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Memento 8号(2002年4月25日発刊)
読み物




知りたいあなたのための京都の部落史(超コンパクト版)その1
―膨大な史料と研究を前にして途方に暮れないために―
灘 本 昌 久

はじめに
長い間、部落差別・同和地区の起源は、次のように語られてきた。―江戸幕府によって「士農工商」の下に「穢多・非人」身分が作られ、武士階級は農民たちの反抗を下にそらせて民衆を支配した―と。ピラミッド型の図を描いて、それを5つにスライスした最底辺が賤民だというわけだ。しかし、この「近世政治起源説」といわれる説明は、もはやまったく過去のものとなり、被差別部落の起源をもっと古い時代に遡らせる「中世起源説」が研究者の間では主流になっている。

近世政治起源説が力をもった背景には、政治権力によって作られた差別・貧困は、政治の力によって=同和事業を強力にすすめることによって解決すべきだという、1950年代以来の部落解放運動の路線と整合的であったという事情があった(この事情については、師岡佑行『戦後部落解放論争史』第2巻を参照のこと)。そしてその箱物中心の同和事業が歴史的役割を終え、地域社会における人と人との関わりという社会関係に部落解放運動の課題が移っていこうとしている時にあたり、民衆の生活の中からどのように被差別集団が生み出されてきたかを注視する中世起源説が台頭してきたのは、偶然ではない。

しかし、従来の近世政治起源説から中世起源説に見方を変えるということは、単に成立年を何百年か遡らせるということだけにとどまらず、「差別迫害=暗黒の部落史」像からの大きなイメージチェンジを伴うことなので、旧来の部落史になじんでいる多くの人々をとまどわせ、路頭に迷わせている観なきにしもあらずである。特に当資料センターの前身である京都部落史研究所は、近世政治起源説からの転換を早くから追求してきており、多くの専門家が膨大な研究を蓄積してきている分、旧説とのギャップが大きく、なかなかよりつきがたいものがあった。

そこで、本稿ではその橋渡しをすべく、ごく簡略に京都の部落史を紹介したいと思う。もっとも、中世起源説とはいっても、いまだまとまった体系になっているわけではなく、諸説紛紛たる状況なので、以下のべることは末尾の文献などをつぎはぎしての不十分なスケッチに過ぎないことをお断りしておく。
古代賤民制の崩壊と中世「非人」の登場
古代律令制のもとでは、最下層の身分として「五色の賤」が定められていた。部落史研究がほとんどなされていない時代には、この古代の賤民が現代の部落差別の淵源ではないかという考えもないではなかったが、現在はそうした説はとられていない。古代国家の衰退とともに、良民と賤民の間の通婚が増え、また逃亡する奴婢もあとを絶たなくなって、907年の延喜格(律令の補助法)で「奴婢の停止」が定められたことにより、制度的に消滅した(『京都の部落史』[3-93],[10-533]に奴婢に関する多数の項目あり)。

それにかわって登場するのが、中世の「非人」である(江戸時代の非人とは別の概念)。古代の奴婢は計帳(税金台帳)に記載されていることからもわかるように、社会内の最底辺であるのにたいして、中世非人は、一般の人が円の中に入っているとすると、その円の外側にはじき出された人たちである。「非人」の語は古くは罪人をさしていたようであるが、中世には不具(身体障害者)や癩者(ハンセン病者)が村から追放されて非人に身を落とし、また役務に徴発され病気などで故郷に帰れなくなった人、領主の苛斂誅求で村を立ち去った人など、多くの人が社会外に流出した。想像をたくましくすれば、官庁のリストラで職を失った官人(盗賊には官人の子弟が多くみられたという。山本尚友『被差別部落史の研究』22頁)、あるいは度重なる戦で敗れ傷ついた侍なども、行き場を失えば、非人に身を落とすしかなかっただろう。要は、後の江戸時代のように平和で安定した時代とちがい、古代国家の解体期から戦国時代にかけては、一般社会の枠組みから離脱して非人に身を落とす人が、膨大な数にのぼったのである。
触穢思想と検非違使
非人が広範に登場したときに、人々をとらえて放さなかったものに、穢れを忌む「触穢思想」というものがあった(横井清『中世民衆の生活文化』)。これは、病気や天変地異など世の中の悪いことは、「穢れ」によって生じる。そして、その穢れの発生源は、人や動物の死、お産、女性の生理、および犯罪などであるというものである。重大な犯罪が穢れを生むというのは、現代人からは想像しがたい感覚であるが、人の死はもちろんのこと、お産や女性の生理から穢れが発生するというのは、大正生まれまでくらいの世代にはかなり濃厚にあった感覚である。こうした穢れ感が「穢れ多し」=穢多として部落を差別する感覚に通じているのはいうまでもない。近代になっても、部落民の払う硬貨をじかに受け取らずに、ひしゃくに受けて水がめに入れたり、部落民にだけ特別の茶碗(欠けていて判別できる)を使用したりしたのは、こうした穢れを忌む感情の残存である。

京にあっては、穢れの処理を統括していたのが、検非違使であった(検非違使は、律令体制の規定にない官職=令外の官である)。今の感覚からすると、警察業務と保健衛生業務を兼ね備えているような役職であるが、当時は犯罪の取締りと公衆衛生が穢れの処理として一体化してイメージされていたようである。検非違使は、犯罪の取り締まり、刑の執行、人間や動物の死体の取り片付けを、もっぱら非人を手足に使うことによって実施していった(丹生谷哲一『検非違使』)。
中世非人の集団形成
非人は、生活の術を失った人たちであるので、とりあえずは食を乞う=乞食をして生きるしかなかったのであるが、そこからの脱却をはかった。その方法のひとつが、穢れの処理=「キヨメ」を中心とした仕事の確立および、関連産業の開拓である。ふたつめが、自分たちをばらばらの個人から集団にまとめあげ、同時に公家・寺社・武家といった権門勢家といわれる支配グループの保護下に入ることによって、その権利を守り、伸張するというやりかたである。

中世非人の中で、最も古い集団は、宿(夙)といわれるグループである。宿は、京都から奈良にかけて古くから分布する集団で、後に「清水坂非人」と称される人々が、1010年ころより史料上ちらほら見られるようになる。彼らは、祇園社の境内や洛中を「清める」仕事を獲得する。この場合、清めるといっても、行き倒れの人を取り片付けることから、税金滞納者の取締りまで、広範な職務を含んでいる。この坂非人を保護しているのは祇園社であるが、その背後には比叡山という強力なバックが控えている(『京都の部落史』[1-66])。坂非人は、寺社勢力の退潮とともに、武家をバックに持つ河原者にとってかわられるが、祇園祭の際にその先導をつとめる姿は、1550年ごろの風景を描いたとされる『洛中洛外図屏風』(上杉本)にもみえている。

この宿に遅れて姿を現すのが、「清め」あるいは「河原者」といわれる集団である。1275年の『名語記』に現れるのが早い例であるが、京都では太閤検地の時に関東で用いられていた「かわた」という呼称が使われ(山本尚友『被差別部落史の研究』113頁)、江戸時代には「穢多」と呼ばれるようになる。

「清め」は、早い時期には検非違使に使われて、行き倒れ人の処理や刑の執行などにあたっていたが、後には斃牛馬の処理を手がけるようになった。その場合、死んだ牛馬を単に河原にでも埋めればいいのであるが、単に廃棄するのではなく、それを原料にさまざまな品物を製造するようになる。代表的なものが、皮革である。これは甲冑を製造するには不可欠のものであり、軍事物資のうちでも重要なものである。また、骨から作る膠は当時としてはもっとも高性能の接着剤で、これも武具の製造には不可欠である。また、牛の胆のうにたまる胆石=「牛黄」は、非常に高価な漢方薬であった。戦国大名が、自分のもとの出身地から移動して城下町を作る場合、しばしば出身地のかわたを呼んで特権を与え、皮革の納入を義務付けたことはよくしられている。この時の、武士とかわたの関係は、防衛庁とミサイル部品納入業者のようなものであって、相当の信頼関係がありこそすれ、悪意や敵意があるわけではない。発生当初は、時々の必要に応じて動員される自由な労働力であった人々も、ここにきて特殊技能集団という点で厚遇されるようになったのである。この他、清掃から派生して、公家・寺社に出入りの「清め」は「庭者」と称され、庭造を営む者も多くでた。将軍足利義政に厚遇された善阿弥や、竜安寺の石庭を築造した庭者がよく知られている(『京都の部落史』[1-161])。

以前、「中世に皮革製造や皮革細工、庭造りなど様々な仕事についていたひとが、近世になって穢多身分に落とされた」と説明をするむきもあったが、それは近世政治起源説的偏見であり、古代末から中世にかけて「清め」とよばれた人たちが様々な仕事をつくりだして、それらが近世に継続したに過ぎないのである。
つづく

参考・引用文献
『京都の部落史』全10巻,京都部落史研究所刊,1984〜1995年 本稿で引用の場合、[3-93]のように巻数と頁を示した。
京都部落史研究所編『中世の民衆と芸能』,阿吽社刊,1986年
丹生谷哲一著『検非違使―中世のけがれと権力』,平凡社刊,1986年
師岡佑行著『戦後部落解放論争史』第2巻,柘植書房刊,1981年
山本尚友著『被差別部落史の研究―移行期を中心にして』,岩田書店刊,1999年
横井清著『中世民衆の生活文化』,東京大学出版会刊,1975年

『京都の部落史』史料を読む 第2回
『明治新撰西京繁昌記』と 浮かれ節
中 島 智 枝 子

はじめに
前回、近世期の大道芸の一つ、辻芝居について見た。今回は『京都の部落史』では余り触れられていないが、辻芸の一つである浮かれ節について見ることとする。

1871年(明治4)8月に解放令が出された翌月、京都府は天部村、悲田院に対して辻芸や門芝居を禁止する布令を出している。これらの芸人達が、この後どのように活路を見出していったかを考える時、新しく盛り場となった新京極での興行が注目される。そこで、新京極を取り上げた『明治新撰西京繁昌記』(以下、本稿では『西京繁昌記』と表記する。)が描く浮かれ節について紹介したい。浮かれ節であるが、『西京繁昌記』では「浮れ節」とある。本稿では「浮かれ節」と表記する。

「浪花節という明治生れの芸能」(小沢昭一)であるが、浪花節研究を続けてこられた芝清之氏によれば、神仏の説法から始まり、「山伏たちによって〈祭文〉となって広められ、願人坊主により〈チョンガレ〉〈チョボクレ〉となって発展した。そして、近世における浪花節の母胎を追求すると、〈説教節〉〈デロレン祭文〉〈阿呆陀羅経〉の3つに、集約される」。さらに、芝氏は諸説あるが、浪花節の祖である浪花伊助が、文化(1804〜17)末年から文政(1818〜29)初年にかけての頃に阿波浄瑠璃、祭文、春駒節、ほめらを取り入れ浮連節の名乗りを大坂であげたということである。大道芸であった祭文やチョボクレ(=チョンガレ)が浮かれ節の基になっているということでもある。この浮かれ節であるが、幕末の頃には京坂地方で神社・仏閣の境内に仮設の小屋を作って幟興行が行われていたことが伝えられており、明治に入ってから東京では浪花節と呼ばれるようになったが、関西では明治期を通して浮かれ節と呼ばれていたという。また、浮かれ節・浪花節が大道芸から離れて寄席の舞台にかかったのが、明治10年前後とされているためそれまでの文献が少ないということである(『大衆芸能資料集成』第6巻 芝清之著「解説」,三一書房,1980年)。この点からも大道芸から寄席にかかった時期の京都における浮かれ節について書かれている『西京繁昌記』は見逃すことの出来ない史料といえる。
『西京繁昌記』と増山守正
1872年(明治5)から開かれた新京極であるが、1876年(明治9)頃には早くも盛り場として賑わいを見せるまでになった。『西京繁昌記』を増山守正が著したのは1876年のことで、同書は1877年(明治10)に大谷仁兵衛、福井源次郎によって京都書房より出版されている。同書には明治20年代に国民新聞紙上に掲載した画で有名な久保田米僊が挿絵を描いている。漢文の添えられた久保田の画を見ると当時の時代の情景や雰囲気を偲ぶことが出来る。

著者の増山守正(1828年〜1901年)であるが丹後田辺(舞鶴)藩士の家に生まれ、16歳のとき藩校の授読助を命ぜられ、21歳の時、江戸に出て医学及び儒学を学んでいる。24歳の時、京都に帰り医学を学び、26歳の時、帰郷して、京田村にて医業を開始している。1867年(慶応3)、増山が39歳の時、綾部藩に招聘された。明治維新後、1875年(明治8)、京都府に出仕して、庶務課簿書掛を勤めるとともに地誌編纂に従事し、1878年(明治11)、衛生事務に転じ、その後、報告局を経て歴史部に勤め、1901年(明治34)に退官した。著書には『西京繁昌記』の他にも『旧習一新』、『因循一掃』、『人体問答纂要備考』等数多くある。(松井拳堂著『丹波人物志』,1960年)。

『西京繁昌記』が書かれたのは増山が京都府に勤めた翌年のことであり、48歳の時のことである。増山は序で次の様に述べている。「文明之善、開化之美、日進月盛、煥乎可仰焉。置郵出便、電信之捷、汽車于陸、汽船于海、其他百般不可勝枚挙。」と述べ、さらに、「凡そ西京の盛栄を知らんと欲せバ、先づ此地より始めずんバあるべからず。嗚呼文明の世に逢ふて、此京に寓し、この京に寓して、此繁昌を観る。記せずんバ有るべからず。」と、開化を讃美する立場で開化の象徴としての新京極の紹介を行うことを述べている。そして、このような観点からの案内記であるから「明治新撰」と名付けたと記している。

当時の新京極について、1876年(明治9)6月12日付の『郵便報知新聞』は次のように報じている。

「下京第六区新京極通は、近時寺々の境内を開きし新町にて今は府下第一の繁盛を極め、昼夜諸人の輻輳る場所なるが、北は三条通り南は四条に限り、わずかに四町ばかりの処に興行席を始めたる軒数のあらましは、芝居三座、浄瑠璃席三軒、軍書講釈、落語六軒、浄瑠璃身振狂言三軒、見世物十二軒、大弓九軒、半弓三軒、揚弓十五軒、料理屋十一軒、ちょんがれ祭文二軒、牛肉店二軒、煮売屋、ソバや、茶店の類廿九軒、この外饅頭、菓子、手遊人形、小間物、小鳥、読売歌、歯抜き、写真、袋物屋の類、筆紙に尽くしがたく、なかんずく古手物は殊にたくさんなり。」この後、「近来府下人の口癖にて誰も不景気を唱えざるなけれども、試みに文久以前に遡り見よ、かく繁盛のことありしや、まつたく地方官吏の特別なる尽力注意の致す所ならん。」と新京極の繁栄をもたらした地方官吏すなわち槙村正直の功績を称えて結ばれている。

この記事から新京極にどのようなものがあるか概観できる。様々なものを取り扱う店のなかで古手物を商う店が多いことがうかがえるし、興行関係の小屋が35軒あることもわかる。また、牛肉店が2軒あるが、文明開化で開けた新京極ならではのことであろう。この記事の20年後の新京極であるが興行関係のものは、芝居4ヵ所、女芝居3ヵ所、にはか3ヵ所、落語2ヵ所、講釈4ヵ所、唄祭文、浮かれ節各1ヵ所等31の興行が行われている(『京都土産』,1895年)。興行の数では少し減少しているが、明治中期においても新京極は京都の興行の一大センターであったといえる。

『西京繁昌記』では上記のように数多くあるものの中から「近頃目撃する所の者を記載する而巳」と断っている。そして、新京極は「西京の繁昌、新京極通を以て最とす。肆店の盛なる爛粲眼を奪ひ、観場の多き、珍奇魂を驚し、技芸の妙出没神を酔ハしむ。」と述べ、それらの中から菅公祠、誓願寺等の神社・仏閣をはじめ、見世物、演芸、遊技場、飲食店等35ヵ所を取り上げ、記述している。そのうち見世物は電機器械、影画等が9つ、演芸が演史、滑稽(=落語)等8つ取り上げられている。半数近くが見世物と演芸であることからも増山の目を引いたものがこれらのものであったといえるだろう。その一方で、文明開化の京都を紹介するということであるにもかかわらず、牛肉店が取り上げられていないのは、増山が肉食について関心がなかったといえるのだろうか。あるいは、紹介するほどのことでもないと考えたからだろうか。当時、京都府では肉食の効用を説いていたことを医者であった増山が知らないはずはない。むしろ医者の増山が率先して紹介すべき様に思うが、『西京繁昌記』ではまったく牛肉店については触れられていない。
増山守正の芸能への眼差し
1872年(明治5)4月27日、新政府は芸能を教部省が管轄することにした。倉田喜弘氏によると新政府では芸能を「淫蕩猥褻ニ流レ、風ヲ傷ヒ俗ヲ取リ、其世教ニ大害アル実ニ甚シ」(『公文録』)と見たからであるとのことである。この時、芸能に対して天皇の尊厳を守ること、勧善懲悪に基づき淫風を排除すること、そして、芸能者を川原者と呼び差別してはならない、と同時に芸能関係者は言動を慎むこと、この3点を基本路線とした。京都府でもこの方針を受けて「芸能はすべて『実事ニ拠リ・・・知識進歩ノ一助』になるよう要請」している(倉田喜弘著『芸能の文明開化』,平凡社,1999年)。

「陋習」を固守して開化に益なき芸能に対して厳しい態度がとられる中で新京極の多くの芸能を取り上げた増山は芸能についてどのように見ていたのだろうか。

増山の芸能に対する見方であるが、演史の項では「川柳の句にいふ、講釈師見て来たやうに吁詐を付きと。」、滑稽では「恰も疑ふ、滑稽師ハ口より先へ生るゝかと」と記していることからも当時の人々が持っていた見方と大きく変わらないといえる。演劇を紹介している中で、増山の芸能あるいは芸人に対する見方や考え方を詳しく知ることが出来る。

新京極での芝居小屋としてこの時期に挙げられているのが「東向き」と「道場」の2つである。役者には尾上梅朝、市川福太郎、尾上多三郎、坂東芝鬼蔵、嵐重三郎、中村歌之助等の名前が挙げられている。演史や滑稽あるいは女義太夫、ニハカの項でも芸人の名前が挙げられている。ところが、後でも触れるが、浮かれ節では芸人の名前が挙がっていない。

芝居を紹介する中で馬の脚役について「人にして馬態をなし、心に之を甘んずる。其微小志ハ賤むべく、其文盲ハ憐むべし。」という。また、観客が舞台で見たことを真実と受け取ることにも言及している。さらに、増山は女形について「女様を学び、紅粉を粧ひ人を誑かす」、「六七十の老優も少女に化て看客を誑す」等と述べ、役者の仕事は「到底ハ狐狸に魅せらる如くにて、何ぞ聖賢大丈夫嗜好なすべき業ならんや」という。そして、教育が進むにつれ、人々は「劇場の狐狸人民を誑惑するが如きの場たるを知り」、また、俳優も文明に感化を受け「泣ずして泣く真似する詭詐の術」を恥じて「虚戯の業を転じて実職に就き、劇場禁ぜずして自ら止む時あらん」と述べている。

増山の役者観、芝居観はまさに「芸能はすべて『実事ニ拠リ・・・知識進歩ノ一助』になるよう要請」という京都府の姿勢そのものであるといえる。増山は電気を起こす装置を使って発電させる見世物の「電機器械」について、「実の実なる者」とし、「観場中其実の最なる者」、「真に文明に適せし観物」という。実を重んじる増山の立場は、芝居は人を誑かすものであると見るだけであり、開化に益がないものであると断じるだけである。増山は開化が進み人々が正しい知識を持つと芸能が廃れ、また、俳優もそのような虚業に従事することも出来なくなり正しい仕事に従事することになると説いているのである。開化を進める上で役立つものは認めるが、開化に役立たないものは無用なものと言うことであろう。このような芸能に対する考えの増山は浮かれ節を一体どのように見たのだろうか。
浮かれ節と解放令
増山は浮かれ節について次の様に書き出す。「或人曰、『チョンガレ』とハ書すべからざるの名と。或人曰、長浮れ節といふの義と。僕曰、略して浮れ節と称して可ならんか。」という。チョンガレというのか浮かれ節というのかについて記していることからもこの時期は二通りの呼称が使われていたのであろうか。著者は最初に「フーと声を引く事長き」がため、増山は長とするのも一理あると断った上で浮かれ節とは長浮かれ節が略されたものと考えてよいのではないかと言う。

増山は浮かれ節を「世の歌謡の心気を浮す者の第一とする者ハ、凡そ人心を発揚する者千万是れに過る者なし」と記していることから当時の歌謡のうち、「人心を発揚」するものとして高く評価している。

この浮かれ節を演じていた人々であるが、「其業ハ賤の賤なる者にして、従来人々席を列るを忌む。而して明治以来平民に列す。亦維新の徳沢といふべし。」と記している。このことからも、浮かれ節を演じていた人々は1871年(明治4)に出された解放令により平民となった人々であった。「亦維新の徳沢といふべし」と述べているところは開化を善とする増山ならではのことといえるだろう。ともあれ、この時期の浮かれ節の芸人達の多くが近世の身分制度のもとでは賤民であったといえる。

京都府ではこの解放令を受けて「はじめに」でも触れたが、天部村および悲田院に対して、身分に伴う公役の廃止と共にこれらの人々が行って来た大道芸に対して、「一、辻芸・門芝居、向後禁止の事」を示している。大道芸に従事していた人々にとっての打撃は大きかったと思われる。しかし、これらの人々の中から数年後には新しく開かれた新京極に進出し浮かれ節の興行を行い、芸人として新しく活路を見出しているといえる。とはいえ、前記した通り演者の名前が記されていない。当時の浮かれ節師で吉田岩吉や広沢岩助等名前を残している人もいることからも、演者の名前が聴衆に語られなかったとは考えにくい。増山にとって浮かれ節師一人ひとりに関心が向うことがなかったことを物語っていると見てよいのではないだろうか。
浮かれ節の興行実態
『西京繁昌記』では、当時新京極で行われていた浮かれ節の興行形態について知ることが出来る。浮かれ節を興行した時刻であるが日の沈む頃に終了したということから、日中であった。興行場所であるが、空き地に演台だけ置いたものなのか、それとも、葭簀を立てかけ囲いがあったものか、それとも本格的な小屋であったのかどうか『西京繁昌記』の記述からははっきりとわからない。

客は入場料を払って入るということではなく、自由に出入りすることが出来、置かれた床几に座って聴くことも出来れば、立って聴くことも出来た。久保田米僊の画には「朋を引き、類を聚むる十余名」と漢文が添えられているところから「十余名」位の聴衆を前に興行が行われたのだろう。集金人が聴衆の間を廻り、四、五銭あるいは一朱の金を出した客には集金人がこれ見よといわんばかりに高座の「談者」に示す。そして、「談者」は高座から謝意を表した。一方、聴衆の中で集金人が廻るたびに逃げて金を出さない者には「遂に高座より風評せられ、赧然紅を潮して去る。」光景も見られたということだ。前記した「幟興行」は金を払った者に15センチほどの幟を頭に立て、払ってない者と区別したということである。『西京繁昌記』によると新京極では幟興行は行われていなかったといえる。

久保田米僊の画が添えられているが、その画は高座に座った談者と三味線弾きの二名が描かれている。見台を前に胸を開けて着物を着た男の談者が右手に扇子、左手に錫杖を持って座っている。談者の左側に日本髪でやや胸を開けた感じで着物を着た女が三味線を持って座っている。談者はまだ羽織・袴を着用しておらず、画を見た印象は一寸くだけた着物の着方のように見える。

談者が「戯言を吐て」、「口から出放題、調子に乗て佳境に入り談者錫杖を振り折らんとし、三味線弾き腕を撥ひ落さんとす」、一方、聴衆はといえば、「我を忘れて忙然たり。丁稚も主用を欠き、婆も念仏を怠る」。浮かれ節が聴衆にどのように聴かれていたかよくわかる。

浮かれ節が語っている文句であるが、増山は「其言極めて猥雑、其口最閙熱」と書いている。猥雑なことを厚かましく言い立てているように増山には聴こえたようだ。「旦那一生の御願ひでゴザリマス。二三升御米を借して下さらバ、直に算用致しますと四升らしう云ふ故に、借してやつたら五升にもならふかと・・・」、あとはこの調子で六升、七、八、九升、「一斗頃まで待すのじゃ。」と続く。借りた米を返すことが出来ない貧しい庶民の暮らしを面白おかしく語る浮かれ節から、聴く側は、「口から出放題」とあるように立て続けに出る掛詞や語呂合わせが組み込まれた文句に滑稽さや軽快さを感じたのであろう。それに、滑稽(=落語)とは異なり声の長短、高低、清濁を伴う抑揚ある節がつくのであるから聴いている側に心地よく響いたのではないだろうか。まさに、「我を忘れて忙然たり」という状態になったことであろう。
むすび
『西京繁昌記』で描かれた浮かれ節について長い紹介になったが、浮かれ節を語っていた芸人および談者が近世期の祭文語りと同じように錫杖を持っていること、とはいえ、大道ではなく高座で興行を行っていること等、この時期の興行の実態について明らかになった。さらに、『西京繁昌記』は明治10年頃の新京極を知る上で欠くことの出来ない史料に留まらず、浮かれ節をはじめとするこの時期に行われていた見世物や演芸、遊技場での娯楽等について非常に多くのことを現在の私たちに伝えてくれる史料でもある。ともあれ、この時期の浮かれ節は、新京極を賑わした数ある演芸の中にあって、「声を引く長きあり、短きあり。高低清濁抑揚頓挫、悉く其曲節を尽さゞる無く」と評される声の響きとその文句で、「貴賤貧富老若男女、総して之を嗜好せざるなし」と多くの人々を魅了したのである。明治後期に至り大衆娯楽の王者となる浪花節の魅力はこの時期にすでに見られたといえる。
(なかじま ちえこ/京都部落問題研究資料センター運営委員)
事務局より
◇5月から6月にかけて新しい取り組みを予定しています。今号の4頁,20頁でお知らせしていますので,是非ご参加ください。また,「今後こんな取り組みを…」というご要望がありましたらおきかせください。
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◇今号の発行が大変遅れましたことをお詫びいたします。

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