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Memento 15号(2004年1月25日発刊)
読み物



                                      

書籍紹介 『改訂 箕面市史 部落史 本文編』を読んで
伊 藤 悦 子

 はじめに
部落問題に関する行政文書があると聞いて、箕面市の市史編纂室をお訪ねしてから数年が経った。その時見せていただいた原稿がようやく、日の目を見ることになったことを率直に喜びたいし、関係者の労をねぎらいたいと思う。

『改訂箕面市史 部落史』は、1964年から76年にかけて編纂された『箕面市史』の部落史に関する記述が少ないという反省から、市史の改訂を出す作業の第一着手として『部落史』から編纂することになったため、『改訂』の文字が挿入されているのである。部落史の編纂は箕面市内にある二つの部落からの要望を受けたものでもあった。

1990年12月から編纂が開始されたと「あとがき」に記されているから、およそ8年の年月をかけて本文編は編纂されたことになる。この『本文編』の他に『史料編T』(1995年発行)、『史料編U』(2003年発行)がまとめて昨年公刊(といっても、一般頒布はされていない)された。逆にいえば、95年発行の『史料編T』は8年も倉庫で眠っていたことになる。編纂されたものの、1945年の時点で11世帯(桜ヶ丘)、46世帯(北芝)と、比較的小規模な部落であったこともあり、プライバシー問題に逢着してしまったのである。刊行が遅れるとともに、史料編の人名はすべて記号化、本文編については許可が取れたもののみ人名を出すという形で刊行された。

人名の記号化については、既に『こぺる』125号(こぺる刊行会刊、2003年8月)誌上で畑中敏之氏が「このような『秘匿』措置こそが、まさに部落差別を助長する所業だと考える」と「強い憤り」を表明している。ただ、この酷評は畑中氏の持論である地域史として描かれている部落史に対する批判の一環であり、『本文編』の内容についての内在的評価はほとんどなされていないといえよう。一方、『大阪の部落史通信』33号(大阪の部落史委員会刊、2003年8月)において小林丈広氏が本文編及び史料編について、詳しく紹介するとともに内容についての評価も行っている。私自身も小林氏の紹介と評価は妥当な物だと思う。すなわち小林氏は「融和事業の具体的展開を、行政文書から克明に再現している」ことを高く評価しているのである。
1.本書の特徴と内容
本書の特徴は、大切に保管されてきた箕面市域の旧村である萱野村、箕面村、止々呂美村の行政文書を丹念に翻刻し、それに基づいた緻密な論を展開している部分があるという点である。史料編の二冊はそうした行政文書が集録されている。その結果、本文編である本書は、650頁近い叙述のうち、前近代はわずか80頁ほどで後は近現代である。近現代は「第4章 部落問題の成立」(この章の名も独特であるが)から時代を追った叙述が始まり、「第11章 同和対策審議会答申以降の動向と現在」という終章で1997年度までの同和事業について記述している。ただ、「第10章 北芝と桜ヶ丘の民俗」の「第2節 北芝・桜ヶ丘のくらしと民俗」が聞き取りを中心にした叙述になっているが、他は行政文書を中心に叙述されている。

このため、「部落史」というよりは「融和事業・同和事業史」に近いものになっている。また、当該の部落では水平運動がほとんどなく、融和運動の中心人物である人を「A」と表現せざるを得なかった状況もあったことからだと思うが、戦前の叙述は「人々の歴史」をあまり感じられない状況になってしまったのは残念である。しかし、そうした課題があるものの、本書は既存の部落史研究に一石を投じる論考も含まれていた。私は水平社成立以降についてしか論じる力量がないが、本書の「第7章 育英奨励事業」の章と「第8章第2節 アジア・太平洋戦争期の被差別部落」の同和事業の分析及び自作農創設事業、そして「第9章第2節 農地改革」については、その史料検討の緻密さに感心するとともに、そこから見えてきた史実に新しい発見を得ることができた。
2.行政文書の分析から見えた史実
「育英奨励事業」は京都府庁文書にも大量に残されているが、きわめて個人的情報であったことと膨大な量であったために、かつて『京都の部落史』の融和事業について執筆する際に史料検索すら放棄した覚えがある。そうした扱いにくい史料を駆使して育英奨励者の階層、中退状況、地域への貢献度を明らかにしている。こうした論考は部落史・教育史において皆無だったことから、その意味は大きいと言えるだろう。

また、自作農創設及び農地改革の叙述は、農村における、しかも農業を主とする部落の研究が少ないこともあって、私には興味深いものであった。すなわち、戦時期の農業振興の一環である自作農創設事業のなかで部落の農家の多くが土地を取得していく様子が分かるのである。こうした買い取りを支えた部落の経済力は、実は地方改善運動の進展で現金収入があったことと関連があるのではと思うが、その点は本書では不明である。

また、戦後の農地改革については、土地台帳を元にして関係する農家世帯の土地所有状況を1879年、1915年、1945年、1951年の各年度ごとに明らかにし、それを通じて部落の経済状況と階層構造を分析している。その実証的態度に圧倒されるほどである。そして結論的には自作、自小作への農地解放は小規模農家も含めて実施されたが、農業のみで自立できる農地の保障ではなかったことを指摘するとともに、農地解放のもう一つの意義は地主の差別的な対応から部落が解放されたことであると指摘されていた。
おわりに
以上のように、行政文書を駆使した「部落史」の意味は確認できるし、刊行された史料編が新たな部落史の論考への道を開いたという意味で、本書の意義は確認できると思う。

全体の叙述については、執筆者が多いためか叙述に精粗があり、また、全国→大阪→箕面の部落という論の展開がやむを得ないとしても、全国的な状況の叙述が多すぎると感じるものもあった。また、規模の小さい部落の詳細な歴史であることから、細かい政治的な駆け引きの叙述も含めて、きわめて「郷土史」的な叙述になってもいる。

被差別部落においても「郷土史」は編纂されるべきであるし、その郷土史の叙述において部落問題は抜きにできない。また、実際に地域の課題である部落問題や差別を具体的に検討するために、地域の通史を明らかにする以外に、一体どういう方法論があるだろうか。そういう意味で、地域ごとの部落の歴史は明らかにされるべきであるが、それが「部落史」という表現でくくられることに、畑中氏の指摘するような意味で違和感を持つ部分もある。

問題は「郷土史」である個別の部落の歴史が、全体の歴史的文脈と関連づけられていない場合が多いことではなかろうか。近代部落史は全国的状況→部落の図式で描かれるが、部落→全国・全体状況がないのである。部落史を通して、私達は日本・日本社会の何を見るのかが問われていると改めて感じた。

なお、本書及び史料編の三冊とも、関係機関等への寄贈のみで一般頒布はなされていない。問い合わせ先は箕面市行政史料・市史担当(電話072−721−9824)である。また、京都部落問題研究資料センターが所蔵していることを付け加えておく。
(いとう えつこ/京都部落問題研究資料センター運営委員)

報告 部落史連続講座 ―『京都の部落史』にみる人びとの仕事と暮らし―
第1回 「古代の被差別民とその周辺」 講師 井上満郎さん
中 島 智 枝 子

今年度の「部落史連続講座」では、この間の部落史研究がどのような点を明らかにしてきたかについて通史的に概観した昨年度の講座の内容を、時代ごとに一段と深め、具体的史料を通して、「それぞれの時代の賤民集団に属する人たちがどんな生活をしていたかを、仕事(あるいは職能)を中心にして考えていく」ことを主眼におき開かれることとなった。

講座第1回目は、昨年12月12日、井上満郎氏を講師に迎え、「古代の被差別民とその周辺」と題して行なわれた。

井上氏はこの時期の被差別民の実態を窺える史料は少ない、また法文の規定がどれだけ実態を反映しているかという点でも明らかではないと断られた上で、「日本書紀」、「古事記」、「続日本紀」等の史料を用いて、現在わかる限りで被差別民の周辺について次のような点を明らかにされた。

五世紀後半、大和の大王(のちの天皇)を中心とする国家システムが出来た頃に身分体系のいわば原型が成立したが、やがて中国伝来の身分体系と重層した形で日本古代の身分体系・身分制度が形成された。天皇を頂点とし、五賤が底辺に位置する良賤制の仕組みは垂直関係にある身分を示したものであり、法文の上では厳密に規定されているが、実際の社会の中での暮らしや位置付けは相当にわかりにくい。陵戸、官戸、家人、官奴婢、私奴婢が五賤であるが、これらは「賤」という位置付けをされた(「賤民」という用語は古代にはない)。この賤身分については天宝宝宇8年(756年)に戸籍に「奴」と把握されたがこれは誤りで修正されたいという訴が起こされ、この訴えは認められた。この百年後の貞観5年(863年)に重税を逃れるために一般公民が賤を名乗っている記録があり、「賤」が卑賤な身分として忌避すべきものとして認識されていたと同時に、一方では進んで「賤」になることもあったことが紹介された。

上記のような垂直な関係と共に、中央に服従しない辺境に位置する民を北狄、東夷、南蛮、西戎とした中国の中華思想をもとに、政治的,軍事的に服従しない人びとや集団は即異民族と把握され、「中華の区域外の東方にある異民族」ということから、大和政権・律令国家の征服の対象となった東北地方の社会集団を蝦夷と表記した。すなわち水平方向に社会外のものとして把握したのである。

蝦夷についての記述は「日本書紀」景行天皇40年条や「古事記」景行天皇段に見られるが、これらの記述は記・紀が特定の政治目的をもって編纂された書ということもあり、実情として捉えることはできない。「日本書紀」天武天皇11年4月条(682年)の記述あたりからが事実といえ、7世紀後半の天武・持統天皇期にいたって、蝦夷は律令国家の統治下に組み込まれた。蝦夷の実態についても詳細は不明で、「夷語」があり、「訳語人」(通訳)がいたなどという記述から大和と蝦夷の使っている言葉が異なっているとの説もあるが、言語体系が異なっているのか、今日で言う「方言」なのか不明である。さらに東北地方から伊予、筑紫、和泉等西国への強制移住がなされ、なかには防人として配されてもいる。また俘囚集団の中には「長」とされた人物が見られるし、また天長10年(833年)には筑後国で「従八位上」の位を与えられている蝦夷もいて、これらの記述から豊かな生活を営む人々もいたことがうかがえる。元慶2年(878年)には蝦夷による領土回復運動(レコンキスタ)ともいうべき出来事についての記述が見られる。これが蝦夷に関する、政治的ないわば抵抗運動の記述の最後のものであるということが明らかにされた。この水平方向では社会外に置かれた蝦夷を、身分体系の垂直の関係に置いてみると良に位置するだろう。被差別部落起源論の一つに蝦夷起源説とでもいうべき説があるが、蝦夷を被差別部落の起源と見ることが出来るかといえば、以上のような簡単な考察からもこのようなことはいえないという。

ところで、よく知られているように、桓武天皇の生母は百済系の渡来系氏族の出身である高野新笠である。高野新笠の父は和乙継であり、乙継の孫の家麻呂について、「人となりは朴訥たるも、才学なし」ということにもかかわらず桓武天皇の外戚というだけで大臣クラスの中納言に昇進し、これが、「蕃人の相府に入るは、これより始まるなり」という「日本後紀」の記述について、「蕃人」として侮蔑の対象になっているようだが、これは「日本後紀」編さん時の意識であり、渡来系氏族出身の坂上田村麻呂をはじめとして多くの人びとを登用していることからも、一般社会ではこのような見方があったとはいえないとのことである。最後に、延喜年間(901〜923年)の法令により奴婢身分が消滅し、律令に規定された古代的な身分制は崩壊することとなった。

井上氏の講演を通して、蝦夷・夷・俘囚に関する数多くの史料の記述を読み解きながら、中央と辺境という地域的視角で日本の古代社会を見ることが出来たのではないだろうか。
(なかじま ちえこ/京都部落問題研究資料センター運営委員)


事務局より
前号でお知らせしましたように、今年度も部落史連続講座を開催しています。昨年12月には古代を井上満郎さん(京都産業大学教授)、今年1月には中世を山路興造さん(藝能史研究會代表委員)にお話ししていただきました。毎回40名前後の方々が熱心に受講してくださっています。今号では古代の講座報告を中島智枝子さんにお願いしました。次号では、中世及び近世の報告を掲載予定です。

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