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Memento 1号(2000年7月25日発刊)
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資料センター所長就任にあたって−第3期の部落解放運動と研究活動−
灘 本 昌 久

このたび、京都部落史研究所が改組されて発足することとなった京都部落問題研究資料センターの所長に就任いたしました。就任にあたり、ひとこと所信を述べさせていただきます。


1.京都部落史研究所の23年
本センターの前身である京都部落史研究所は、1977年に発足しました。設立のきっかけは、京都市が編さんしていた『京都の歴史』において、原稿段階で盛り込まれていた部落問題に関する記述が、のちに削除され、違う内容に差し替えられるという事件が起こったからでした。このことを問題視した部落解放同盟京都府連合会が行政を追及し、部落史を明らかにするための研究事業を要求し、行政側もこれを認めて予算措置にふみきりました。こうして京都部落史研究所が師岡佑行氏を所長にむかえて発足し、以来、23年の長きにわたり、地方における実証的な部落史研究のモデル的存在として、多くの成果を生み出してきました。

京都部落史研究所の予算は、当初の10年計画のピーク時で年間3000万円程度でした。そのうちの多くを行政からの編集委託費に依っており、行政からの補助のうち京都市が半分、京都府が4分の1、残りの4分の1を京都府下各市町村に分担していただいておりました。また1000人を超える会員からの会費収入も全体の予算に占める割合は1,2割程度でありましたが、貴重な財源でした。当時、一地方の部落史研究に年間3000万円ほどの予算がつくというのは、かなり画期的なことでした。同和事業のハード面にはかなりの額の予算がつくようになっていましたが、部落の歴史研究というようなソフト面には、まだまだ支出がなされない時代でありました。しかし、ひとくちに3000万円というとかなりの高額のように聞こえるかもしれませんが、この中には、家賃や光熱費はもちろんのこと、所長1人、研究員2人、事務員1人の4人の専任の人件費と、非常勤の研究員、アルバイト、企画委員の手当てなどが含まれており、決して潤沢ではありませんでした。60歳を過ぎた師岡所長の月の手取りが30万円前半でしたし、12年間勤めた私の月の手取りが20万円を越えたのは、やめる最後の年の1年きりで、30歳台なかば3人の子持ちとしては、なかなか厳しいものがありました。今からふりかえると、どうやって食べていたのか不思議な気がしないでもありません。しかし、研究所のスタッフは、自分たちの賃金を増やすよりは、それを1円でも研究費にふりあてようと、かなり自己犠牲的精神でそうした境遇を苦にもしていなかったように思います。

研究所の活動が10年を経過した頃、研究所の将来構想が検討され、一時は法人化して安定した運営をする計画もあったように記憶していますが、1986年の地対協意見具申以降、行政の風向きががらりと変わり、あとは同和事業費が縮小の一途で今日にいたることになります(このこと自体を必ずしも否定的に考えているわけではありませんが)。部落史研究の予算は、同和事業のなかでも実生活に直接目に見えた影響がでないのでみるみる減少し、1980年代の後半は、府下の町や他府県の部落史編さんの委託で辛うじて運営するような状態でした。

2.京都部落問題研究資料センター設立
そして、1990年代なかばより『京都の部落史』全10巻完結後の京都部落史研究所の存続が企画委員会でたびたび議論されました。私自身は、どこかの大家の先生があとを引き受けてくださるものと期待しておりましたし、その際にはひきつづき協力をおしまない気ではいましたが、結局所長後任の引き受け手がなく、2000年の年が明けてしまいました。今年になって、研究所の将来につき意見をもとめられたとき、私は「解放同盟が引き取って、資料室として残してはどうですか」と返事をしたように記憶していますが、3月ごろに部落解放同盟京都府連合会からは「こういう研究事業は運動が直轄でやるべきものではなく、研究者が運動からは独立して、大所高所からやってもらいたい」という趣旨の依頼があり、5月ごろには企画委員の先生から「師岡さんは長い間やってきたので辞意がかたく、なんとか君がやってくれないか。もう若い人でやったらいいだろう」とのおすすめがありました。

企画委員会からのおすすめはともかく、部落解放同盟からの依頼には、正直いってたいへん驚きました。なぜなら、私は、この10数年にわたって、解放同盟中央本部の基本的な路線や戦略につき、常に異を唱えつづけており、とうてい部落解放同盟のお気に召すような言説は今後もまったく期待していただけないからです。

たとえば、部落解放同盟は、1985年以来、同和対策事業特別措置法の無期限版たる「部落解放基本法」を要求してきておりますが、私はこれに強く異を唱えています。古くは、京都部落史研究所月報『こぺる』1988年6月号所収「部落差別を根拠とする権利の合理性について」において、同和施策を要求するときにもちだされるオールロマンス事件の小説は、在日朝鮮人の生活を描いたものであるので、部落のみの要求闘争のダシに使いつづけるべきではなく、同和事業の所期の目的を達しつつある現在にあっては、もう少し社会的弱者・被差別者を広く救済する方向へ路線を転換しなくては、部落解放同盟が単なる利益団体になってしまう危険性があると指摘しています。また、『こぺる』1993年8月号の「第3期の部落解放運動とイメージ戦略−差別反対キャンペーンの得失−」では、部落解放同盟の糾弾闘争が、同和行政闘争時代の古い体質にもとづくものであり、実際の部落大衆の生きる力にはなっていないことを論じました。さらに、『こぺる』1996年7・8月号「瀬川丑松、テキサスへは行かず」においては、現在の部落解放運動では否定的人物像の代表格である島崎藤村『破戒』の主人公瀬川丑松を全面擁護しています。さらに極めつけは、絵本『ちびくろサンボ』絶版問題に関する拙著『ちびくろサンボよすこやかによみがえれ』(1999年刊)で、部落解放同盟の大勢が『ちびくろサンボ』を批判し、絶版には肯定的であるのに反して、絶版措置を徹底的に批判しており、それだけならまだしも、差別であるかないかの判定にあたって被差別者の感情を重視する「被差別の痛み論」をかなり手荒く否定しております。
このように、1980年代後半以降、私は部落解放同盟の基本的な方針にことあるごとに批判や、異論を繰り返してきているわけです。こう書き連ねてみると、「どうして灘本さんは部落解放同盟と行動をともにしているのか?」という、よくある素朴な疑問もわかるような気がします。

ともかくそういう確信犯的な私に所長を依頼するとは、部落解放同盟が意見の相違に気づいていないのか、はたまた根性がよほどすわっているのか、あるいは後継者に窮しているのか、ともかくまったく驚くほかありませんでした。

しかし、確かに部落解放運動の斜陽産業化にともない、研究者や活動家の高齢化がすすんでいることはたしかで、後継所長をさがそうにも、40歳台半ばまでの世代で考えるとむつかしかったことは理解できます。私が1981年に大学を卒業するとき、卒論のテーマは「高松差別裁判糾弾闘争について」を選んでいますが、同期の12人のうち3分の1が部落問題のテーマで卒論を書いて卒業しました。しかし、その後部落問題への関心は目に見えて薄らいでゆき、学生解放研活動も急速に消滅していきました。これは、部落差別の状況が急激にかつ大幅に改善されてきた結果でもあり、いちがいに悪いことではないのですが、ともかく昔のように、若い人手がいくらでも調達できる条件は、今の解放運動にはありません。

そんなわけで、私が所長というような器ではないことを承知しながら、長年の誼(よしみ)ということでお引き受けする決意をいたしました。四半世紀近い解放同盟とのつきあいがなかったら、いまさらこんな大役を引き受ける気にはならなかったでしょうし、また解放同盟のほうも、これほど意見が食い違いそうで何を言い出すかわからないような人物を、重要な研究機関の長には敢えてすえようとは思わなかったと思います。しかし、考えてみれば、部落解放同盟京都府連合会は、西島藤彦書記長を中央執行委員(書記次長)として送り出しており、氏は解放出版社の担当という教育的・啓蒙的方面の責任を担っています。その選出母体である京都の地で、研究機関を全国に先駆けて消滅させてしまっては、京都の運動の体面にもかかわるでしょう(もちろ、全国に先駆けてやることをやって廃止するのもひとつの見識ではありましょうが)。せめて、西島氏の任期中くらいは、お互いに協力して京都でささえるのが解放運動の仁義と思っています。

3.研究活動の重要性
もうひとつ、私が所長をお引き受けする、より重要な理由があります。それは、部落問題の解決はいまだその途上にあり、研究活動はもうしばらく続けていく必要があると考えるからです。いや、むしろ今までは、研究とはいいながら、運動側からの位置付けは、同和事業獲得のための刺身のつまみたいな扱いのところがあり、部落が貧困で低位で迫害されていることを証明できればこと足れりとされてきたきらいがありました。しかし、これからが研究の本領発揮の時代ではないでしょうか。部落差別の現状はどうなっているのか(目に見える環境面なら経験的にわかるが、子どもの学力水準などは調べてみないとわからない)。部落問題のどこに、どのように、どれぐらいの、運動・行政・市民の力を投入していけばいいのか(今までのようにやればやるほどいいというわけではなく、運動と普段の生活のバランスも重要)。また、他の差別問題や人権問題との関係や整合性はいかに(必ずしも部落問題が最優先課題と決まっているわけではなく、ケースバイケースで判断すべきことが多い)、などなど。こうしたことは、量的拡大を追求していけばよかった時代とは違い、本当に真剣に考えていかなくてはならないと思います。

ここでふと昔、今から20数年前のことを思い出しました。1976年だったと思いますが、全国で展開されていた網の目行進(各部落に行動隊をつくってオルグにはいる)に学生解放研として参加した時のことです。同じ隊に、先般亡くなった元府連副委員長の大西栄三郎氏がおられました。氏は本当にひょうきんな人で、夜の懇親会の時には手ぬぐいで頬かむりして、手には箒をもち、しりはしょりをしたおかしな格好をして、若い隊員を笑わせていました。

しかし、そのあとの車座になっての話のときに急に真顔になって、「今、要求している同和事業を通じて、部落の生活は向上し、いずれ世間並みに追いつく。部落解放は、そこからが勝負や。」そう、いわれたのです。当時は、部落の低位な生活実態は、差別の結果つくられており、その差別と貧困の悪循環を同和事業によって断ち切れば、差別は解決する。言い方をかえれば、同和事業の進展とともに差別はなくなると考えられていたので、大西氏の二段階革命のような考え方は、聞きなれない感じがすると同時に強く印象に残りました。その後の20数年をふりかえると、生活の向上とともに差別がなくなってきた面は確かにありますが、生活が一定安定したこれからが勝負、という考えもかなりの程度あたっていると思うのです。

4.みなさんのご協力を
そんなわけで、柄にもなく京都部落問題研究資料センターの所長をお引き受けすることにしました。機関の名称を決めるにあたっては、身の丈にあった名称にしたいということで、資料の管理・運営と情報提供に徹することにして、研究の字を省きたかったのですが、西島氏のたっての希望で残すこととなり、長い名前になってしまいました。略して「資料センター」とでも呼んでください。また、部落解放ではなく部落問題としたため、歴史と伝統ある「部落問題研究所」と紛らわしくなってしまった点は、問題研の方々にお詫びします。資料センターと間違って、そちらに行かれる一般の利用者がいましたら、ご指導方よろしくお願いします。

今まで、京都部落史研究所をささえてくださったみなさん、引き続きよろしくお願いします。そして新たに支えてくださろうとお考えのみなさん、ありがとうございます。頼りにしています。これからの研究は、行政に丸抱えで予算措置をしてもらうことは困難であるし、時代にもあわないでしょう。むしろ、関心のある人たちの無償の協力に支えられて、地道に続けていけばいいのではないかと思っています。とりあえず、2002年3月の同和事業終結時点まではがんばってみる所存です。それまでに、省エネルギー・自給自足体制が確立できたらさいわいです。できなければ、解散閉所するしかありません。前川修さん、平野貴子さんの二人の常勤スタッフは、給与面で更に労働条件が悪化しますが、もうひとがんばりしてくださるとのことです。私も、所長とはいいながら、まったく無報酬です。しかし、解放理論の新しい展開にむけて、従来ありがちだったあたり障りない言説を廃し、本音で語る活動をめざして全力でがんばります。乞うご期待。

最近こんな本を読みました1 金城一紀『GO』1,400円(講談社刊,2000年3月30日)
前 川修
学生時代、客があまり来ない、オーナーの趣味で開いているような焼肉屋でアルバイトをしていたことがある。時折、雇われ店長が冷蔵庫から鮮度が落ちた肉を取り出し、コショウの瓶に入った粉を振りかけていた。「それなんですか?」と訊くと、「ワシも何だか知らんが、これをかけると赤くなるんや」と言っていた。その時は、そういうものかと深く考えなかったが、何年かしてそれが発色剤だったことがわかり、焼肉屋で妙に赤い肉には手を出さなくなった。極端に暇な焼肉屋は、読書をするのに最適な環境をあたえてくれ、李恢成の作品を片っ端から読んでいた。李恢成が描く「在日青年」は極端に暗い。それは、日本社会からの差別と分断された祖国を背景にした暗さであった。焼肉屋の片隅で、無益な時を過ごす私自身と主人公たちはどこかで繋がっているような気がしていた。

金城一紀の『GO』は、「在日」が受ける日常的な理不尽さを軽やかに描こうとした作品で、李恢成の作品とは、まったく異なった雰囲気の中、ストーリーは展開する。ファッション・音楽・映画、そして恋愛。主人公の「僕」は中学までは「朝鮮学校」に通う「在日朝鮮人」であったが、両親とともに「韓国籍」に変わり、高校からは「日本の学校」に通っていた。喧嘩が強く、頭のイイ、オシャレな高校生だが、何かにこだわり続けていた。こだわっていることを一言で言えば「在日」ということだが、「僕」が体験するさまざまな事件から、こだわり続けているモノを説明しようとする。説教臭くなりがちな内容を面白おかしく包み込む工夫もされている。「桜井」と名乗る少女がミステリアスに登場し、唐突に恋愛が始まる。少女に国籍を隠すことが「僕」の最大のこだわりだ。初めてのセックスの前に国籍を告げるが、少女は父親から「韓国とか中国の人は血が汚い」と教えられてきたためにショックを隠せない。少女に、刷り込まれた偏見を取り除こうと、「僕」はお得意の理屈で国籍・先祖・DNAについて説明する。しかし、少女は「理屈では分かるんだけど、どうしてもダメなの。なんだか怖いのよ……。杉原がわたしの体の中に入ってくることを考えたら、なんだか怖いの……」と拒絶を続ける。

この作品は、旧来描かれていたジメジメした「在日青年」のイメージを払拭して、今を生きる「在日青年」を描こうとしたものである。作者自身もこれまでの「在日文学」を「『暗いなあ、何だこれ』ぐらいしか感じられなかった」と語り、さらに今の「在日青年」は「在日のアイデンティティーといった問題より、恋愛の大切さの方が、第一義にくる」(京都新聞2000年5月17日)と言い切っている。

しかし、作者の発言とは裏腹に、主人公「僕」は「在日」にこだわり続けている。これは、作者金城一紀の31才という年齢と関係しているのだろう。作者自身が高校生であったのが10数年前のことで、今の高校生の感覚とはズレがあり、このズレが作品に投影されているために、「僕」の妙にジメジメしたところが見え隠れするのである。さらに、この作品の難点をあげれば、「僕」がオシャレで頭が良く、喧嘩が強く女にもてるということだ。これは、あまりにもリアリティーのない超人で、そこに凶暴であるのに心やさしい性格が付け加えられるため、人格が分離したような存在になっている。ともあれ、テンポの速い、トレンディードラマのような小説なので、気軽に読んでみてはいかがでしょうか。

紫明だより

新組織になって1ヵ月近くがすぎました。業務内容は研究所時代とほとんど変わらないのですが、7月3日に記者会見をおこない、テレビ・新聞で宣伝をしていただいたおかげで、閲覧者と電話での相談業務が増えました。特に近所の方が気軽に本を読みにこられるようになったのは、嬉しい変化です。祇園祭も終わり、京都はムシムシした夏の始まりです。(P)

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