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Memento 2号(2000年10月25日発刊)
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部落解放運動と研究はどのような関係にあるべきか
灘 本 昌 久


1.戦前における運動と研究の関係
部落問題の研究にかかわってきて、早いもので、20年以上が経過している。高校生のときに部落解放研究会をつくって部落問題の勉強と活動をした時代を全部入れると、30年近くになる。この年月をふりかえってみたとき、部落問題を研究していく上での肝心かなめのことがらは何かと問われたら、「運動と研究の関係」が最も重要である、と答えたい。この関係がうまくいっていないと、部落問題解決にとって、さまざまな支障をきたすことになる。

本題の「運動と研究の関係」にはいる前に、第二次大戦後の部落解放運動と研究の関係を見たとき、まず問題とすべきことは国の側に部落問題の研究がほとんどないということである。こういうと、不思議に思われるかもしれないが、戦前の部落問題の研究は、政府・官僚側の独壇場であった。具体的には、政府の外郭団体として中央融和事業協会が設けられ(1925年創立。戦時下の1941年同和奉公会に解体吸収される)、研究誌『融和事業研究』が季刊で、『融和事業年鑑』が毎年発刊されていた。この中央融和事業協会の中心的人物は山本政夫であった。彼は、広島の部落出身で、水平社創立のメンバーである米田富たちが、その秀才ぶりにほれ込んで運動に引き入れようとしたほどの人物であった。その山本が、戦前の融和事業の理論的支柱として協会をひっぱっていたのである。また、融和事業研究の中味も、たとえば部落の経済振興にとって、在来の部落産業を保護育成するのがいいのか、あるいは将来性の薄くなった部落産業から将来性のある分野へ業種転換するべきかなど、たいへん実践的で真摯な議論がなされている(京都部落史研究所月報『こぺる』83・84号参照)。また、水平社との人的つながりも、水平社の左派活動家で、1933年の高松事件のさなかに日本共産党に入党して地下に潜った北原泰作の潜伏先が山本の家であったことに見られるように、その表面的な対立とは裏腹に、かなり太いパイプでつながっていたのである(北原泰作『賤民の後裔』)。蛇足ながら、水平社の活動資金自体もリベラル派で部落問題に熱心であった有馬頼寧伯爵など、「支配階級」から多く供給されており、融和運動と水平社の関係は普通考えられているよりは、はるかに二人三脚にちかい。(『部落解放運動と米田富』、朝治武「創立期全国水平社と南梅吉」『京都部落史研究所報』10・11・12号,1999年などを参照)。

それにひきかえ、戦後の政府や官僚は、あまり部落問題の研究には熱心でなく、部落問題研究所や部落解放研究所など、運動系の研究機関に圧倒されっぱなしで現在にいたっている。同和事業の打ち切り方針を出すにあたって、地域改善対策研究所を急遽立ち上げて、同和事業の総括作業を行ったのが唯一の例外で、それもちょっとした研究会のレベルを出ないものである。もし、戦前と同じとまでいかなくても、せめて運動系の研究者と部落問題解決の方策をめぐって、互角に論戦できるだけの理論的そなえと意見の表明があれば、運動に過剰に引きづられることもなかっただろうし、逆に、同和事業廃止の方針を出すにしても、うまく軟着陸の方針がだせていただろうに。しっかりした研究を抜きに運動との綱引きばかりしているので、将来展望の定かでない不時着のような方針しか出せないのである。戦後の同和事業は、1960年代の高度経済成長の果実を分配したので、財政規模でいえば、戦前の融和事業より格段に大きいが、金を出した割には国の主体性が欠けていた。

2.戦後一時期の自由な研究・言論活動
以上は、統治責任グループ側の、部落問題研究の不在に関してであるが、本稿で検討したい本筋の問題は、運動側での研究の問題である。結論をさきばしっていえば、運動にたいする研究(あるいは運動団体にたいする研究者の)の自立性・自律性が、戦後半世紀の間にどんどん失われ、研究が見た目の隆盛に反して、その内実において空洞化しているのではなかろうか。師岡佑行氏の『戦後部落解放論争史』(全5巻)を読んで、つくづくそう思う。

たとえば、同書第2巻第5章「同和教育をめぐる批判と反批判、社会調査についての論争」(251ページ以下)には次のような下りがある。

1955年に大阪の中之島公会堂で部落解放同盟は第10回大会(厳密には、この時部落解放全国委員会から部落解放同盟に名称変更)を開催し、運動方針案のなかに「子供の教育を守る活動方針」の一節をもうけて、運動としてはじめてまとまった形で教育に関する道筋を明らかにした。この内容に関する詳細は、同論文を直接参照されたいが、興味深いのは、部落解放同盟と表裏一体の関係にあった部落問題研究所(のちに解放同盟と共産党が対立した1965年以降は、同研究所は共産党色を強め、解放同盟とたもとを分かつ)の奈良本辰也所長(1913年生まれ)が、同研究所発行の雑誌『部落』に掲載した「1955年の回顧と展望」において、この活動方針は「学校の教育を信頼していないという態度が強すぎる」と批判したことである。現在、そんなことがあるだろうか。部落解放同盟の方針を、友好関係にある研究機関の長が頭から批判するなどということが。

また、こんなこともあった。当時、学生の部落問題研究会などを中心に、部落の調査がさかんに行なわれ、同時に、調査が運動の利害とどう関係するかという議論がたたかわされた。そこでは、概して運動に密着したかたちでの即効性がもとめられがちであった。それにたいして、社会学者福武直(1917年生まれ)は雑誌『部落』1956年3月号に「部落調査をめぐる問題点―これまでの成果を読んでの感想的覚書」を書いて、研究が運動の短期的、直接的利害から距離をおくことの重要性を説いた。「新しい学問の創造を目ざして調査活動にたずさわった諸君に敬意を払いながら、私は、ブルジョア的な学問のための学問、アカデミズムの学問の中から役に立つ方法をもっともっと摂取して調査されることを期待したい」「調査が役立つかどうかは、巨視的に考えなければなりません。微視的には、調査した部落の解放運動に妨げとなることもありうるからです。しかもそれが、巨視的には解放運動全般に役立ち、したがって短期的には、調査部落の解放を阻害しても、長期的にみるとその部落の解放にも役立つということも考えなければなりません。」そして、「勇ましいスローガンなら調査しなくてもできるでしょう」とまで痛烈な表現を使って、単刀直入な批判と問題提起をしたのである。40歳前の若さながら、福武直の農村社会学といえば、丸山真男の政治学、大塚久雄の経済学とならぶ、東大の顔である。その福武が、解放運動にたいして、主体的なものの考え方で発言しているのは、実にすがすがしいではないか。

それにひきかえ、ここ30年ほどの、部落問題研究の現状はどうだろう。私がみたところ、研究そのものは、さまざまな研究誌が出され、研究会・研究集会と銘打たれた会合が頻繁に開催されているが、その多くは、暗黙の了解として部落解放同盟の方針の枠内、運動の許容範囲内にとどまっている。たしかに有名な大先生が運動と関係をもつことはあっても、それは運動がその名声を借りたいために招待しているのであって、研究者が研究者生命にかけて物申すというシーンは、あまり記憶にない。むしろ運動の都合にあわせて、調査・研究の結論が偏向している例には、枚挙にいとまがないのである。たとえば、ある地方では、一企業者あたりの年間取引高を調査したところ、部落の平均が一般の平均を上回ったのに、「誤解を生じる」(=同和事業の縮小につながる)という理由で、調査報告書から消えてしまった等々。

3.研究者の自立性の喪失はなぜ起こったか
さきに述べた、戦後すぐの部落問題研究の自由闊達な雰囲気は、社会学や教育学だけではない。日本中世史研究においても、林屋辰三郎(1914年生まれ)を中心とする『部落史に関する綜合的研究』が1956年から刊行されていったし、社会心理学の部落問題への応用も試みられたりした。

しかし、1960年代にはいると、そうした1950年代の雰囲気は失われてしまった。その主たる原因は、共産党系の人たちによる左からの批判で新しい試みが潰されていった、というのが師岡氏の分析で、私もおおむねそのように了解している(共産党系の方々には異論があるだろうが、その犯人探しは本稿の論旨とずれるのでここでは割愛し、必要であれば稿をあらためて検討したい)。そして、非左翼的言説が一掃されたのにち、今度は1965年の同和対策審議会答申の評価をめぐり運動が分裂し、解放同盟から共産党系の人たちが排除されたことにより、共産党的左翼言辞が一掃された。こうして、戦後の百家争鳴から主流派・反主流派(=共産党系)体制、そしてさらに、総主流派体制へと、意見の幅が狭まっていった。

1960年代後半からは、あらたに新左翼系の活動家や研究者が部落解放運動に大挙参入したが、そのことは、研究の幅を広げたというよりは、研究の運動にたいする直接的な実用性を求める、あるいは研究者が運動の直接的代弁をする傾向を強めたように思う(その下手人の1人が私であって、本人がいうのだから間違いない)。

最後の、新左翼系(全共闘系、非日本共産党系)左翼は、かなり素朴な大衆信仰が強く、被差別民衆がいうことは間違いない、それを理解できないのは、頭にブルジョア的曇りがあるからだ、というような発想が強い。これは、既成の学問体系を徹底的に批判してきた全共闘運動的観念論のしからしむるところであるが、ともかく、この一群の人たちは学問の独自性・自立性には懐疑的な面々であって、福武のような超然たる態度は期待することができなかった。

こうした、研究者の意見の幅の狭まりと同時に、部落解放同盟の側でも、共産党との分裂以降、差別か差別でないかの判定は、部落民の唯一の組織たる解放同盟の専決事項である、というような態度が強まって、反対意見への不寛容さが目立ってしまい、全体として自由な研究・討論の雰囲気はしぼんでしまった、と私は理解している。

4.あるがままの大衆の要求は何をもたらすか
しかし、研究者が運動団体の意を体して、その方針の枠内でしか発言しなくなってしまったらどうなるだろうか。

ひとつには、あるがままの被差別感情・被害感情にもとづく要望が、そのまま運動の要求となってしまい、長期的な展望を持てないことである。たとえば、部落のあばら家を除却して同和向け公営住宅を建てる場合、部落大衆の素朴な感情は、時として不必要な高層化や大規模化を望むことがある。これは、今まで、老朽化した低層住宅で肩身の狭い思いをしてきた反動で、高い建物に住んでまわりを見下ろしたら、さぞ気持がいいだろいうという感情に根ざしている。あるいは、部落民同士でも、一戸建ての門構えの立派さを競って地区全体としては異様な景観をつくりだしてしまうことがある。それらは、心情としては理解できるし、またそこに至った歴史的経緯を顧みれば、胸のつまる思いでもあるが、心情は心情、長期的展望とは別物である。たとえば、私が古くから付き合いのある部落は、京都市内の風致地区に位置しているために、同和住宅の高層化ができなかったが、そのために、今ではたいへん落ち着いた町になっており、高層化した同和地区がその後荒廃してスラム化しているのとは対照的である。こうしたことが、怪我の功名としてしかできないということでは困る。あくまで、研究者の専門的意見が大衆的支持を得るかたちで、長期的町づくりがめざれなければならない。その時に、研究者が運動団体の顔色をうかがって、真に主張しなければならないことに躊躇するようでは、部落解放の長期的利害はそこなわれる。

また、あるがままの被差別感情が、必要な飛躍を妨げることもある。1980年代の半ばに京都府南部で大雨による災害があり、救援活動にいったことがあるが、そのとき、急傾斜地にあった部落をみて、驚き呆れた。どう考えても、危険極まりない斜面に部落が位置しているのに、同和事業による移転をせず、斜面にコンクリートをはって、一時しのぎの対策に終始している。現地の行政に詳しい人に聞くと、地元の素朴な要求に行政が場当たり的に応じていったために、そうなったということであった。その人の反省の弁によれば、無理をしてでも移転すべきであったということだ。小さな部落に20数億もの資金を投入して、危険地帯に部落大衆を縛り付けているのでは、本末転倒といわねばならない。もちろん、いろいろな経過や条件が重なってそうなってしまったのだろうけれども、長期的展望を欠いた同和事業や解放運動の問題性をしめしている。こうした間違いを防ぐためにも、専門家は運動に対して独自の立場から支援し、大衆や運動の陥りがちな短期的利害を越えて発言しなくてはならない。

さらに、研究者が運動べったりの態度をとると、運動団体が立場上いいにくいことを代わって外から代弁してくれる人がいなくなってしまい、運動団体自体に不都合なことも生じる。

たとえば、共産党と解放同盟が激しく対立する中で起こった、矢田事件(1969年)や八鹿事件(1974年)は、衝突の原因を共産党側がつくり、解放同盟側に一定の正当性があったとはいえ、抗議の手段や方法において行き過ぎがあったことは明らかだろう。それは、私が思っているだけでなく、多くの解放同盟幹部が私的にはそういう感想をもらすのである。ただ、多数の逮捕者や懲戒処分者をだしている手前、また運動方針にまで自分たちの正当性を盛り込んでいる手前、なかなか部分的な自己批判さえやりにくいことは、人情としてはよくわかる。であればこそ、なおさら研究者(もちろん一般市民でもいいのだが)による善意ある問題点の指摘や、ときには厳しい批判を外からすることも大事なことではなかろうか。しかし、今のところそうした声はなく、いろいろな反省点や路線変更が組織外に明確に語られることはすくなく、内情を知らない多くの人にとっては、解放同盟の徹底糾弾方針は以前とまったく変わらないような印象を与えているのである。1990年代のなかばころまで、解放同盟は自分への批判者に対して不寛容な態度をとっていたが、この数年、それが画期的に改善されたにもかかわらず、それが外部に十分に理解されておらず、いまだに多くの人が「ものいえば、唇寒し」という態度をとっているのは、残念なことである。

5.多くの選択肢と思い切った議論が必要
現在、部落解放同盟は、部落解放基本法獲得を最大の課題として取り組んでいる。この方針に対して、運動が組織内を一本にまとめようとするのは、いたしかたないとして、研究者の側が、部落解放基本法を検討の対象としていないのはどういうわけだろう。研究者の多数が反対意見をもって、運動に敵対せよとはいわないが、もうすこし他の意見・主張があってもよさそうなものではないか。本当に、大部分の研究者は、同対審・特別措置法闘争の単純延長線上に部落解放運動の将来を展望できると思っているのであろうか。すなわち部落における生活上の困難はすべて部落差別に起因しており、その解決はあげて行政の責任であり、また他の社会的弱者の救済よりも部落は優先して救われなければならないと。

そういう考え方もあるとはおもうが、別の考え方も選択肢としては提出すべきだろう。現に、ほんの一時であるが、部落解放同盟は、社会的公正確保法のような、もう少し救済対象を広げた法案の成立に動いたことがある。どうして、運動が出すまえに、そういう選択肢を研究者が用意し、自分の研究者としての主張として世に問わないのか。まるで、基本法以外に同和行政のありかたがないような状況は、研究者の怠慢であるし、部落解放運動の発展のためにも、不幸なことである。

運動団体が、自分たちの企画したことにそった意見をもつ研究者をあつめて、プロジェクトをもつことは自然であるし、必要なことではあるが、その枠内に研究がとどまっていては不都合である。現在の、解放同盟の方針にそぐわない範囲まで、研究者の意見の幅は必要だ。でなければ、運動はどんどん狭い範囲の意見に閉じ込められていく。

研究者は、同和事業のありかたや糾弾闘争のありかた、文学と実践の関係など、あらゆる論点において運動の公式見解をはみでて研究をすすめ、意見を表明していくべきである。

6.研究における政治の過剰
もうひとつ、付け加えるなら、解放同盟にたいする主な批判者が、長らく共産党系の人々に限られていたことも、不幸なことだった。何か解放同盟と違うことをいえば、それは共産党の意見と同じである、という風にしかとられず、解放同盟に賛成か、共産党に賛成かという立場しかありえないかのような磁場がつねに作用していた。私も、解放同盟と友好的あるいは表裏一体の関係でありがなら、運動の主張にそぐわない意見をたびたび述べてきているので、つねに、運動に批判的なけしからぬ意見の持ち主という陰口をたたかれてきた。そして、しばしば「灘本さんの意見は共産党とはどうちがうのですか?」という質問をうけることがしばしばであった。もちろん、こういう疑問をいだくことはいけないこととはいえないが、解放同盟に賛成か、そうでなければ共産党の意見であるという二極分解の状況というのは、このましいことではない、まして共産党系の研究者と解放同盟系の研究者が、運動の政治的対立を直接研究にもちこんで水と油のようにふるまうのは、コップの中の嵐に安住する態度である。こういうことを同和問題の世界の外から見ると、常にどちらかに忠誠をちかわされる近寄りがたい世界に映るだろう。現に、そうして部落問題にたいして、悪意からではなく、敬して遠ざくという態度をとっている人を多く知っている。

私は、京都部落問題研究資料センターは、京都部落史研究所時代の遺産を継承して多くの市民に部落問題の情報を提供していくのを基本的な仕事と考えているが、同時に、多様性を喪失し、必要な問題提起をできてこなかった、部落問題研究、差別問題研究の枠組みに対して、積極・果敢なな問題提起を行っていきたい。それは、既存の枠組みとは少なからぬ軋轢を生じることと思うが、部落問題解決の長期的利益につながるものと信じている。会員諸氏のご理解をお願いする次第である。

最近こんな映画を観ました(1)関本郁夫監督『残侠』(1999年2月公開)
前 川修
知人から「七条署事件」が出てくる映画があることを聞いて、おもわず「へー」と「エッ」が混じったような声を発してしまった。『残侠』と題したビデオを手渡されて、なるほどと思った。図越利一会津小鉄総裁の半生を描いた山平重樹著『残侠』(双葉社刊,1992年2月)を原作に製作された映画であることがわかったからである。

七条署事件というのは、敗戦から半年もたたない1946年1月24日に、京都駅前にあった七条警察署で朝鮮人・中国人とヤクザの間でおきた乱闘事件のことである。1月19日夜、駅内にあった大日本朝鮮人連盟京都本部出張所と旅日京都華僑連合会出張所の看板が何者かに持ち去られた。警察のしわざとみて、両所の代表40名が24日に七条署におもむき、抗議をおこなったが、小寺署長は関知しないとつっぱねた。小寺は身の危険を感じて非常ベルを鳴らし、これを合図に応援のため待機していたヤクザがかけつけ、朝鮮人・中国人の間で乱闘となった。双方負傷者を出し一旦は引き上げたものの、急を聞いて朝鮮人・中国人が集まったため再び乱闘がおこり、占領軍のMPが出動しピストルを威嚇射撃し騒ぎを鎮圧した。日本人1人、朝鮮人4人あるいは2人の死者を出し、負傷者は多数を数えた。事件の背景には、ヤミ市の利権をめぐった朝鮮人とヤクザの対立があり、戦後の混沌とした時代を象徴する事件であった。『戦後京の二十年』(夕刊京都新聞社刊,1966年5月)には「これを機にヤミ市でのヤクザの勢力が強まり『警察に恩を売った』と公言するものまで出た」と記されている。

映画『残侠』のストーリーは、原作に忠実だとは決していえないがなかなかすごい映画である。内容は高嶋政宏が扮する岩城辰五郎(主人公の名前も改められている)が戦中・戦後の混乱期に、岩城組を率いて京都の任侠界で活躍するという単純なものだが、戦後は岩城組と朝鮮連盟との抗争が大きな軸となっている。このような流れの中で朝鮮連盟や七条署事件も描かれるので、朝鮮人の多くは悪役である。朝鮮連盟を迎え撃つために警察署前に待機する岩城たちの前に、一台のトラックが急停車する。降り立った男たちは「同和聯盟」と書かれた鉢巻をしている。同和聯盟会長ヤマガタと名乗る初老の男が、応援に駆けつけたことを告げる。啓発映画以外で、部落が堂々と登場するのには、正直いって驚かされた。さらに、ヤクザにあこがれる部落の青年がグー握り(握り箸)で箸を持っているのには、関心してしまった。また、志賀勝扮する悪役の朝鮮人は「オマエラニポンジンガ、チョセンジンニナニシテキタ」と片言の日本語しか話せないのに、中条きよし扮する朝鮮人はバイリンガルなのは笑える。出演者は高嶋政宏をはじめとして、中井貴一・ビートたけし・松方弘樹等々豪華な面々なのはヤクザ映画では常識なのだろうか。実は、私はヤクザ映画が大の苦手である。啓発映画と同じぐらいに嫌いなジャンルに入る。このため、映画『残侠』のキャストが豪華なのか普通なのかまったくわからない。

この原稿を書きながら思い出したことがある。数年前にヤクザ映画の助監督をしていると名乗る男性が京都部落史研究所(当京都部落問題研究資料センターの前身)を訪ねてきた。用件は今度製作する映画で、戦後すぐに部落の人が集会に参加する場面が出てくるのだが、そのときの出で立ちを知りたいというものだった。普段、研究所に史料を見にくるのは研究者と学生しかいなかったため、かなり戸惑ったのを覚えている。研究所が所蔵している写真の中から戦後の集会を撮影したものをいくつか見せ、小一時間対応した。今、考えるとこの助監督は『残侠』のスタッフであり、部落の人が集会に参加するというのは、七条署事件のことだったのだ。そういえば、「同和聯盟」の出で立ちが全国行進隊の出で立ちに似ているではないか。私は気がつかない内に、『残侠』の製作に協力していたのだ。最初から「七条署事件について調べている」と言ってくれれば、もう少し違う史料を提供できたのにと悔やまれるが、私の嫌いなヤクザ映画だから「まあーいいか」と思っている。

私が、その助監督に「ヤクザ映画でも部落民が登場するのは珍しいことでしょ」と訊くと、彼は「イヤ、結構ありますよ」と簡単に言ってのけた。部落問題はタブーであり、啓発映画以外には部落や部落民が登場することはないと思っていた私は、耳を疑った。ヤクザ映画の中で、朝鮮人がしばしば登場することは知っていたが、部落はないだろうと思っていた。以前テレビで放送された飯村雅彦監督『蛍』(東映株式会社,1988年公開)を観たことがあるが、布施博が演じるヤクザが靴職人の息子という設定だったが、直接的に部落出身であると表現することはなかったからだ。助監督が言った「結構ありますよ」の真偽を確かめずに今日まできてしまった。もしかするとヤクザ映画では、『残侠』のように部落と部落民が結構堂々と登場しているのではないだろうか。仮にそうだとすれば、ヤクザ映画は部落問題のタブーを乗り越えている画期的な存在だといえる。このことに詳しい方がおられたら、お教え願いたい。

なお、原作『残侠』は当京都部落問題研究資料センターの図書として所蔵していますし、映画『残侠』はほとんどのレンタルビデオ店に置いています。

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