べてみたが、呆れるものが多かったので、そのいくつかを紹介したいと思う。 「オール・ロマンス事件」を学習したことがある人は、京都市の各部局担当者を集め、京都市内の地図を用いて低位な実態のある地域に赤丸の印を付けさせ、その印が部落に集中したために、京都市行政の差別性が明らかになり、この交渉によって京都市の同和行政が大きく転換したとするエピソードを聞かされたり、読んだことがあるはずた。私はこのエピソードを「地図を広げた交渉」と呼んでいるが、「オール・ロマンス行政闘争」の最中に実際におこなわれたかは疑わしい。1991年11月に京都部落史研究所(当京都部落問題研究資料センターの前身)が発刊した『京都の部落史』2近現代は、「オールロマンス事件と行政闘争」の項目があるが、史料的な根拠がないため「地図を広げた交渉」は記述されていない。そればかりか、京都市の同和行政の転換は朝田善之助氏と親交のあった行政職員によっておこなわれたことを明らかにし、戦後部落史を大きく書き換えるものになっている。つまり、現在の部落史にとって「地図を広げた交渉」は、無用の長物となっているのである。にもかかわらず、この「地図を広げた交渉」にしがみつく人たちがたくさんいる。 東上高志氏は「部落問題研究所の五〇年」3(『部落』通巻606号,部落問題研究所,1996年6月)で,「私の『差別』(三一書房)より引用してみよう」と断り、次のような文章を掲載している。 各担当部課長の手によって赤丸が市内の各所に入れられていきました。初めは市長も余裕をもって見守っていましたが、だんだん顔が青ざめていきました。そうです。その赤丸が、市内の特定の場所に重なっていたからです。その場所が市内に八か所ありました。その、全部が未解放部落だったのです。 この文章は、東上氏自身の著書である『差別』(1959年)から引用したはずなのに、大きく書き換えがおこなわれている。原文では、次のようになっている。 各担当部課長の手によって赤丸が市内の各所に入れられて行きました。どうでしょう。それが全部、見事に重なっている場所が市内に十八ヵ所あったのです。東三条部落でした。東七条部落でした。田中部落でした。そうです。全部が全部とも未解放部落だったのです。 以前、私は「『オール・ロマンス事件』と『オール・ロマンス行政闘争』の史実を求めて」(『部落解放史ふくおか』80号,福岡部落史研究会,1995年12月)で、東上氏の『差別』を次のように指摘した。 「未解放部落」を「十八ヵ所」としているが、それは「オール・ロマンス行政闘争」当時の京都市内の部落の数ではない。一九五七年に久世郡淀町が京都市伏見区に編入され、一九五九年に乙訓郡久世村が京都市南区に編入されることにより、京都市内の同和地区は一八地区となるのである。これは、執筆された当時の状況を「オール・ロマンス行政闘争」当時に投影したものである。 赤丸が重なった場所が「十八ヵ所」から「八か所」になっているのは、単なる誤記ではない。京都市には、戦前・戦中に70箇所以上の不良住宅地区が存在したが、特に不良度の高い「八大不良住宅地区」(楽只、養正、錦林、三条、壬生、崇仁、竹田狩賀、深草加賀屋敷)の改良事業をおこなおうとしていた(前掲『京都の部落史』2近現代を参照)。東上氏は、赤丸が重なった場所を「八か所」に書き換えることで、「地図を広げた交渉」に整合性と正当性を持たそうとしているのである。東上氏は、キムチョンミ氏が『水平運動史研究−民族差別批判』(現代企画室、1994年)で、小説「特殊部落」は朝鮮人を描いた作品であり、「京都府連は、朝鮮人差別を意図的にかくすことにしたのである」との指摘に対して、「私は部落問題を普及するために、沢山の書物(テキストも含む)を書いてきた。そのなかで『オール・ロマンス事件』をとりあげ、『虚構』を広めてきた。『神話』づくりに手を貸してきた」「きちっとした自己批判をしなければならない」(前掲「部落問題研究所の五〇年」3)と述べているにもかかわらず、新たな「虚構」と「神話」を作り出しているのである。 このような書き換えをおこなうのは、東上氏だけではない。『大阪の部落問題』106号(大阪市同和問題研究室、1967年11月)に豊田慶治氏の講演録が掲載されている。 次に土木局長――道巾二米以下の狭い道の比率の高い地域に赤丸を、又舗装されていない主要道路の比率の高い地域に……等々以下13局順々に作業が続けられ、白地図の上に問題所在の赤丸がつぎつぎに打たれてゆきました。 このようにして、赤丸の一番多くついたところ丁度日の丸の様に密集した地域が、大きな丸が8つ、中位の丸が10、それを大きい順に見ていったら、何と全部市内の部落に合致していることがわかったのです。楽只、養正、三条等々……… 豊田氏も東上氏同様に京都市内の部落を18地区としているが、「大きな丸が8つ、中位の丸が10」と八大不良住宅地区を意識したものとなっている。しかし、豊田氏も1996年12月に発刊された『証言・京都市の同和行政−雄々しき仲間たち−』(部落問題研究所)では地図に赤丸を付けた局数を「13局」から「十局」に改め、赤丸がついた地域についても、つじつまをあわせるように18地区から16地区に改めるのである。 すべての質問にすべて赤丸がつけられ、恰も大きな日の丸のように見える処が八ヵ所。準ずる処が八ヵ所。「北から順次、読み上げて下さい。」楽只、養正、錦林(鹿ヶ谷)、三条、壬生、崇仁が即「部落」と一致していたのであった。 「地図を広げた交渉」にしがみついているのはこの二人だけではない。私は前掲「『オール・ロマンス事件』と『オール・ロマンス行政闘争』の史実を求めて」を要約した「『オール・ロマンス伝説』と私」を『こぺる』39(1996年6月)に発表したが、土方鐵氏はこの文章への批判を「小説は小説として読め」『こぺる』48(こぺる刊行会、1997年3月)でおこなった。土方氏は結論として、「地図を広げた交渉」については「当時、京都府連書記であって、現場にいたわたしに、真っ先に聞くべき」だと主張する。しかし、この「小説は小説として読め」の中で、「地図を広げた交渉」があったとも、土方氏自身が参加したとも記されていない。「当時、京都府連書記」だったのであれば、当然「地図を広げた交渉」に参加していたはずなのに、なぜ具体的な証言が出来ないのだろうか。私が知りたいのは歴史的事実で、実際に「地図を広げた交渉」がおこなわれたのなら、「何時・何処で・誰が参加し、そして、この交渉で本当に京都市の同和行政が転換したのか」ということだ。土方氏が「地図を広げた交渉」の証言をおこない、それが立証されるのであれば、「オール・ロマンス行政闘争」の実像がより明確になり、東上氏や豊田氏のつじつまあわせの「虚構」や「神話」は一掃され、前掲『京都の部落史』2近現代も「地図を広げた交渉」という重要な歴史的事実が欠落した部落史として、改訂をしなければならないだろう。 さらに、私が小説「特殊部落」の筆者である杉山清次氏が、東七条の南に隣接する東九条北部の朝鮮人が集住する地域を元に小説「特殊部落」を執筆したと論証することにたいしても、土方氏は「憶測に憶測を重ねることで、なりたっている。なにも事実は押さえられていないのだ」と批判する。 私は、初めて小説「特殊部落」を読んだ時、それまで抱いていたイメージと原文があまりにも異なるために、戸惑いを感じ、「東七条を舞台としているのに、なぜ登場人物のほとんどが朝鮮人なのだろうか」と素朴な疑問が湧いてきた。この疑問を解くために、杉山氏が勤務していた九条保健所が管轄していた地域を調べてみると、東七条は含まれず東七条よりも南を管轄していることがわかった。また、1951年12月13日に京都府連が京都市会に提出した「部落問題に関する請願書」の中に杉山氏は「東七条部落の一部である山王町に、その仕事のためにつねに出向く」とある。山王町は東七条にはなく東九条北部にあり、九条保健所の管轄なのである。そして、山王町には戦前から朝鮮人が集住し、現在もその状況は変わらない。杉山氏は職域やその周辺で見聞きする出来事を元に小説「特殊部落」を書き上げたのである。 さらに土方氏は次のように言及する。 いま一点大事なことは、小説というものは、虚構(フィクション)である、ということだ。東七条とか、塩小路橋とか、実在の地名を挙げている限り、そこは、七条部落が舞台であることは、動かないが、登場してくる人間たちは、実在ではない。図越親分という名は、実在だが、小説に描かれている、登場人物としての、図越親分は、実在の図越とは別人の、小説上の人間である。 図越に限らず、すべての人間は、虚構の人物である。その点を読み誤らないでほしい、ということである。 私も土方氏の言われることに、全面的に賛成である。もう少し付け加えれば、東七条という地域を舞台にしているが、これも虚構の世界であり、現実に存在する東七条とは別のものなのである。つまり、杉山氏が描いた世界は現実に存在する「被差別部落」ではなく、彼が作り出した「特殊部落」という虚構の世界なのである。この点を最初に読み誤ったのは、部落解放全国委員会京都府連合会であり、読み誤ることで「オール・ロマンス行政闘争」は成り立っていたのである。 前掲「部落問題に関する請願書」の添付資料には次のように書かれている。 部落にわ「目やにとうそう、はてわみっちやのハナたれ子たちが、ほんんど裸体に近い風俗でたわむれる空地がある。」「昨日のぞう物は仕末もつがす、片偶にハエのちよおりよおにまかされきつて異臭が鼻をつく」「そして至るところがドブロク密造所」と、生き生きとした実感で彼の差別感を裏付けてゆくだろう。 小説で描かれている「特殊部落」を実在する被差別部落の実態と混同しているのである。さらにこの文章の原文は「朝鮮の目脂癬瘡果ては痘痕の涕たれつ子たちが、殆ど裸体に近い風俗で、砧うつ洗濯女や長煙管を喫かす老人の間を縫つて、遊び戯れている空地があり」(下線は前川)なので、朝鮮人を描いた場面であるのに、朝鮮人とわかる部分をすべて削除し、部落の実態のように書き換えているのである。京都府連は、小説「特殊部落」を読み誤るどころか、作り変えたのである。 また、土方氏は『部落解放』379号(1994年9月)に「オール・ロマンス闘争は演出ではない」という文章を発表し、小説「特殊部落」が「朝鮮人部落」を描いたものとする主張に対して、あくまでも被差別部落が描かれたのだと反論している。 「鉄橋を渡った河原附近は東七条になる。この附近一帯は所謂柳原と呼ばれる広大な特殊部落のあるところ」とある。柳原は、東七条部落の旧称である。小説の登場人物に、朝鮮人が多くでてくるからといって、ここを「朝鮮人部落」とするわけには、いかない。 (中略)被差別部落に部落民がいなくなり、かわって朝鮮人が住むなどということは、どこにもない話だ。したがって、この小説の世界は、被差別部落の一隅が、舞台だということになろう。 (中略) この小説で名前をもった部落民が、登場している。しかも実在の図越親分である。京都の人に聞けば、すぐ確認できる。東七条部落の人だ。 そのほか、名前がでない部落民が、闇米運びのほかにも、多数でてくる。たとえば、洪水を前にして、「図越親分の肝入りで、小学校に部落の有力者を緊急招集し、事態の円満解決と善後処置について、砕心協議を続けていた」とあるからである。 この主張は「小説は小説として読め」とはまったく正反対で、同じ人のものとは信じがたい。小説「特殊部落」を読むかぎりにおいては、「図越親分」は部落民なのか朝鮮人なのかはわからない。また、小学校に集まった「部落の有力者」も部落民なのか朝鮮人なのかはわからない。小説を読み誤ってはならない。 あと1年足らずで水平社創立80周年をむかえるが、これにあわせた部落史発刊の企画をいくつか耳にする。おそらく、これまでの運動史観の強い部落史から脱却して、新しい部落史になると思われる。近年、言われだした「部落史の見直し」は起源の問題だけではなく、部落史全般にわたっておこなわれ、これまで常識とされてきた事柄がいくつも覆されているためである。「オール・ロマンス事件」もその中の一つである。「虚構」や「神話」にしがみついたり、つじつまあわせを繰り返していては、部落史研究の発展の可能性はないのである。 | ||
紫明だより | ||
ホームページを開設して半年がたち、アクセス件数は約4000になりました。人権関係テレビ情報が好評ですが、政局の動きなどで番組が変更されることが多々あります。朝、テレビ欄を見て延期されている番組が多いと、「マイッタナー」と頭を抱えてしまいますし、変更されたのを知らないで、タイマー録画をすると、後で観て「何でこんな番組とったのかなー」と悩むこともあります。/当資料センターの入り口通路に、京都の部落の歴史をパネルで紹介した展示を常設しました。古代から現代までの京都の部落の歴史を、7つの時代に区切り、49枚のパネルで解説したものです。一度、ご覧になって下さい。/5月から事務局体制が少し変わります。(P) |
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