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Memento 9号(2002年7月25日発刊)
読み物




知りたいあなたのための京都の部落史(超コンパクト版)その2
―膨大な史料と研究を前にして途方に暮れないために―
灘 本 昌 久

戦国時代をくぐって
戦国時代というのは、応仁の乱の始まった1467年(応仁1)から織田信長・豊臣秀吉による天下統一がなされるまでをいう。従来の近世政治起源説にもとづく部落史の代表的著作である原田伴彦著『被差別部落の歴史』(p.68-69)は、戦国時代をくぐりぬけた中世賤民について、次のように整理している。

 「(1)古代の賤民という法制上の身分は平安時代に消滅してしまい、中世にもいやしめられた底辺の人びとが生じましたが、それは国の法律や制度として正式につくられたものでないこと。(2)これらの人びとの血筋や身分が連綿として世襲的につながったものでなく、これらの一群の人びとは個人的にはたえず交替していたこと。また一定の地域にしばりつけられたまま、移動の自由や職業をかえる自由を奪われたものでなかったこと。(3)応仁の乱から戦国の時代に、大名やその家臣団や地主たちが中下層の地位から上昇したように、賤視された人びとも下剋上の時代に、解放されていったこと。(4)戦国時代は社会の大きな変動期で、これまでの家格や門地の高い支配層が転落し、中下層の人びとが上昇するなど、これまでの社会の上下のちがいがまったく混乱してしまい、それにともなって、賤民的なものがほとんど消滅に近い状態になったこと、などであります。」

要するに中世賤民と近世の賤民は、戦国時代の動乱で切断されており、集団のレベルでも個人のレベルでもつながりはほとんどない、というわけだ。

しかし、ここ30年間ほどの部落史研究の成果によれば、中世賤民集団が戦国時代の動乱の中で完全にまぜかえされ、近世の幕藩体制成立の中でゼロから作られたような話は、まったく事実とは異なる。

たとえば足利義昭を奉じて京都に進軍した織田信長が、1568年(永禄11)四条天部(現在の三条地区)に対して軍勢による乱暴狼藉や放火を禁ずるいわゆる「禁制」を発給した[1-176, 3-434](→ハイフンの両側は『京都の部落史』の巻とページ数をしめす。以下同じ)。自分の軍にたいし、天部村に手を出してはいけないと厳命しているのである。天下統一をめざして京都に戦国武将が入ってきた時、そこには以前から住んでいる河原者たちのうやうやしく頭をさげる姿があったのである(なお、豊臣秀吉も1582年に信長に準じた禁制を四条天部に発給)。この天部村は、京都でももっとも古い河原者の村で、慶長年間(1596〜1615年)に制作されたとされる「洛中洛外図」(高津本)にも明瞭に描かれており[1-204]、1296年頃制作の「天狗草紙」に描かれている「穢多童」も天部村の前身であった可能性がある[1-47, 3-239](源城政好「洛中洛外図にみえる河原者村について」を参照のこと)。

徳川家康の場合も同じで、もともとは三河(愛知県)や駿河(静岡県)を根拠地としていた彼が、秀吉の命令で江戸に移ったとき、まだほんの片田舎に過ぎなかった江戸には、すでに弾左衛門が根をはっていた。そこで、家康は弾左衛門に関東の穢多の統率をまかせることにしたのである。

以上は、やや大河ドラマ風に全国統一に向かう戦国大名と河原者たちの出会いをのべたが、もう少し実証的にいっても、近世に穢多村と称された地域の成立は、江戸時代から相当さかのぼる。山本尚友氏の「近世部落寺院の成立について」によれば、山城・丹波・播磨という関西の部落の寺院の開基は、1321〜1428年に7ヵ所、1429〜1500年に1ヵ所、1501〜1572年に39ヵ所、1573〜1614年に57ヵ所、1615〜1670年に57ヵ所、1671〜1692年に12ヵ所とあり、江戸時代をまたずに相当数のお寺(道場)が成立している。そして、寺がなりたつためには、それを支える集団が村として成り立っていることが前提であるので、由緒ある中核的部落の成立は、鎌倉末から室町期ということができる。

京都における部落の成立につき、決定的な論証をしたのが田良島哲氏の「中世の清目とかわた村」である。この論文では、現在の京都市南区にある久世地区が1396年(応永3)にまで史料的にたどれることが厳密に論証してある。また、川嶋将生氏も「川崎村の成立をめぐって」で、現在の京都市養正地区につながる江戸時代の川崎村が、史料上1451年(宝徳3)までさかのぼると推定されている[1-159, 9-5]。

平安末から鎌倉期にかけて、断片的に清目の活動が史料上現れているが、戦国期になると公家の日記などに河原者や庭者の名称で頻出するようになり、「善阿弥」「川崎入道」「又四郎」「赤」「サツキ」「小鶴」「小五郎」などと人名まで特定できる状態で多数の河原者たちが登場し、その発言の内容まで明らかになっている[1-141〜171]。そして、それらの集団と江戸時代の穢多村の連続性が明らかになっている今日にあっては、中世賤民集団が戦国時代の動乱で雲散霧消し、江戸時代とは切断されているというような話は、まったくの作り話というほかないのである(山本尚友「中世末・近世初頭の洛南における賤民集落の地理的研究」も参照のこと)。

さらに付け加えるならば、普通、村の歴史を語る場合は、その村が如何に古いかということは、自慢にはなっても恥ではない。古いほど水利や入会山での権利が主張できるし、村自体の格も高いと認識される。それが、こと部落史になるととたんに、古くない古くない、中世などとは無関係と、やっきになって古さを否定するのは滑稽であるし、一種異様な風景である。子のため孫のためと念じて、荒地を耕し水利を改良し、また皮革などさまざまな製造業を生み出した河原者たちが、草葉の陰で泣いていようというものだ。江戸時代になると、穢多村の生活が実態は一般の百姓と変わらなくなるのだが、そうした向上は、彼らの血と汗によってあがなわれていたのである。
他の賤民集団
以上は、江戸時代には穢多村と呼ばれることになる河原者の話であるが、中世に存在した他の様々な賤民集団は、戦国時代をくぐりぬけてどうなったのだろうか。

これらの賤民集団に共通していえるのは、かつて自分たちの後ろ盾となっていた権門勢家が力を失って賤民固有の職掌を捨てることになっていき、その結果、限りなく一般の百姓に近づいていったということである。

たとえば、河原者より先輩格の「宿(夙)」、特に宿の集団の一員であり、かつ祇園社の暴力装置として権勢をふるった「犬神人」を考えてみよう。清水坂非人とも呼ばれていていた祇園社の犬神人は、興福寺をバックにもつ奈良坂非人(宿)との勢力争いを繰り広げていた。有名なところでは、1224年(元仁1)に大規模な武力衝突があった[1-57, 3-345]。また、祇園社のさらにバックにある延暦寺の意向で、犬神人は一向宗、法華宗、禅宗などの鎌倉時代に登場した新宗派を弾圧している。たとえば、1227年の嘉禄法難では、親鸞の墓所が犬神人の手により破却されている[1-68]。

そして、宿と河原者もしばしば利害対立から紛争が絶えなかったが、武家の台頭により、武家をバックとする河原者は徐々に力を伸ばし、逆に祇園社・延暦寺をバックとする犬神人は、徐々にその権限を奪われ、戦国時代を過ぎて武家の一元支配の時代になると、まったく力を失う。都での警察業務も、秀吉が天下を取ってからはすっかり河原者の手に帰してしまう[1-174,194]。こののち、江戸時代をつうじて、犬神人は祇園祭の先導などの役目は続けるが、ほとんど目立たない存在となる。ただ、古くから集団を形成していた宿村は、かなりの土地を集積していて、賤民としての権益を失っても、それを乗り越えるだけの経済的裏付けがあった[1-197]。

宿とともに、中世賤民の代表格である声聞師も同様であった。声聞師(散所者)は、自分の属する公家や寺社などの荘園領主により保護されており、都にあっては御所の掃除を担当していたが、室町時代になって武家の権力が強くなるにつれて、河原者が徐々に声聞師の権益を侵食した。戦国時代になると御所の掃除も両者が分担するようになり、いつのころからかすっかり河原者の仕事になってしまった(山本尚友『被差別部落史の研究』p.138)。そして、秀吉が権力を握ると、1593年(文禄2)には、京都・堺・大坂の声聞師多数が尾張(名古屋)に強制的に移住させられ、荒地の開墾にあたらせられた[1-191, 4-134]。秀吉の死により、一部の声聞師は帰住したようであるが、自分の頼みとする権門の凋落は、たちまち配下の賤民集団の権益にも影響したのである。(なお蛇足ながら、尾張に流された声聞師たちが伝えた千秋万歳が尾張万歳となり、のちに上方に伝わって現在の上方お笑い芸興隆の基になったというのだから、歴史はおもしろい。網野善彦ほか編『大系 日本歴史と芸能』12、山路興造『翁の座』)。

ただ、古い権益を失った宿や声聞師は、武家の権力からみるとただの百姓・町人と変わらない存在となり、地域社会での排除・賤視は受けるが(宿に対する差別、特に結婚差別は、ごく最近まで同和地区に対する差別とかわりなかった)、法制度的には平人扱いとなる。逆に、中世以来の武家との主従関係の続いた河原者集団が、旧来の賤民の職能を担いつづけたがために、江戸時代を通じて賤民の待遇を受けることになったのは、歴史の皮肉というほかない。当時としては、「親亀こけたら皆こけた」というのが宿と声聞師であり、勝ち馬に乗ったのが穢多(皮多・河原者)だったのだ。したがって、近世初頭の穢多身分の人たちにとって、特に身分を落とされたとか、武士階級から抑圧されたという認識はなかったはずである。むしろ、庇護者たる武家の力を借りて競合する他の集団とのせめぎあいに勝利したというほうが実感に近いはずだ。

江戸時代の身分制をできた当初から差別だと批判するのは、近代からの視線であって、穢多村の人々が、自分たちの境遇に不満を抱くにいたるのは、江戸時代の中期以降、穢多村の経済が発展して、それ以上の穢多身分の社会的上昇が江戸時代の身分制の枠内では不可能と感じられるようになってきてからのことである。そして、そのことは武士や百姓の側から見ると、身分秩序、社会秩序を食い破る反社会的意識・行動と映るのである。
穢多村の発展とバックラッシュ
 江戸時代の半ばから、穢多村の経済は急激に成長し、人口も増大する。京都近辺の11カ村の合計でみても、1715年(正徳5)に386戸2,064人であったものが、1870年(明治3)にはおよそ2倍強に増加する。その原動力の最大のものが、雪踏を中心とする履物業の興隆である。竹皮の裏に牛馬の皮を張って補強した履物である雪踏は、元来身分の高い人の履物であったが、商品経済の発展とともに台頭してきた町人階級の間で流行しはじめる。そして、年老いて死んだ牛馬の独占的取得権=斃牛馬処理権=当時の名称で「草場」を身分固有の権利として持つ穢多村は、戦国大名に軍事物資として皮革を供給していた時代以来の、新たな皮革の需要と皮革関連製造業の発展にわいた[1-367]。この経済成長は、1881年(明治14)に西南戦争以来の不換紙幣の増発によるインフレ退治のため行われた松方デフレ政策による、部落産業の崩壊までつづく[2-40]。そして、幕府や各藩が町人と穢多身分の成長を座視できなくなって、身分統制に動くのも江戸後期である。

身分制度が揺らぎ始めた、象徴的な事件が1777年(安永6)に起こった。武蔵国榛沢郡新戒村より、地元の穢多身分の者が、医療技術にたけているので、平人に引き上げたいという申し出があったのである[1-375]。奉行所が、弾左衛門に問い合わせたところ、昔からの慣例を理由に引き上げは不可の回答をしたため、実現しなかったが、身分を人為的に変更できるという考えが浮かんでくること自体が、時代の変化を感じさせる。

そして、危機感をもった幕府は、1778年(安永7)に有名な風俗取り締まり令を発する。穢多非人が百姓のようなファッションでレジャーやショッピングに出歩くのはけしからんというお達しで、幕府が賤民身分に関連して意思表明した最初の法令とされる。これに引き続いて、各藩で風俗取り締まりが強化される。ただ、従来、こうした風俗取り締まりの解釈として、幕藩体制が動揺してきて百姓への搾取が強化され、その矛盾のはけ口として穢多身分を統制したとする議論が多かったが、疑問である。幕府や藩は、昔どおりの秩序を維持しようとしただけで、特別穢多身分を圧迫しようとしたわけではない。風俗取締り事件として有名な岡山の「渋染め一揆」(1856年)にしても、渋染め・藍染めの色を強制したのは、「おとしめる色」ではなく、百姓町人並みの服装を要求したに過ぎないという説もあり、傾聴に値する(住本健次「渋染・藍染の色は人をはずかしめる色か」)。

しかし、こうした圧迫にもかかわらず、穢多村の発展は続く。農業への進出は、持続的に続いたため、丹波地方などで一般の百姓との入会山の用益権をめぐっての争いが頻発した[1-363〜400]。また、部落寺院への本願寺の取り扱いも、変化した。形式上、一般村のようには部落寺院を正式の寺としては認めなかったが、正式の寺格を持つ寺院にのみ認めていた色衣や袈裟を穢多村の自坊でのみではあるが許可するようになった(ただし、料金は5割増しなどの高額)[1-414]。この他、1812年(文化9)には天部村から伊勢参りツアーにでかけた21人の一行が、旅から帰った後になって、旅行の事実が発覚し、泊めた宿の主人と参加者が咎めを受けるという事件が起きている。風俗の取り締まりを受けながらも、「わかっちゃいるけど、やめられない♪♪」というわけである。[1-379]

こうして、穢多村は江戸時代を通じて、特に後半には一般の百姓を凌ぐ力を蓄えながら、明治維新という革命を迎えた。(完)

参考・引用文献
網野善彦ほか編『大系 日本歴史と芸能 12 祝福する人々〔本とビデオ〕』,平凡社,1990年
川嶋将生「川崎村の成立をめぐって」(『京都部落史研究所紀要』9,1989年)
源城政好「洛中洛外図にみえる河原者村について」(『京都部落史研究所紀要』2,1982年)
住本健次「渋染・藍染の色は人をはずかしめる色か」(朝治武ほか編『脱常識の部落問題』,かもがわ出版,1998年)
田良島哲「中世の清目とかわた村」(『京都部落史研究所紀要』5,1985年)
原田伴彦『被差別部落の歴史』,朝日新聞社,1975年
山路興造『翁の座』,平凡社,1990年
山本尚友「近世部落寺院の成立について 上・下」(『京都部落史研究所紀要』1・2,1981・1982年 のち、山本尚友『被差別部落史の研究』,岩田書院,1999年に収録)
山本尚友「中世末・近世初頭の洛南における賤民集落の地理的研究」(世界人権問題研究センター『研究紀要』2・3,1997・1998年 のち、山本尚友『被差別部落史の研究』,岩田書院,1999年に収録)
山本尚友『被差別部落史の研究』,岩田書院,1999年

『京都の部落史』史料を読む 第3回 窮民授産所と興行等への課税
中 島 智 枝 子

はじめに
 1868年(慶応4)1月3日、鳥羽・伏見で戦端が開かれ、京都市中は騒然とした情況に見舞われた。このような中、翌2月には北側芝居では尾上多見蔵、市川右団治、中村富三郎らによって「長柄長者鳥塚・布引・桂川」が行われている。ついで、4月には南側芝居で「絵本太功記・褄重浮名の鮫鞘」が実川延若、中村福助、市川右団治らによって上演されている。和泉式部芝居でも「忠臣蔵・鏡山・戻駕」が浅見徳三郎一座によって上演されている。この後も北側、南側芝居をはじめ京都の芝居小屋では前年と比べると活発に興行が行われていた。

政治支配者が幕府から朝廷に転換する時期の芸能興行を取り巻く情況の一斑について、『京都の部落史』所収の史料の中から、今回は窮民授産所開設に伴う芸能興行者等への課税を見てみたい。
流民集所・窮民授産所について
 発足間もない京都府は、1868年(明治1)10月、芝居などの興行に「帯刀之もの並小者躰之者」が無銭で入場したり、木戸銭を払っているが乱暴を場内で働いたりした者の取締りを命じている。騒然とした市中の情況は芝居をはじめとする興行場にも及んでいたことがこれからもうかがえる。とりわけ、幕末の政争の中心舞台となった京都ではこの時期多くの流民が見られた。京都府ではこれらの流入者への対策を講ずる必要に迫られていた。流民集所から窮民授産所に至る、京都府の流民対策について、『京都の部落史』[第2巻 10〜13ページ]の叙述をもとに見てみよう。

1868年(明治1)11月29日、京都府では、元は平民であったが「産を失い候者」を流民とし、これらの人々を堀川通、千本通、塔之段、六角通(後に廃止)、六波羅に設けた流民集所に収容した。収容された人々は区域を限って市内の塵芥の清掃に従事した。この時出された達によれば「諸町・諸村篤志の者」に対して醵金を呼びかけ、さらに、医師に対しては「医業の儀は専ら仁術を旨とする事に付」、流民集所での医療を行う篤志があれば府へ申し出ることを達している。

翌1869年(明治2)3月10日、京都府は「流民と非人との区別を立て、且悪党・竊盗の類と困窮憫むべきものと見分け易からしむ」ために流民には流民札、非人には非人札を交付することとし、無札の流民、非人への施行を禁止した。京都府では流民集所収容の者には、平民への引き上げも許したが、非人はその対象から除外している。

流民対策として設置された流民集所であるが、2年後の1870年(明治3)11月、窮民授産所が設置されるに及び廃止された。

京都府の流民対策が流民集所から窮民授産所開設に至るこの時期、京都の人々にとって大きな問題となったのは天皇が東京へ移り、このため、京都が衰微するのではないかという問題であった。京都府では新政府に京都振興のための支援を申し出た。新政府は京都府に対して15万両の勧業基立金と10万両の産業基立金を交付することとした。京都府ではこれを基金として、2代京都府知事になる槙村正直が中心となって山本覚馬と明石博高をブレーンに京都復興のため勧業策を講じるのである。

窮民授産所は明石博高の建議によって設立されたもので、1870年(明治3)11月15日、上京の中立売通智恵光院西入るに開設された。生まれながらの非人でない無籍の窮民を集めて、産業を授け職を勤めさせるための施設であった窮民授産所では、油絞り、蝋燭製造、紙漉、草鞋及び縄製造、織物、団扇製造、諸指物器具製造、搗米、養蚕、裁縫、養魚等の仕事に入所者は従事し、賃金が支給された。授産所では生活費を引いた残金を積み立て、元利が25円以上になれば、入所者が退所する時、積立金を本人に払い戻し、就業資金とさせた。

開設4年後の1874年(明治7)末までの入所者は217名を数え、その内、入所者の三分の一に相当する72名が復籍している。調査中のものが3名、脱走者67名、病死した者が29名ということである。脱走者が67名もいたことは驚かれる。理由等は不明であるが、「窮民」としての入所に対する抵抗があったのか、あるいは、授産所での仕事が本人の望むところでなかったのだろうか。病死した者が29名もいたということは入所するまでに健康を害していた結果と考えると、流民が如何に厳しい生活を余儀なくされていたかを物語っているといえるだろう(『明治文化と明石博高翁』田中緑紅編著、1942年6月刊)。

『京都の部落史』では授産所入所者の下げ渡しを扱った史料[第6巻 415〜416ページ]が収められているので、その史料について次に見てみたい。
窮民授産所の入所者について
 1872年(明治5)7月、窮民授産所に雇われ団扇骨削りを教授していた大久保伝右衛門(下京三条通大橋東4丁目15軒丁在住)であるが、授産所において自分の下で働いていた治郎吉を発見、早速、下げ渡しを願い出ている。

治郎吉が窮民となった経緯であるが、大久保伝右衛門が出した願には次のようにある。治郎吉は自分の下で働いていたが、病気になったので暇を遣わした。解雇したということである。「其後何れへか罷り越し、行衛相知れ申さず候」ところ、教えに出かけた授産所で治郎吉を発見。団扇骨削りを教えて、「今一応仕込み候はば生活の道も相立つべし」と思われるので、下げ渡しをお願いしますとある。病気、失業等が流民になるきっかけであったことが治郎吉のケースから見て取れる。この時、治郎吉は16歳であった。治郎吉の下げ渡しは許可されている。大久保のこの挙は「伝右衛門は其身貧しくありながら、一人の窮民を救ひ出せしは更に感ずべき事ならずや」として、『京都新聞』は同年10月、浅山愿からの投書という形で報道している。

この1年後にも、大久保伝右衛門は授産所入所者の安吉の下げ渡しを願い出ている。安吉がどのような経緯で入所したのかわからない。安吉の場合も、下げ渡しが許可されている。安吉の時も『京都新聞』は取り上げ、「伝右衛門の如きものはよく当今の御主意を奉戴し、窮民二名までも民籍に復し真の良民となせり。実に感称すべき事なり」と報じている。「方今窮民中親族ある者も多かるべけれど、未だ此の如き願を出したるを聞かず」と治郎吉の記事中にあることからも、入所者の三分の一が復籍している中で、治郎吉や安吉のようなケースは稀であったといえるのだろう。

開設10年後にあたる1880年(明治13)には、授産所の入所者は男51人、女7人であることが『京都日日新聞』に報じられている[第6巻 422ページ]。その後、授産所は1883年(明治16)2月、石田治兵衛外1名に払い下げられ、西陣共進織物会社となった。
興行等に対する課税
 1870年(明治3)閏10月13日、窮民に対して授産の目的で開設される窮民授産所の費用を京都府は、諸興行から調達することとした。『京都の部落史』に収められている「府、窮民授産所を設置し費用を諸興行より調達することにする」と綱文が付されている史料[第6巻 411ページ]がこのことを詳しく伝えてくれる。

窮民授産所に収容する窮民は前記した通り、「不慮の不幸より生国を離れ、諸国に流落、乞食に陥り候もの少なからず。右等は生れながらの非人にもこれなく、其薄命一入愍ませられ…」としたことからもわかるように「生活に困った平民」であり、穢多や非人等は除外された。京都府ではこのような境遇に立ち至った窮民と比べ、「遊興浮業を以て安穏に今日を送り候」者は、この度の「厚き思召しの旨」を理解し、売上金の20分の1を納めることを命じた。

課税対象とされた業者であるが、角力頭取、遊所男女芸者、遊女、芝居名代の者、諸席名代の者、借馬渡世、揚弓損料渡世、本弓損料渡世、半弓損料渡世、吹矢並からくり的渡世、席貸渡世、髪結渡世、芝居茶屋渡世であった。相撲、芝居、寄席、見世物等を興行する者のほかに遊興娯楽業者や借馬業や髪結業などのサービス業者が対象となっている。

京都府では、窮民授産所への出金を命じた前月、上記業者のうち、芝居名代、席名代、揚弓、本弓、半弓、吹き矢並びにからくり、席貸し、借馬業者に対して「今度改鑑札相渡候」としている。鑑札下付の業種とされたものは芸能興行及び遊興娯楽業であった。窮民授産所費用として課税が決められた時、これ等の業種に加えて、角力頭取、遊所男女芸者、遊女、髪結、芝居茶屋も鑑札交付の対象になった。

鑑札であるが、新規開業の場合は府に出願して鑑札を受ける事とした。また、休業の場合は鑑札を府に返納すること、他への転貸しもあわせて禁止している。府が指定した業種以外でも「遊び体に付、人を集め木戸銭・見料等を取るの業」に対してもその都度出願して免許を取った上興行することとした。このことは、京都で興行を行う場合は、興行主は京都府から鑑札を受けなければならなくなったということである。

さらに、集金に不正を行なうことは勿論、「銘々の分限を偽り、出金の減省を計る」等に対しては「罰重の法」で処するという条項もあり、納入に不正を働く場合は厳罰をもって臨むことが明記されている。

「遊興浮業」と決め付けられた興行等に対する京都府の厳しい姿勢がうかがえるのではないだろうか。
むすび
 流民対策として開設された窮民授産所は、前記したとおり1883年(明治16)2月、石田治兵衛等に払い下げられている。このことはもうこの時期には維新期の混乱をうけて出現した「流民」への対策を講ずる必要がなくなったことを物語っている。ところで、興行等に対して京都府はこの後どのような施策をとったのだろうか。

1873年(明治6)2月、邏卒設置にあたり、京都府では興行関係者に対して課税を行っている。これに伴って、窮民授産所に対する課税を廃止した。この時もまた京都府はこれらの業者への課税について次のように告げている。

羅卒の仕事は「四民」が安全に仕事や生活を営むため社会秩序を守る仕事であるのだから「四民一般」が分担することと大蔵省からの達しもあったが、興行及び芸人は「邏卒の勤を煩す事少からず」ある故、興行関係業者に対して課税を行うとした。

角力、芝居興行主には売上げの10分の1、窮民授産所の際の2倍を課した。とりわけ厳しく課税されたのは、揚弓、本弓、半弓等の遊興業者で、これらの業者へは売上げの10分の2が課税されている。席貸、髪結、借馬、芝居茶屋には、窮民授産所の際と同率の売上げの20分の1を課している。

この時、新たに俳優、同振付師、操り人形遣、チョンガレ、昔噺、軍談等の芸人に対しても1カ月1円の「賦金」を課税している。前号で見た新京極を賑わした芸人達も課税の対象となった。東京府で芸人に税金を課したのは1875年(明治8)1月のことであるから、京都府はそれよりも2年余り早い課税といえる。さらに、これまで鑑札交付の対象となったのは芸能関係では興行主であったが、義太夫、新内、清元、常磐津、浄瑠璃等の芸人に対しても鑑札を受けることとした。

芝居興行に関しては、「実伝演劇之節ハ半減」とある。京都府は、1872年(明治5)、従来のような「恋慕事或ハ幽霊其外顛末不明」の芝居は開化に役に立たないとし、実事に基づき、知識進歩の一助になる様な芝居興行を行うように四條芝居名代人を呼び出し説諭した。「実伝演劇」とはこの時、京都府が指示した勧善懲悪を踏まえ真を伝える芝居を指している。「実伝演劇之節ハ半減」ということは、開化に役立つ芝居に対しては優遇することを示したといえる。京都府の開化に益なき芸能に対する厳しい眼差しからも、当然の措置といえる。ともあれ、鑑札交付及び課税の施策を通してこの当時の京都府の芸能興行主や芸人に対する厳しい姿勢を読み取ることが出来る。

ところで、京都府の指示を受けて四條芝居名代は、同年7月、京都府に「四條両側芝居規則改正」を提出し、さらに、11月には南、北両側芝居ともサミュエル=スマイルズの『自助論』の翻訳『西国立志編』(中村正直訳)の一節を上演している。行政側の意向に沿う形での芝居側の対応であったが、観客のうけは余り良くなかったのだろうか、実伝演劇は2年ほど興行されたにとどまったということである。
(なかじま ちえこ/京都部落問題研究資料センター運営委員)
事務局より
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