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当資料センターの前身である京都部落史研究所の所長をされていました師岡佑行さんが、今月12日、沖縄で急逝されました。77歳でした。
師岡佑行さんの死を悼む
京都部落問題研究資料センター所長 秋定 嘉和
愛称”師さん”が死んだ。定宿にしていた沖縄での事故死とのことである。私にとっても大きなショックである。先年の馬原鉄男、田辺昭三氏につづく先輩の死である。

釈然としない死の事情については、すぐ沖縄に飛ばれた人々が経緯を納得されているようで、そのようにしておきたい。

ところで当センターとしては今日にいたるまで顧問を続けて下さっており、ありがたく思っていたときのことであった。

私情をはさんだ回想もふくめて以下、申し上げたい。

私と師さんとは学生時代からの先輩と後輩にあたり、五十年余にわたるおつきあいをさせていただいた。お会いした時は、尼崎の自宅で妹さんと一緒に私塾をなさり、お母さんとの生活を支えておられた。師さんの一生は、死ぬまで世の中に「異議申し立て」を続けることであった。それは沖縄での友人も証言されていることである。

私の経験では、尼崎市に対する住居裏の泥川の排水工事の要請を住民と共にやっておられ、工事完成にこぎついたところであった。まさに「地域闘争」のはしりであった。ついで、「村の歴史・工場の歴史」の運動に参画され、これには私もまきこまれ、地域に紙芝居や映写フィルムをもちまわった記憶がある。

大学では、京都の多くの学生をまきこんだ「荒神橋事件」があり、府警にも抗議デモを行い、「日米安保条約反対」デモなどがあいついだ。師さんは、私たち日本史の学生を組織して現行の教科書の民主的内容への改訂を求めて運動を行なった。当時の日本史研究にも反映していたと思われる。また、全国の大学を巻き込んだ全共闘運動でも、当時立命館大学の非常勤講師をしていたが、当局に対する厳しい異議申し立てを行なった。

その後、師さんは部落問題に関心をもたれた。「部落研」活動のはじまりで、師さんの半生を画期づけた動向である。このとき、奥さんの笑子さんと出合われて貴重な果実をえられたというべきであった。その後、師さんは運動の徹底化をめざされたのであろう、大阪の解放新聞社に移られ、主筆となり、紙面の刷新をめざされた。しかし、運動との関わりを深められていくなかで挫折されて若狭にひきこまれたのである。そこで手にされたのが川渡甚太夫の自伝で、その後『川渡甚太夫一代記』(1981年、柏書房、のち1995年、平凡社「東洋文庫」に収録)としてまとめられた。今は亡き夫人との愛を込めた仕事であった。

ついで1977年には京都の部落解放同盟の依頼をうけて京都部落史研究所を設立し、『京都の部落史』の編さんに関与し、以後20年にわたる皆さんとの協働作業に従事された。そのかたわら、自分も参加した解放運動の理論的体系化をめざされて『戦後部落解放論争史』(全5巻、1980年〜85年、柘植書房)を単独で執筆された。この書は戦後の解放運動史の理論と研究に大きな役割を果すことになった。

また、この作業のかたわら『西光万吉』(1992年、清水書院)、『米田富と水平社のこころ』(2001年、阿吽社)なども著述された。

棺をおおって考えるとき、師さんは、多様な社会運動に参加され一貫して社会的正義の場に身をおいて発言し行動された。残された『京都の部落史』(1984年〜95年、共編、全10巻)と『戦後部落解放論争史』は後世にまで伝わる書である。合掌


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