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Memento 6号(2001年10月25日発刊)
読み物


教育実態調査報告書を読む
伊 藤 悦 子

本年度末(2001年度末)には、移行措置を終えた同和対策事業が終焉する。そうした状況のなかで「残された課題」として指摘されているもののなかに、部落の子どもたちの「低学力問題」がある。

部落の子どもの学力格差は1970年代前半に本格化した高校進学率向上のための取組で一定の解消をみたが、その後20年にわたって、部落の高校進学率は全体と比べると数ポイントの格差があることが全国的に指摘されている(京都市の場合は、進学率に限ってみれば格差はない)。進学率格差はきわめて縮小されたが、その中味を決定している学力格差はあまり縮小していないどころか、むしろ拡大しているのではないかという議論もある。

そうした状況を踏まえて学力を形成する要因、もしくは阻害している要因をさぐるための教育実態調査が、次に見るように1984年以降、90年代に各地で実施された。以下、この拙文はそれら報告書についての紹介と研究としての特徴を検討したものである。それぞれの報告書は量的にも膨大なものであり、結果について詳細に紹介はできないが、調査のあゆみという点での特徴を指摘してみた。
1.1984年大阪調査
『被差別部落における教育機会に関する実証的研究−低学力問題を中心として−』(大阪大学人間科学部編,1986年3月)に大阪府Y市の調査が報告されている。

同書は日本における部落の子どもたちの実態調査としてはさきがけであり、大阪府Y市以外についても調査報告されているが、小規模部落のため量的調査にはなっていない。ここではY市の調査にのみ限定して検討したい。

調査は学力調査と生活実態調査からなり、学力と生活実態との関連を追及している。学力については、地区の子どもたちの正答率の低さが確認されている。そして、その学力と子どもの生活実態との関連を検討する際に「家庭生活スコア」を用いて分析している点が本調査報告書の特徴である。

「家庭生活スコア」とは、家庭生活の基盤、家族との心理的つながり、家庭学習の条件、自由時間の過ごし方などをたずね、生活の厳しさを個人毎に点数化したものである。「朝食の有無」や「帰宅時の大人の不在」など家庭生活に関わる様々な事項を調べ、それを点数化し、家庭生活の物的、人的条件が厳しい子がいる比率を地区・地区外で比べたり、そのようなスコアと学力がどのように関連しているかを調べたものである。

結果、地区には生活の厳しい子どもが多いこと、地区・地区外を問わず家庭生活の厳しいものほど正答率が低くなることが明らかになった。当然ながら、生活の厳しさが子どもの学習を左右しているのである。しかし、同じ家庭生活スコアの子ども同士を比べると、地区の子どもの方が正答率が低いという事実も明らかになった。生活実態とともに、何らかの部落差別の影響が働いていると考えられる。たとえば、親の職業や学歴、学歴期待、学校と地域文化とのずれなどであるが、本報告書ではそうした調査をしていないので、指摘はあっても推論の域を出ていない。

こうした調査を踏まえて、報告書は次のように指摘している。すなわち、生活実態の厳しさを明らかにすることはかつては特別措置の必要性を訴える根拠となったが、1984年の現在では逆に特別措置が効果を上げていないことを示すことになるという。そして、調査に表れた家庭生活のさまざまな項目のうち、たとえば、自学自習の習慣が地区の子どもたちの方に確立していないことなどを指摘したうえで、特別措置20年間の取組のなかでようやく自学自習を問題とする時期になったとし、親の学習の必要や組織化を提起しているのである。

1980年代前半までの学力調査は、子どもの学力と学校生活との関係を分析するものが大半であった。それに対して、学力の形成要因のうち家庭生活のありようが大きな割合を占めるという観点で調査実施され、予想通りの結果を得たわけである。「低学力」克服の筋道を行政・学校のみならず、部落の住民にも求めた最初の調査であった。その点で、それまでの調査の枠組みのみならず解決方法についても方向転換しており、ターニングポイントとなる調査である。
2.福岡県調査(1990年実施)(注1)
全県的調査という点では画期的な調査である。調査規模も小学校5年生、中学校2年生合計約3,600名(内、同和地区児童生徒700名)を対象にした大規模な調査であった。学習状況調査と生活状況調査からなり、生活状況調査では家庭・地域・学校生活での実態や意識を調査している。

本調査の特徴は既存の調査がもっぱらクロス分析を用いてそれぞれの要素と学業成績との関連を明らかにしてきたのに対して、数量化第V類という手法を用いて、多様な要因のなかで何が強く影響しているかを数値化してみるなど、要因の強弱を総合的に分析することを目指したことにある。また、調査分野として「基本的な生活習慣」「セルフイメージ(自己概念)」「将来への見通し」に重点を置いて設定し、学習と生活実態との関連のみならず、学習と「セルフイメージ」との関連をも分析した点が特徴的である。また、こうした調査報告書の場合、調査の統計的考察で終わることが多いのに対して、考察と具体的提言が最後に付されているのも特徴的である。

この提言部分に着目して若干紹介すると、まず冒頭に「子どもたちの学力を高めるためには、子どものセルフイメージ形成をあらゆる教育の場で総合的に高めなければならない」とし、学力の充実や向上をめざす取組のなかに、学習成績に結びつきやすいことのみを問題にするのではなく、子どもの個性を尊重しそれを保障する取組の必要も提言しているのである。それとの関連で、学校・教師には「楽しい学校づくり」が求められている。その上で、家庭・地域の環境で地区の子どもたちにはいまだ多くの課題があることも指摘し、教育行政・学校との連携を提起している。この部分は総論的であるが、教育行政が学力保障の問題を子ども自身や家庭に責任転嫁してはならないことを再確認しているわけである。ただし、具体的なことは述べられていない。

この調査は、一つ一つの調査項目を検討し、各地区において実践課題を明らかにすることが本来的な読み方であろう。ただ、上に述べたように、学力向上を求める実践がともすれば子どものセルフイメージに対してマイナスに作用し、ひいては学力形成を阻害しているという調査結果がでたこと、セルフイメージに着目した大規模調査であったという特徴を確認しておきたい。
3.宝塚市調査(1994年実施)(注2)
調査対象は小学校2、5、6年生、中学校1、2年生の児童生徒3,897人で、内容は生活実態調査、学習理解度調査、保護者調査及び解放学級の調査である。

調査は、生活実態がストレートに子どもの学習理解度に影響を及ぼすだけでなく、自己概念を媒介として学習理解が進むし、また学習理解は自己概念をプラスにすると考えて分析している点が特徴である。分析は学習理解度の地区内外の比較、生活実態の比較、学習理解度と生活実態との関連、自己概念と生活実態との関連(ここが本報告書の特徴)、保護者の生活意識、学習理解度と保護者の意識、学習理解度と解放学級出席の関連(この結果は興味深いのみならず深刻である)、総括として学習理解度の規定要因の相互の関連も統計的に提示されている。

単純集計からクロス集計、自己概念の因子分析等、様々な方法による分析がなされている。この調査は今回紹介していない「箕面調査」を実施した大阪教育大学グループによるものであり、自己概念を学力向上のキ−ポイントにしていることなど、調査規模や分析手法について貴重な報告書といえる。この調査の枠組みは後に他の調査においても使用されており、私が関わった京都府井手町の調査も元を正せばこの調査の枠組みに基づいて実行したものである。

また、本調査では保護者の経済的状況や教育歴も尋ねている点が先の大阪府Y市調査や福岡県調査と異なっているが、ただ地区外との比較調査はできていない(保護者調査について比較できるのは、1994年実施の三重県調査(注3)である)。

結果として、学習理解度に関しては地区と地区外に明らかな格差があること、国語については小学校2年生から、算数・数学については小学校5年生から、英語については中学校1年生から格差が認められている。

生活実態については、地区と地区外との単純な比較を行い、さまざまな点で地区の特徴が指摘されている。そうした生活実態と学習理解度をクロス集計している。基本的な生活習慣と理解度との関連は地区内外とも同じ傾向で、生活習慣が確立されるほど学習理解度は高くなり、「絵本を読んでもらったか」では「よく読んでもらった」ものほど学習理解度の高いものが多いなど、他の調査と同じ点が指摘されている。

本報告書で特徴的な学習理解度と自己概念との関連は、全体として両者は無視できないほどに関連していたと報告されている。自己概念は、自尊感情(自分を肯定し、尊重する感情)・環境統制感(自己を取り巻く環境を自分が変えることができると思う感覚)・社会観を下位の概念として持つもので、これらと学習理解度との関連を因子分析し、学習理解度と関連の深い因子を探求したものである。結果、「効力感」と名付けることのできる因子が抽出されてきた。すなわち、自信を持ち、努力すれば良い結果が得られると感じている子どもが学力が高くなるという結果である。

また、解放学級への出席率と学習理解度については、出席率0の子どもが最も学習理解度が高く、次に積極的参加者、そして消極的参加者が最も学習理解度が低いという結果が得られた。

こうした集計を踏まえて、学習理解度の規定要因をパス解析で明らかにした結果、部落の子どもの場合、自己概念のうち「効力感」と「疎外感」が学習理解度と強く関連しており、次に「解放学級への参加度」が強く関連していた。また、保護者の「期待学歴」がプラスに効果をもたらし、「父の暮らし向き」「保護者の学歴」も関連していることが明らかになった。

社会調査のさまざまな方法を用いた報告書であるが、福岡県のような具体的提言は付記されていない。調査報告書で明らかになった結果を実践の立場で考察し、どのような具体策を打ち出すかは今後の課題となっている。
4.1990年代以降の調査
以上、紹介した3つの調査以外にも1990年代後半に各地で教育調査が行われ、報告書が出されている。それらの調査の枠組みは家庭教育に焦点をあてて調査するという点で紹介したこれらの調査と同じであるが、問題意識の重点が階層格差と部落問題との峻別に向かっているように思われる。

実際、階層と教育達成の問題は現代日本において再び脚光を浴びており、教育社会学の重要な研究課題になっている。1960年代以降「貧困」と教育達成の関連についての研究がなくなり、「貧困」の問題自体が社会問題からはずれていくが、実は社会の底流に流れ続けていた問題であった。そうした点を指摘した苅谷剛彦著『大衆教育社会のゆくえ』(中公新書,1995年)をはじめとして、階層と教育達成との関連についての研究が進展しつつある。それに呼応するように、階層と部落、階層格差と教育達成、階層以外の部落固有の教育課題を探る研究が排出している。

いずれにせよ、これらの研究に共通することは教育達成の格差(あるいは学力格差)が完全になくなることは不可能であっても、拡大することは社会的に問題であるという問題意識である。無責任なエリートと希望をなくした貧困者に二極分解していく社会、それは社会を維持するという「保守的な」発想から見ても危機的であり、日本の現実がその方向に向かいつつあると考えている研究者は多い。部落だけに限ってみれば、じつは再貧困化は生活実態調査で確認され始めており、その点だけから考えても学力問題に明るい展望はあまりない。

どういう調査をすれば現実を分析できるのか、そしてその成果をいかした教育的取組はどうあるべきかなど、教育の一端に関わるものとして暗中模索である。90年代後半以降の教育調査についても興味深いものが散見される。それらの紹介はまた後日に譲りたい。

なお、これら実態報告書は巷に公表されていない資料がほとんどである。興味を持たれた方はセンターに連絡してもらいたい。また、学力問題に関しては解放出版社から出されている『これからの解放教育−学力保障とカリキュラム創造』(部落解放研究所編,1993年)や『地域の教育改革と学力保障』(部落解放研究所編,1996年)などが入手しやすいので、参照していただければと思う。
(いとう えつこ/京都部落問題研究資料センター運営委員)

注1 『同和教育実態調査報告書』(福岡県教育委員会,同和教育実態調査実行委員会編,1992.3)
注2 『宝塚市同和教育にかかる教育総合調査報告書』(宝塚市同和教育にかかる教育総合調査研究委員会刊,1995.3)
注3 『三重県学力・生活状況調査報告書』(三重県教育委員会刊,[1995])

『京都の部落史』史料を読む 第1回 辻芝居について
中 島 智 枝 子

はじめに
大映の京都撮影所長であった鈴木晰也氏が『朝日新聞』に「輝きは遠く 回想・大映京都撮影所」と題する回想記を掲載されている。2001年9月17日付の「奇人変人(下)」では戦後を代表する映画監督、溝口健二、伊藤大輔、衣笠貞之助三人についてエピソードが語られ、それぞれの監督の特徴がうかがえてとても面白かった。衣笠貞之助監督について「作風も人物も女性的でした。小芝居の女形出身だから、脚本読みはいつも声色を使った『仕方話』。これがおもしろいのなんの。」とあった。自らが役者として演じて指示するというのだから芝居役者魂消えずということだろうか。

ここで語られている小芝居であるが、『広辞苑』によれば規模の小さい芝居とあり、緞帳芝居とも言われるとある。緞帳芝居を『広辞苑』でこれまた引けば、「(引幕を許されず、垂幕を用いたからいう)下等な芝居小屋。小芝居小屋。」ということである。緞帳役者という語もあり、これは緞帳芝居に出る役者、下等な役者とある。これらの説明から芝居にも役者にも格があったことがわかる。衣笠監督が小芝居の女形役者であった頃、どうだったのか今はおいておくこととして、数ある芝居の中の一つ、辻芝居または門芝居について見てみたい。
近世の芸能者・大道芸人
『京都の部落史』史料編[第3巻〜第5巻]では芸能について多くの史料が挙げられているし、江戸時代の芸能については第1巻通史編に詳しく書かれている。歌舞伎役者を「河原者」といって賤視してきたのはよく知られているところであるが、近世社会における芸能者たちを取り巻く状況について、「芸能者への賤視」という項で次の様に書かれている。「近世にはいって能役者・能狂言師は職種全体の社会的地位が上昇しており、芝居関係でも舞太夫・浄瑠璃太夫・歌舞伎役者の上層にあるものにたいしては賤視は弱まり、地位の向上がみられた。しかし、だからといって一般的に芸能者にたいする『河原者』としての卑賤感は払拭されることはなかった。」[第1巻 340ページ]ということである。

役者の地位が向上したとはいえ、天保の改革では役者への取締りは厳しく、京都でも「元来役者共ハ至ていやしきものニ而、百姓・町人とハ身分之差別これあるものニ候」とされ、芝居役者は「芝居これある町内限りに住居」することおよび他行の禁止を命じられた文書(1842年 天保13)が「三条衣棚町文書」に残っている[第5巻 494ページ]。

芝居小屋で演じる役者たちですらこのような処遇を受ける中で、門付け芸人や大道芸人たちは一体どうだったのだろうか。『京都の部落史』では「非人芸と小屋頭」という項の中で次のように記されている。京都では幕藩体制が整備される中で非人身分の統制がはかられ、四座雑色支配下に悲田院がおかれ、洛中洛外約70の非人小屋が悲田院の下に統括された。非人小屋は小屋を所有している小屋頭が差配し、門付芸などの雑芸者や厄払いは小屋に間借りの形で居住していたということだ[第1巻 343〜344ページ]。

非人身分が演じていた芸であるが様々なものが見られる。「家々の門口に立って祝言を述べたり、種々の芸能を演じたりする門付芸」には万歳楽、春駒、鳥刺、鳥追、猿舞,大黒舞等がある。「街頭や路上で芸を演じ、観衆の投げ銭を収入とする大道芸」には辻放下、辻狂言、辻講釈、辻談義,辻読み、辻ばなし、薬売り、居合い抜、辻占、辻琵琶,辻能そして辻芝居等が見られる。バラェティーに富む芸能が路上で行われていたといえる。照明付きというわけでないからこれらの芸が行われるのは昼間のことである。人々が足を止めそれらを見て楽しみ、「お代は見てのお楽しみ」ということだったのだろう。わずかばかりの見物料が芸人にもたらされた。大道芸を楽しんだ時代は時間もゆっくりと流れていたといえる。車社会、テレビ時代の現代では考えられない光景である。
辻芝居(門芝居)について
江戸時代に都大路を賑わした大道芸であるが、その中の一つ、辻芝居とは一体どのようなものだったのだろうか。辻芝居については中島棕陰(1779年〜1856年)の『都繁昌記』(1837年 天保8)では次の様に描かれている。「芝居,芝居」と拍子木を鳴らすと人々が集まって来る中、名優の扮装をした「戯乞」つまり辻芝居を演ずる芸人が1人か2人あるいは5、6人連れで、なる丈多くの銭を得るために金持ちの家の門前で芝居を演じたと記されている。棕陰の幼少の頃から見られ、乞食十蔵、三五郎が有名であった。その頃は芝居の真似事のようなものであったが、文化、文政の頃(1804年〜1830年)には「大劇場の名優を学び、動作言説、撃拍舞踏、式に沿い、節に中り、妙、人の意を感ずるに足る」までになっている。金蔵、政吉、虎吉というような人気者も生まれ、彼らの稼ぎは一日10貫銭を下らない。ところが、これら全てが彼らの元に行くわけではなく、小屋頭に衣装のレンタル代をはじめ借金の利息等を払うと僅かばかりの銭しか手元に残らず、彼らの境遇は「嗚呼憐れむべき哉」に棕陰には映っている。天保の頃(1830年〜1844年)には、裕福な町々では辻芝居を禁止するようになり、「冷巷貧街」でしか行うことが出来なくなり、稼ぎもわずかばかりになっていると記されている[第5巻 488〜490ページ]。

中島棕陰の他にも、辻芝居については1810年(文化7)大坂に生まれ1840年(天保11)に江戸に移住した喜田川守貞が著した『守貞謾稿』(1853年 嘉永6)でも「乞食芝居」として紹介されており、それによると天保の改革で禁止され、嘉永年間(1848年〜1854年)、京都・大坂で禁止され、1853年(嘉永6)、乞食芝居の役者数人が江戸に来はじめ、その後一日に36人が来た事を聞いている。「当時、五、七人門前に来らざることこれなし」状態であるが、近日中に江戸でも禁止になるだろうと述べている[第5巻 497ページ]。

『守貞謾稿』によると、嘉永年間に京都では禁止されたとある。ところが、次に見る「柳原町史」によると次の安政年間(1854年〜1860年)には盛んに行われるようになったとある。黒船来航以来、幕府の統制が緩み混沌とする政情の中で再び京都で行われるようになったのだろう。芸人たちにとっては辻芝居は生活の糧を得る手段であり、小屋を必要とせず、1人、2人でも出来る芸能であるだけに再開も容易に行われたものと考えられる。
近代を迎えた辻芝居
幕末に入り、再び盛んに行われるようになった辻芝居であるが、明治維新以降どのように推移したのだろうか。京都府が、1887年(明治20)に行った町村沿革調査に基づき柳原町についてまとめた「柳原町史」の中に、六条村の東の鴨川原にあった「水車」と通称された非人小屋の七条裏について次のように記載されている[第5巻 498ページ]。

七条裏
一、 非人小屋ナレハ職業ナシ。袖乞等ニテ棲息ス。
(頭注)
「銭差又ハ藁草履ヲ作リ、辻芝居及ヒ物語、其他遊戯ヲ以生活ス。其盛ナルハ、安政以後、明治六、七年ニ至ル。相打チ停止ノ後ハ頓ニ衰微セリ。」

これによると、明治10年代の七条裏の住民達の生活であるがこれといった職業もなく、物乞いで生計をたてているとある。そして、頭注では銭差や藁草履など藁細工を行うかたわら辻芝居や辻語り等の大道芸に従事していたことが記されている。これらの大道芸が盛んに行われたのは安政以降から明治6、7年(1854年〜1873,4年)の頃のことで、停止されて以来にわかに衰微したということである。

辻芝居に大きな変化をもたらしたのは、1871年(明治4)8月に出された解放令である。京都府では解放令を受けて翌9月に天部村および悲田院に対して解放令を告げるとともに新たな条規を定め布示している。身分に伴う一切の公役の廃止とともに、「一、辻芸・門芝居、向後禁止の事」とした[第6巻 48〜50ページ]。

身分の廃止はとりもなおさずこれまで身分に応じて認められていた様々な権益の解消につながるものとなった。彼らの生活基盤がこれによって崩され、彼らを賤視する眼差しに満ちた世界に丸裸で投げ出されたのである。

エタ・非人等の身分の廃止とともに出された大道芸の禁止はこれらが生活の糧であっただけに芸人にとって大きな打撃を与えることとなった。辻芝居をはじめとする大道芸人たちは修業で積み重ねてきた芸の道を断ち、新しい仕事に活路を見出そうとしたのだろうか。元手は身についた芸である。一番手っ取り早く生活の糧を得ることが出来る仕事である。辻芸や門芝居を禁止されたとしてもやはり、それに頼らざるを得なかったと思われる。

辻芝居とはいえ銭を稼ぐためには人々を楽しませなければならない。そのため、「巧みに専ら大劇場の名優を学び」、芸の修業を積み、「名優の創意匠を写し」てとあるように工夫を凝らしている。一銭でも多くの銭を稼ぐことにつながるというだけではなく,ひのき舞台は辻々であっても観衆から拍手喝采を浴び役者冥利を感じた芸人もいたことであろう。衣笠貞之助監督ではないが、一度芸の魅力に取り付かれた人々にとってはそうすんなりと芸能の世界から遠ざかるということはなかったと考えられる。さらに、解放令によりエタ・非人身分が廃止となったことにより旧身分にとらわれることなく芸能者として生きる道を模索することが出来る機会も生まれたといえる。

こう考えると近代の到来とともに非人身分が行って来た芸が消滅したと考えるのではなく、近代の進展に伴い彼らが脈々と営んできた芸能の中から新しい大衆芸能が生み出されることになったといえるのではないだろうか。
(なかじま ちえこ/京都部落問題研究資料センター運営委員)

本の紹介 横井清『中世日本文化史論考』によせて―中世民衆精神史の歩み―
灘 本 昌 久

最近の部落問題をめぐる議論を特徴づけるものは、「ケガレ」への関心の高さだろう。これは、部落解放同盟が1997年5月に開いた第54回大会において、従来の階級闘争理論に基づく綱領を改め、「人権」「共生」などを柱とする新綱領に改定したことと連動している。従来の、「部落差別=支配の道具論」の枠から脱して、もっと民衆の精神のありように関心を向けていこうというわけである。

しかし、「ケガレ」の問題が運動の理論として認知されたのは、ごく最近のことに属するのだが、一部の部落史研究者の中でははるか昔からいわれてきたことである。その代表的論者というべき人が、ここで紹介する『中世日本文化史論考』(平凡社,2001年6月)の著者でもある横井清氏であることに異論をさしはさむ人は少ないだろう。

『中世日本文化史論考』の紹介にはいるまえに、まず簡単に氏の研究をふりかえって、読者の学習・研究の参考に供したい。横井氏の主な単著を時代順に挙げれば、次のようになる。

@『中世民衆の生活文化』(東京大学出版会,1975年)
A『東山文化』(教育社,1979年)
B『看聞御記』(そしえて,1979年)
C『下剋上の文化』(東京大学出版会,1980年)
D『現代に生きる中世』(西田書店,1981年)
E『的と胞衣』(平凡社,1988年)
F『光あるうちに』(阿吽社,1990年)
G『花橘をうゑてこそ』(三省堂,1993年)
H『中世日本文化史論考』(平凡社,2001年)

@『中世民衆の生活文化』に収録された「中世における卑賤観の展開とその条件」(初出1962年)では、横井氏は上―下(支配被支配)関係において理解されがちな賤視の問題を、中世における村落共同体の成立とそこからの特定の人の排除、そしてそれをささえる不浄観(ケガレ)、癩者への忌避感まで射程に入れて論じている。また、「中世の触穢思想―民衆史からみた―」(初出1968年)では、今でこそ知られるようになった「触穢」の思想を、部落差別の根幹をなすものとして明解に描き出している。細川涼一氏が『部落史用語辞典』で「歴史学が触穢思想の問題をはじめて正面からとり上げた」論考であると評価するのもうなずけるところである。師岡佑行氏が『戦後部落解放論争史』第2巻で明らかにしているように、林屋辰三郎氏によって切り開かれ,のちに横井氏によって継承されたこうした中世の部落史研究は、政治的に葬り去られるのであるが、今を去る40年も以前に、中世民衆の心的世界が、現在流行のケガレ論をはるかに凌駕する深みにおいて解明されていたことには、ただただ脱帽するしかない。後方を走っていた第二,第三集団が、今やっと、実は自分たちのはるか前方に第一走者である横井氏がいたことに気づきだしているというのが,昨今の状況である。

この他,@には散所の長者たる「山椒太夫」、山水河原者善阿弥の孫、又四郎の独白「某一心屠家に生まれしを悲しみとす。…」、婆娑羅、洛中洛外図に見る賤民の生活、身体障害など、現在の差別研究につながる様々なテーマが綺羅星のごとく並んでいる。

部落史研究に直接関わっては,1988年度の毎日出版文化賞にも輝いたE『的と胞衣―中世人の生と死』が重要である。従来、河原者と斃牛馬処理の関係は当然のごとく語られてきているが,ここでは「胞衣納め」すなわち、お産の時に出る胎盤などの処理に、河原者がかかわっている問題をとりあげ、しかも埋めたあとに松を一本植えるという行為の問題を考える。明示的にはしめされていないが、あの世とこの世という境界をはさんでの命のやりとりにかかわる行為として指摘されているように読める。

ついで、F『光あるうちに』は、その副題「中世文化と部落問題を追って」でもわかるように、氏による部落問題への直接的論及である。詳しくは、この本自体を読んでいただきたいが,たとえば杉田玄白の『蘭学事始』には、日本最初の人体解剖の場面が出てくるが,この時実際に解剖していたのは刑場で働く「穢多の虎松」の祖父である90歳になる「老屠」であるということが指摘されている。この史実は,最近の部落史研究では常識になってきているが、横井氏の指摘による普及が大きく貢献しているものと思う。

Fにみられる部落問題への直接的な言及もさることながら、氏の歴史研究全体に貫かれている,中世被差別民へのこだわり・関心にはただならぬものを感じさせる。G『花橘をうゑてこそ―京・隠喩息づく都』などは、タイトルからすると一見なんの変哲もない京都と花の物語と思いきや、締めくくりの章で丹生谷哲一氏の文を引きつつ「中世『王権』の理解には『正月に千秋万歳を唱え,重陽に菊を献じてきた中世河原者・散所者の世界のあった』現実は軽視しえない」と結んである。この他、石川恒太郎著『日本浪人史』(西田書店、1980年)に寄せた短い解説にでさえ、中世被差別民は登場する。氏のこだわりの深さが知れようというものである。

ところで、横井氏の歴史学の方法は独特のものがあり、論を立てたり、体系化を急ぐというよりは、中世民衆の精神世界を「耕す」といった風情がある。また、時として崖ップチへ連れて行かれて,真っ暗な闇をのぞかされるような時もある。しかし、世の中には闇の深さにたじろがされるよりも、崖の高さを計測し報告してほしい人もいるようである。そういう研究者には、氏の作品は「感性的問題提起のオムニバス」(『史学雑誌』86編5号、96ページ)としかうつらないのかもしれない。

しかし今回上梓された『中世日本文化史論考』を読むと、横井氏の問題提起が決して大雑把な印象批評を繰り返しているわけではなく、厳密な史料の解読に裏付けられた議論の産物であることがわかるだろう。

たとえば、『興福寺年代記』に出てくる「外嶋」という表記は「小嶋」の誤記・誤認であると多くの専門家によって安易に断定・通説化されていたものが、横井氏の手にかかると、完全な史料の読み違いであることがあぶり出され、このことは『太平記』の作者が「小嶋法師」であるとする推定に大きな疑問符をつけることになって今にいたっている。そして、それにとどまらず、『洞院公定日記』の応安7年(1372)5月3日の条についての解釈では、洞院公定が親しくしていた小嶋法師の死去の知らせをもたらしたのが、通説にいう見貞侍者の使僧ではなく、庭の工事で出入りしていた散所法師ではなかったかとする横井氏の論証を読んでいると、日記の行間の息づかいまで汲みとって史料を解読するその眼力にただ舌を巻くしかないのである。詳しい論証の手続きは同書を紐解かれたいが、読者は、数百年前に書かれたわずか数行の日記からも、これだけのことが見出し得ることに感動するだろう。

本書あとがきによれば、氏は来春、京都を離れて岡山へ移り住まれる由であるが、今後も中世民衆精神史の旅を続けられることを、一読者として切に願う。また末筆ながら、京都部落史研究所時代からのご厚情にたいして、この場を借りてお礼を申し上げる。
(なだもと まさひさ/京都部落問題研究資料センター所長)

事務局より
◇今号より、「『京都の部落史』史料を読む」を連載します。『京都の部落史』全10巻(京都部落史研究所刊,阿吽社発売,1995年完結)の内、第3巻から第9巻は史料編となっており興味深い史料が多数載せられているのですが、読み下しているとはいえ量が多いため全部に詳しく目を通すのは中々大変な作業です。通史編の1・2巻ではこれらの史料を元に記述しているのですが紙数の関係で、重要な史料でも数行でしか触れられていないものもあります。そこで今回、『京都の部落史』史料を活かしていく試みとしてこの連載を企画しました。次号も中島智枝子さんに書いていただく予定です。どうぞ、ご期待ください。
◇尚、『京都の部落史』は刷部数の関係で全10巻セット組があと僅かになりました。購入予定の方、お急ぎください。
◇ホームページで所蔵図書ならびに論文の検索ができるようになりました。「図書情報」の欄です。
◇紙面デザイン・紙質を変えましたが如何でしょうか? 単色なので少し地味になりました。


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