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Memento 13号(2003年7月25日発刊)
読み物



 

―事務局より―
前号での灘本昌久さんの論文「部落解放に反天皇制は無用」に対して、いろいろなご意見・ご感想をいただきました。それらの意見をご紹介し、簡単な経過説明をさせていただきます。

前号発行直後に,部落解放同盟京都府連合会からは「協力関係にあるはずの資料センターの機関誌でなぜ運動路線への敵対的な文章を載せるのか」「生まれによる差別に反対する部落解放運動が、人間の平等に反する天皇制に反対して闘うのは当然のことである」との厳しい批判をうけました。また、6月16日に開催した当資料センター運営委員会において、運営委員の方々からも「所長という肩書きで、全くの個人意見を載せるのは機関誌の私物化ではないのか」「『Memento』は『京都の部落史』の成果や所蔵資・史料を広く提供するための媒体と位置付けられてきたが、今後、議論の場という性格を持たせていくのか」「研究と運動との関係や距離について改めて論議すべきではないか」等の意見が出されました。これらについては議論がいまだ進行中ですが、今後の「Memento」の編集方針を含め、資料センターのあり方を問うものとして慎重に進めていきたいと思っています。尚、7月8日の運営委員会では、これらの批判・意見を含めた経過説明を第13号に掲載することが確認されました。

議論の場として本誌が適当であるのかどうかについても意見の相違があるままなのですが、今回、事務局の判断で、前号の論文について前京都部落史研究所所長の師岡佑行さんに執筆の労をとっていただきました。

反天皇制は部落解放の核心である―灘本昌久「部落解放に反天皇制は無用」を批判する―
師 岡 佑 行

はじめに
部落問題を大きな状況のなかで捉えようとする動きをほとんど見かけなくなったのは、京都を離れて久しくなったせいだけではないようだ。そんななか、本誌前号で灘本昌久さんが、天皇制を取り上げて部落問題とのかかわりを論じたのは、ある意味で画期的だった。

部落問題を個々の人間関係においてとらえ、理解しようとする考え方は、これまで余りにも無視してきたところに切り込んだ点において評価できる。しかし、部落差別はけっしてこの方法だけでとらえることはできず、その原因は個々の人間関係を越えた社会の仕組みやさらに歴史にもとめるほかになく、これらの領域を見極めることによって、はじめて理解できるからである。天皇制こそが部落差別の根拠だとしてひろく論ぜられてきたが、近頃はさっぱり、そのような議論は見かけなくなった。自明のこととして信じられてきたのだ。しかし、それはある種の知的怠慢といえる。

灘本さんはこの忘れかけていた大事な問題を表に引き出した。おそらく井上清・遠山茂樹さんに代表される天皇制論にかわって、橋爪大三郎、加藤典洋、竹田青嗣さんら新しい世代が、豊富な資料と新たな方法論によって主張するそれに即応した議論をすすめようという問題意識が、そこにはうかがえる。たしかに、新たな天皇制論の展開は、天皇制と部落差別の関係についての研究の進展をうながしているといってよい。灘本さんはその先鞭をつけた。ただし、そのことが、かならずしも研究の深化を保障するものではない。「部落解放に反天皇制は無用」という表題に示されている灘本さんの結論は徹頭徹尾、間違っている。

この論文掲載の本誌前号がとどいて間もなく、日本共産党が綱領から「君主制の廃止」の一項をはずすと報道された。党勢の伸びなやみを防ぐために国民の間に人気のない、天皇制廃止の主張を引き下げるというのである。戦前、日本共産党が非合法のもと、多くの逮捕者を出し、拷問を受け、死にまでおいやられたのは、この一項によるものだが、政権獲得に邪魔とみて、あえて取り下げてしまった。灘本さんの主張はこの共産党と瓜二つであって、いわば、時流におもねるものといえる。

灘本さんは、昭和天皇について天皇機関説と二・二六事件を材料に高い評価をくだし、井上清さん、遠山茂樹さんの説をはげしく攻撃し、「両氏の説は、率直に感想をいって歴史の偽造」とまで言い切っている。はたしてそうなのか。わたしには誤読のうえの激語としか思えない。そして、天皇と部落との関係が、けっして敵対のそれでなかったことを列挙しつつ、部落解放同盟の綱領に「天皇制反対。一切の貴族的特権の廃止」がかかげられるのは「はるか後年の1960年」であって、「しかも(部落解放)運動の中に広まるのは、1980年代後半以降の短い歴史しかない」として「部落問題の解決という点からみて、反天皇の運動を先鋭に繰り広げる必要は、どこにも見出せない」という。この時期に昭和天皇の重体にともなう天皇フィーバーともいうべき報道ぶり、一方、天皇の徳を讃え、国家主義をあふり、戦争を肯定する主張がまかり始めたことを思えば、部落解放同盟が反天皇の立場を鮮明にした意義は大きい。灘本さんの説は、まさしくこの時流に乗る者であって、「曲学阿世」とはこのことであろう。
1.呪縛からの開放―わたしの場合
灘本さんの昭和天皇についての理解がいかに一知半解であるか、また天皇と部落の関係の親密さをあげて「天皇制反対」の主張が突飛で唐突だという認識がいかに間違っているかをみていきたいが、そのまえに「師岡氏自身は強烈な反天皇論者」であると、わざわざ注記されている点について、その理由をみずから記しておきたい。
 古本を買う
1945年2月か3月のことであった。わたしは当時、兵庫県立尼崎中学校の4年生だった。5年生に進級するはずだったが、戦時特例で3月末には卒業ということになった。学校には久しく行っていない。勤労動員で日立電工で電線巻き取りの重労働に従事し、原料不足のために尼崎精工に移されてハンマーを振るったり、ヤスリをかける練習をやらされた。日立時代の巻き取りの器械は「明治」の年号の入ったオンボロでしょっちゅう故障していた。巻き取り工場の主任だった30歳ばかりの工員は、買い出しに行くといってよく休んだ。工場の広場で配属将校が指揮して分列行進が行われたりしたが、士気は一向にあがらず、厭戦という気分が流れはじめていた。尼崎精工には先任者として旧制高校生がいた。文字通り弊衣破帽でゲートルもつけず、下駄ばきで、わたしたちは、羨望のまなざしを送っていた。しかし、ここも間もなく資材不足で通わなくてもよくなった。久しぶりで休日を謳歌することになった。

自宅は尼崎市長洲、中世荘園で有名な長渚荘に重なるのだが、その面影はなく、戦時中急増した棟割り長屋が無造作に建て込んだ街だった。だが、米屋や雑貨店、郵便局がならぶ商店街があって、わたしはブラブラと歩いていた。小さな本屋には、ろくに本はなかった。ところがである。その近くの古道具屋に函入りのしっかりした本が山積みされている。洋書もある。函に入った本の大部分は春秋社発行の『世界大思想全集』、胸がときめいた。中学校で3年ばかり勉強しただけでは、到底読みとることはできないが、少年の衒いだろう、「思想」の二文字がわたしを惹き付けた。値段を聞いた。いくらだったかは忘れたが、かなり高かった。でも欲しかった。どうしても手に入れたかった。

そこで思いついた。工場動員は単なるボランティアではなく、いくらかの手当てが出ていた。動員中は知らなかったが、解除されたとき、郵便貯金として保護者に渡されたのだった。そうだ。母に頼んで郵便貯金を卸してもらおう。すぐに、うんとは言わなかったが、やがて許しが出てその金を手にし、古道具屋の主人からそこにある本のすべてを買い取った。大風呂敷で何回も往復して家に運び、悦に入って手元の本を出したり、入れたりしていた。
 父の話
母はそれを見てなにも言わなかった。しかし、勤めから帰ってきた父をつかまえて、わたしがとんでもないことをしたように言いつけた。たぶん「思想」という文字が気になったのだろう、主義者にでもなるのではないかと。父親は叱らなかった。そしてたずねた。「いったい、お前は将来なにになりたい」。わたしはためらわずに「歴史を勉強したい」と答えた。母はよく家柄を誇り、だから恥ずかしいことをしちゃダメよ、と訓辞した。美しい山手言葉を操り、井戸端会議では目立っていた。尼崎の長屋の一角に住む自分は何者なのか、「歴史」という言葉はそこから出た。いま流に言えばアイデンティティをもとめていたといえる。

父は「学者になりたい。それは無理だ」。そういって縁戚にあたる資産家の長男が、ラスキン研究に資産をつぎこんで禁治産者になった話をした。「禁治産者」がなんであるかを知ったのはこの時であった。そしてつづけて言った。「歴史を勉強するって、それなら天皇のことを研究できるか」。唐突な問いかけだった。売り言葉に買い言葉。「やるよ」と答えた。この答えに関係なく「天皇は木曽のご料林はじめ、全国にたくさん土地を持っていて全国一の大地主なんだ。それに日本郵船や大阪郵船などの株主で日本一の大金持ちでもある。このことを忘れるな」と父は話した。歴史を勉強したいというわたしに天皇家の財産のことを話した父の意図は、いまもってよくわからない。

父がこんな話をしたのは、これが最初で最後だった。父は明治学院で学び、島崎藤村に親近感を持っていた。憶測するしかないが、『夜明け前』の冒頭から学ぶところ大きかったのではなかろうか。明治学院の同窓生に賀川豊彦がいた。賀川は神戸の貧民街で暮らし、社会事業に身を挺するクリスチャンとして著名であった。叔父の話では、「兄貴はその頃、賀川の大の信奉者で赤ゲットかついであちこち廻っとった」ということであり、その交友関係のなかで天皇家の財産などが話題として出たのかも知れない。父のあまり多くもない蔵書のなかには賀川の代表作でベストセラー、クロス張りの『死線を越えて』が並んでいたが、賀川については「偽善者」だと嫌っていた。覆いがかけられた暗い電灯のしたで父親が語ったこの話は、小学校入学以来、天皇を現人神だと教えられつづけてきたわたしにとってはショッキングだった。神秘のベールが剥がされたといってよい。
 空襲の経験
やがて空襲は激化した。学校にいるころ、毎月8日の大詔奉戴日に隊列を組んで参拝してきた大物神社が拝殿、本殿ともに焼失してしまった。神頼りのはかなさが実感された。その後代用教員として尼崎市立難波国民学校に配属されるが、気持ちはニヒルに近かったといってよい。宿直の晩、尼崎が空襲に見舞われ、校区に爆弾や焼夷弾が落ちた。家を壊され、家を失った人たちが講堂に殺到した。講堂のなかは負傷者や死人であふれた。5歳ばかりの女児はけがひとつなかったが人形のように美しく死んでいた。爆風で肺がやられたのだった。防空頭巾をつけたままの老婆が横たわっていた。夫と思える老爺がたもとをまさぐり、防空袋に手を突っ込んで、「金がない。通帳が見つからない」とたえず、くりかえしていた。

たまりかねて、運動場に出た。同じ年齢ほどの16、7歳の女学生がいた。防空頭巾をかぶり、もんぺをはいていた。そしてちいさなアルミの薬缶を手にしていた。ブツブツなにか言いながら同じ所をいつまでもぐるぐると廻っていた。聞けば、同じ職場から出征していった教師の娘さんだという。家族といっしょに防空壕に飛び込んだのだが、焼夷弾が壕を直撃し、家族全員は即死。一番最後だった彼女だけが、壕に入りきれずに助かったという。喪心の彼女は声もかけられない雰囲気だった。

空襲警報のサイレンを前ぶれに、昼となく、夜となく現れる爆撃機B29の編隊が、爆弾や焼夷弾を無差別に撒き散らしていく。抵抗するすべもなく、ひたすら壕のなかで小さくなっている他なかった。その悔しさ。その気持が全身を充たしたのは、空襲直後の惨状のなかではなかった。たしか、阪急百貨店だった。品薄で商品もろくに置いていない店内は込み合っていた。その人混みのなかで、怒りがこみ上げてきた。航空兵になってB29を撃墜したい。呆然と校庭をさまよい歩いていた少女。まるで人形のように可愛い死んでいた幼児。老爺がとりすがっていた横たえられた老婆。許すことのできないのはこの光景だ。銃をとって闘おう。その時、はっきりと天皇を意識した。天皇のために闘うのではない。少女が、幼児が、老婆が先日見たような目に遭うことのないようにオレは闘う。雑踏のなかでひとり興奮していた。45年6月のことだったが、白馬にまたがって閲兵する大元帥陛下裕仁天皇との訣別の日だった。おそらく、意識しなかったが、3月も前に父が語った天皇家の財産の話がわたしの背中を押していたに違いなかった。

とはいえ、すぐに航空兵志願の手続きをとったわけではなかった。帰っていくのは当時、喜んで宿直を引き受けていた国民学校の宿直室。その一室で天井板の節目を数えながら、鬱々とした気分に閉ざされていた。決して勝つことはないが、さりとて敗北は予想できなかった。8月に入って急に職員会議が開かれた。校長は本土決戦が近づいていると戦況が不利なことを話した。だれもが暗い目をいっそう暗くした。そして8月15日を迎えることとなった。
 敗戦と父の死
正午、テーブルの上に置かれたラジオが「玉音」放送を流し始めた。はじめて耳にする天皇の声、緊張して耳をそばだてるが、ガーガー、ピーピー。ほとんど聞き取れなかった。最後の決戦を呼びかけられたのだろうか、いや、戦争は終わったんだ、意見は二つに分かれた。わたしには奇妙なイントネーションの甲高い声のなかから「忍ビガタキヲ忍ビ、堪エガタキヲ堪エ」だけがはっきりと耳にとまった。負けたのだ。三枝という年輩の女教師が大声で泣き出した。それまで、誰も知らなかったが、なんでも身体障害者の子どもさんがいて、警報のたびに自宅にとんで帰って、壕に避難させていたとのことだった。

わたしは開放感でいっぱいになり、久しぶりに自宅に帰った。父がいた。その父は「側近が天皇を誤らせたんだ」と涙をこぼした。これは意外だった。つい先頃、天皇家の財産について話してくれた父が涙を流すとは。天皇家が日本一の金持になったことは苦々しいのだが、だからといって天皇に楯突く気持はまったくないのである。わたしは天皇にたいする感情が一筋縄にいかないことを目の当たりにした。「元気を出してよ」とわたしが父をなぐさめる羽目となった。やがて、父は「昔とったきねづかだ。通訳でもするか」と機嫌を直した。わたしは、スキップを踏んで勤務先の学校にもどった。雨上がりで道に水たまりができていたことをよく覚えている。

その夜、父は死んだ。夜中、弟が宿直室までやってきて急を知らせた。帰ってみるとすでにこときれていた。心臓麻痺だった。敗戦の翌日、焼き場では焚き物を持ってこないと受けつけないという。裏の板塀をこわして燃料をととのえ、お棺といっしょに大八車で焼き場に運んだ。母と弟妹たち、それに叔母だけの淋しい野辺の送りだった。ただ、「心臓麻痺」というのはウソだった。つい十年ほどまえに、聞かされたのは、一軒置いて隣から買ったアルコールが、メチル・アルコールで、それを飲んで死んだのだということだった。本当のことを話すと、わたしがなにをしでかすかわからないから、ということで診断書通りにわたしには話したのだという。

敗戦の日、皇居前の広場で中学生や女学生が土下座をしてひれ伏す映像が、よくテレビで流れたりする。わたしとほぼ同年輩の人たちなので、その気持はよくわかる。しかし、わたしはもっとクールだった。天皇が神聖な存在であるとか、あるいは天皇陛下のために申し訳ないという気持は、このときいささかも持たなかったのである。
 昭和天皇―無責任の極み
敗戦後、世の中は一変した。疎開した子どもたちがつぎつぎと帰り、教師たちも戻ってきた。もはや、代用教員は不要となり、その秋おそくにはお払い箱となった。ある日、配られてきた「朝日新聞」の一面にマッカーサー総司令官と並んだ天皇の写真が大きく載せられていた。胸を張って威張った長身の白人の横に、口をだらしなく半ば開いて呆然として突っ立っている中年の男。それまで新聞やニュース映画で見てきた、白馬にまたがり軍服に身を固めた姿、あるいは戦艦のブリッジで双眼鏡を手にした凛々しさは、かけらほどもそこにはなかった。これが、天皇か、情けなさが募った。

日中戦争開戦当時の首相近衛文麿が自殺を遂げ、太平洋戦争開戦当時の首相東条英機は自殺未遂、多くの政治家、軍人が逮捕されていった。46年元旦、天皇のメッセージが発表された。いわゆる「人間宣言」である。自分は言われてきたように「現人神」なんかではなく、「人間」なのだというメッセージは大きく喧伝された。しかし、わたしには、分かり切っていることであり、天皇から聞きたい言葉ではなかった。わたしが知りたいのは、小学校でも、中学校でも天皇・皇后の写真が収められた奉安殿という建物があって、その前を通るたびに最敬礼をさせられ、天皇陛下のために戦い、死ぬことこそが、臣下であるわれわれのつとめだということを、なにかにつけて教えられてきた天皇が、その責任をどうとるのかということに尽きた。一編のメッセージなんかではなかった。

間もなく、天皇は各地を巡行した。背広にソフト帽姿の天皇は大歓迎を受け、新聞やラジオは大きく報道した。大元帥の軍服を着てわたしたちに君臨していた天皇。その変わり身の速さ。なんだ、これは。軍人としての姿を背広にかえて、天皇でありつづけている。よくこんなことができるな。いい加減な男。近衛はじめ重臣の多くは死を選んだ。自殺することを求めるのではない。せめて天皇の位から降りるのが、礼儀だと思った。

小文執筆中に刊行された『文藝春秋』7月号は1948年に作成されたまま未発表だった昭和天皇の言葉を「朕ノ不徳ナル、深ク天下ニ愧ヅ」と題して掲載した。自分の国民にたいする慈しみが不十分だったこと、このことをかえりみて広く世界の人々に恥じ入っている、というのだが、わたしはこの文書の重点はここではないと考える。そうではなくて、その後段の「敢て挺身時艱に当り、徳を修めて禍を嫁し、善を行って殃を攘ひ、誓つて国運の再建、国民の康福に寄与し以て祖宗及び万姓に謝せんとす」とあるのがそうなのだ。つまり、あくまで天皇として、日本の再建、国民の幸福のためにつくす、というのだ。退位することなくあくまで玉座にしがみつこうとする、あまりにもムシのいい言葉だ。言葉は荘重だが精神は卑しい。戦前、戦後を通して天皇の位にありつづけ、天寿を全うした昭和天皇は責任がなんであるかをわきまえることのできなかった軽蔑すべき人間である。
 詩「昭和」
 昭和天皇は1975年10月、訪米を前にした記者会見で戦争責任について記者に問われ「そういう文学方面は、あまり研究していないので、よく判りませんから」と突っぱねたことがあった。テレビでの報道を見ていた妻の笑子が気色ばんで「ひどいことだわ」と声をあげた。妻の実兄信江俊次は京都帝国大学在学中に学徒動員で京都の伏見連隊に入隊し、間もなく病死した。たんなる病死でなくてイジメによることが後になってわかるが、ここでは省略しよう。その俊次は死の床で「自分は誰の子でもない、天皇陛下の赤子だ」といって、実母を嘆かせたのだった。養家と実家との間の複雑な関係を、止揚したのが「赤子」だった。笑子は、この言葉に「追いつめられた果ての自棄の恍惚」を見たのであり、書こうとする小説の主題はこれであった。その「天皇陛下」がこともあろうに「文学」をあげて「戦争責任」については、よく「研究」していないと、はぐらかしてしまったことが許せなかったのである。笑子が遺していった詩稿に「昭和」という1編があるが、その最後の一節はつぎの通りである。「背骨さむざむ 平和の御代に 母の齢まで生きてはみたれ かわらぬ昭和は 現つか夢か ねるにねられぬ子守唄」。
2.昭和天皇論
 天皇機関説の核心
灘本は先に指摘したように、昭和天皇を「天皇機関説」と「二・二六事件」とを例証として取り上げ、井上清、遠山茂樹の説を激しく論難している。

昭和天皇は「天皇機関説」と美濃部達吉を擁護してきたと灘本は主張するのだが、井上はこのことを少しも否定していない。いくつもの例証をあげて、昭和天皇が「天皇機関説」を支持してきたと述べている。しかし、ここが大事なのだが、井上は、天皇は「天皇機関説でも、天皇主権説でも根本は変わらない」というが、天皇機関説の最も大切なところが理解できず「君主(天皇)を国家と同一である」と捉え、「天皇に事故あらば国家も同時にその生命を失うことになる」と理解しているとみるのである。つまり灘本のように、昭和天皇が「美濃部達吉および彼の唱える天皇機関説を支持していた」と手放しでいうことができないことを、井上は理由を明らかにして主張しているのだ。

井上は天皇機関説についての美濃部の説をつぎのように要約している。すこしながくなるが、議論の核心なので引用しておきたい。
天皇の意思はとりもなおさず国家の意思であるのではなく、それは統治権の主体たる国家の意思を形成する一要素―たとえいかに重要絶対の要素であろうとも―であるということにある。ここから出発して、詔勅といえども、憲法に合わないなら、国民は批判する自由があり、「勅命」といっても、ばあいによっては国民の代表である議会はしたがわなくてもよいとする。さらに美濃部説は、統帥権をもっとも狭く、軍隊の指揮・統帥に限定する一方、議会の権限を最大限にひろく解釈する。これらの解釈によって、天皇の名による軍部や政府の専横を阻止し、議会政治を憲法上に基礎づけようとする点にこそ、美濃部説の特徴があった。
(井上清『天皇の戦争責任』、岩波書店、1991年)
昭和天皇はこの美濃部説の肝心なところをまったく理解しなかった。灘本は井上の著書をよく読んでいないようで、昭和天皇の理解する天皇機関説のあいまいさ、容易に反対物に転化してしまう危うさを完全に見落としてしまっている。
 昭和天皇のあいまいさ―専制天皇主義に道を開く
灘本は、原田熊雄述『西園寺公と政局』の一節を引いて、昭和天皇が美濃部達吉の天皇機関説を支持しており、また侍従武官長本庄繁の『本庄日記』から「軍部にては機関説を排撃しつつ、しかもかくのごとき、自分の意志にもとる事を勝手に為すは、即ち朕を機関説扱いと為すものにあらざるなきや」を引いて、「当時の資料を読めば、天皇機関説排撃運動に昭和天皇が強いブレーキをかけていることは確かである」という。そして灘本は、同じ資料をつかってまったく違った評価をくだしているとして井上の「軍部のこの『信念』と政府の国体明徴の声明は、この後の日本のファッショ化と軍国主義化の思想原理となるが、天皇裕仁は、その両方ともに同意した。…天皇裕仁は、欲すると否とにかかわらず、日本のファッショ化、軍国主義化の最高の指導者の役割をになった」という主張をあげて批判するのである。

しかし、灘本の取り上げる井上の著書『昭和天皇の戦争責任』には、昭和天皇が、ファッショ的な青年将校の影響をつよく受けた弟の秩父宮の天皇親政説をつよく退け、天皇機関説排撃の運動が天皇にとって「迷惑」であり、美濃部を支持していることがきちんと紹介されている。ただし、井上が灘本と違うのは、昭和天皇が美濃部の天皇機関説をちゃんと理解したうえで支持しているのでなく、肝心のところを読み違えていると指摘しているところである。

昭和天皇は侍従武官長の本庄繁にたいして「天皇機関説」を擁護する自説を明らかにした。これにたいして本庄は「軍部は学説にはふれず、ただ信念として崇高なる我国体を傷け、天皇の尊厳を害するが如き言動を絶対に軍隊に取り入れざらんとするにあり、かの議会中心といい、詔勅を論評し、議院は天皇の命に従うを要せずと云うが如きは、軍部の信念と断じて相容れざるものなりとの主旨を、軍隊の教育ないし統帥上、徹底せしめんとするに外ならず」と回答した。

これにたいして昭和天皇は「信念なるものは、世上の憲法学説などの上に超越するものなるが故に、右主旨は固よりけっこうなり」といって、本庄のいう「軍部の信念」を認めたのである。井上は、この天皇の発言を重視する。「信念」という個人的なものを「軍部の信念」として本庄が述べているのは、美濃部の天皇機関説にまっこうから対立する専制天皇主義にほかならない。昭和天皇が天皇機関説を支持・擁護するのであれば、つよく批判しなければならないはずである。ところが昭和天皇はそうするのではなく、本庄のいうところを「けっこうなり」と受けいれ、承認してしまっている。井上は、こうして天皇は「軍部が学説としてではなく『信念』として、専制天皇主義を軍隊内に強制するのみでなく、在郷軍人会などをつうじて、また広報により、ひろく全社会・全国民におしつけることを原則的に承認した」という。井上が「天皇は、機関説もわるくないというが、実は基本的には猛烈に機関説を排撃した軍部などと同じ観点に立っていた」というのはこの点からである。

つづけて井上は「機関説排撃が一木(喜徳郎―枢密院議長)や牧野(伸顕―内相)への攻撃にいたることには、天皇は断固として反対したが、前記のように、軍部が『信念』として専制天皇主義を、軍隊のみでなく広く国民に鼓吹するのには反対しなかった」と述べている。昭和天皇は、天皇機関説を擁護する一方、「専制的天皇主義」を承認して、この国をさらに軍国主義、ファシズムになだれこませる道を大きく開いた。「天皇機関説排撃運動に昭和天皇が強くブレーキをかけていた」と灘本がいうのは、一面のみを強調したものであって、昭和天皇が軍国主義化、ファシズム化に大きな役割をはたした事実を隠蔽し、天皇の責任に免罪符をあたえる許し難い主張なのである。
 二・二六事件のなかでの昭和天皇
遠山茂樹らが『昭和史』(岩波新書、1959年)のなかで、「こうして二・二六事件は、千四百余の兵力を動員しながら、あっけなく終わりを告げた。このことは、日本におけるファシズム支配をうちたてる上での天皇制の機構とイデオロギーがはたす強大な役割を示すものであった」と述べていることに、灘本はきわめて不満である。灘本が事件鎮圧直後に昭和天皇は陸軍にたいしてきびしく戒飭することをもとめたことをあげるのは、天皇は天皇なりに努力しているのに、そのことを記述していないのは不当だととらえてのことだろうか。

しかし、『昭和史』には「側近の重臣を殺された天皇は反乱軍の鎮圧を命じた」こと、政界・財界がよろこばず、国民が共感をしめさなかったことが記され、「将校も熱心な天皇主義者であったから、いざ反乱軍として扱われるとわかると、戦意を失って自殺あるいは投降した」とあって、前記の引用がつづく。わたしは、この叙述にまったく違和感をおぼえない。

灘本のあげる事件後の昭和天皇の陸軍にたいする戒飭の案文には「この際部内の禍根を一掃し、将士相一致して、各々その本務に専心し、再びかかる失態なきを期せよ」とあって、陸軍が「本務に専心」することを求めている。ただ、この天皇の言葉は軍に伝わらなかったようで、ウヤムヤに終わったことは灘本自身が認めている。

このことからも昭和天皇が陸軍の横暴を強く嫌っていたことは明らかであるが、しかし、その意思を貫徹することはできなかった。事件直後に成立した広田内閣は「軍部大臣現役武官制」を復活させた。護憲運動の高まりのなかで、強大な権勢をほこる軍部の力を押さえるために軍部大臣は現役の武官に限るとした制度を改めて、現役でなくてもよいことにした。つまりもとにもどしたのである。軍部大臣を現役武官に限ることによって、軍の力を強める方策を制度として確立したのであった。昭和天皇が「本務に専心」するよう陸軍にもとめてから、わずか二月後のことであった。二・二六事件後、軍部の政治的支配力を強める制度があらためてつくられたのであった。天皇はその意思を最後まで貫かず、竜頭蛇尾におわった。この制度によって軍部は政治をリードし、軍部専制のもとで日中戦争、太平洋戦争と侵略戦争を拡大し、ついには敗戦を迎えるにいたった。灘本が『昭和史』を非難するのは当たらないのである。

井上も明言しているように、昭和天皇は天皇制ファシズムの成立にイニシャチブを発揮したことはなかった。たしかに灘本があげるように五・一五事件にさいして、天皇は後継内閣について「ファッショに近きものは絶対に不可なり」と述べている。しかし、それも徹底したものではなかった。天皇機関説を支持しつつも、軍部の専制天皇主義を承認したのと同じく不徹底であり、ファシズムに道を開いた。大事なことは「天皇裕仁は欲すると、否とにかかわらず、日本のファッショ化、軍国主義化の最高の指導者の役割をになっ」ていたと井上が指摘するところである。このことこそが、昭和天皇の責任を問うかなめなのである。灘本の昭和天皇論から落ちてしまっているのは、この点である。
 昭和天皇の食言をくつがえす二・二六事件
灘本はいう。「井上氏や遠山氏のような牽強付会の論法で責任を押しつけられたら、どんな善良な人でも極悪非道の悪人に仕立てあげられようというものだ。まるで火事場にかけつけて消火にあたって、消しそこなった人を、放火犯と同罪だといっているようなものだ」。読者をひきつけるおもしろい比喩だ。「まして、二・二六事件の時のように、消火に成功したのなら、なおさら放火犯と同罪といわれることはないはずである」とつづく。そうだ、と相づちを打ちたくなるほどの巧みさである。しかし、比喩はよほど注意しないと、すりかえを生み出してしまう。この場合、気をつけねばならないのはこのことだ。

灘本は、二・二六事件のさいの昭和天皇について「天皇をとりまく重臣や軍部上層が右往左往しているときに、天皇制ファシストの反乱をたたきつぶしたのだから、大いにその手柄を賞賛されていいはずである」という。ここに、灘本の歴史認識の根本がうかがえるのであって、事件なら事件を孤立して個々に、しかも一局面だけを強調してとらえ、歴史のなかで理解することを拒絶する態度である。さきにみたように二・二六事件直後から軍部は力を強めていった。昭和天皇はこれを座視しているのである。これだけでも手放しで「賞賛」することなどできるわけはない。

しかも井上は二・二六事件のなかに重要な事実を見て取っている。昭和天皇が、侍従武官長、軍事参議官、陸軍大臣など、制度的には軍事にかんして天皇を補翼する機関が存在したにもかかわらず、その補佐を仰ぐことなく、断固として鎮圧の方針をつらぬいたことに注目するのである。このことは事件の真相を示すにとどまらず、戦後にかかわっている。戦争責任を否定しつづける昭和天皇は、その理由について、自分は補弼責任機関の決定を裁可するだけであった、とくりかえし述べてきた。たとえば、戦後間もなく昭和天皇は戦争を阻止できなかった理由について、藤田侍従長に「憲法上の責任者が慎重に審議をつくして、ある方策をたて、これを規定に遵って提出して裁可を請われた場合には、私はそれが意に満ちても、意に満たなくても、よろしいと裁可する以外に道はない」と述べているのである(中尾裕次『昭和天皇発言記録集成』下巻、芙蓉書房、2003年)。

だが、二・二六事件において昭和天皇は、補弼機関の助言を待たず、みずから絶大な権力を行使している。この事実が、戦争責任をまぬかれるために昭和天皇が展開する、つねに補弼機関の助言なしには決定したことはなかったという理屈が成り立たないことを見事に物語っている。敗戦が天皇の「ご聖断」で決まったと高く評価するが、二・二六事件のひそみにならえば、天皇の意思によって開戦も避けられたし、敗戦も45年8月をまつことなく、可能だったはずだ。たとえば、同年2月、近衛文麿が講和をもとめて上奏したとき、昭和天皇が受け入れていれば、東京大空襲や沖縄での地上戦、広島・長崎への原爆投下は避けられたに違いなかった。

さらにさかのぼれば、サイパンが陥落した44年7月、大本営作戦本部の戦争指導班は「今後逐次『ジリ』貧ニ陥ルベキヲ以テ速ニ戦争終末ヲ企画ストノ意見一致セリ」との結論に達していた(色川大吉「天皇イデオロギーと民衆のメンタリティー」、川満信一・新崎盛暉編『沖縄 天皇制への逆光』、社会評論社、1988年)。もはや日本が勝利する見込みなく、速やかに停戦にもちこむ方針を打ち出していたのである。昭和天皇がこのことを知らないはずはなかった。しかし、無視した。

歴史にモシは許されないが、数多くの死霊・生霊はそうしなかった昭和天皇の責任を問い続ける。井上は二・二六事件にこれだけのことを読み取っている。灘本がこだわる「賞賛」という評価には納まりきらない重い内容を含んでいるのである。

昭和天皇についての井上・遠山の説を「牽強付会」であり、「歴史の偽造」とまで灘本は強く非難している。なぜ、灘本はこのような「鬼面人を驚かす」結論に達したのだろうか。やはり、それは問題なり、事件なりを個別実証的にとらえて、そこだけで完結させてしまう見方、歴史の全体のなかに位置づけることを拒否するやりかたがもたらしたものといえる。井上が簡潔にその特徴について述べている天皇機関説をきちんとよんでおれば、昭和天皇が「美濃部達吉および彼の唱える天皇機関説を支持していた」と手放しで書くことができないはずだ。
 大学者美濃部達吉の名言?
灘本が、敗戦直後に美濃部達吉が憲法改正について「他日平静な情勢の回復を待って慎重に考慮すべき所」であると述べたことをあげて、「右へ左へ大きくぶれる大部分の政治家、学者、国民を尻目に節を守った大学者のみが言える名言」として高く評価していることに驚かされた。45年10月20〜22日の『朝日新聞』に掲載されていたと言うからわたしも目にしたはずだが記憶にはない。ただ、灘本の紹介するその内容から言って、読み捨てていたに違いない。

陸海軍は解体され、治安維持法は廃止され、政党や労働組合が復活し、非合法だった共産党が公然として登場し、時代は大きく揺れていた。マッカーサー総司令部(GHQ)は政府にたいして憲法改正をつよく勧告した。美濃部はこの時期に、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」ではじまる大日本帝国憲法を民主主義的に運用していけば十分だと主張した。いわば「天皇機関説」にのっとってやれば、いいのだと自信を見せた。そして、憲法の改正は時代がおさまってから慎重に考えればよいと述べたのである。

この美濃部の考え方は多くの憲法学者の認識であった。勧告を受けて幣原内閣が設置した松本蒸治を長とする憲法問題調査委員会は松本4原則を発表して改正作業をはじめるが、その第1項は「天皇が統治権を総攬するという大原則には変更を加えないこと」とあって、そこには美濃部の考えがつらぬいていた。満17歳になったばかりの少年だったわたしは、新聞でこの4原則を読んでがっかりしたことを、いまでもよく覚えている。古めかしいとの印象だった。敗戦後も天皇が同じ地位にあるとは考えられなかったのである。だから、GHQが松本が作成した政府案を否定したとき、わがことのように嬉しかった。

日本国憲法は、占領下において、マッカーサー総司令部の強いイニシャチブのもとに作成された。政府案は破棄され、占領軍がみずから作成した原案がもとになっている。戦争責任者があいついで逮捕され、昭和天皇が「人間宣言」のメッセージを発表し、政党や労働組合、農民組合が組織され、食糧の配給をもとめて皇居にデモがかけられるという激動の時代のさなかだった。美濃部の希望とは違って、疾風怒濤のまっただなかに日本国憲法は作成された。だからこそ、国民主権、基本的人権の保障、「戦争の放棄」などを明示した憲法が生まれた。それはアメリカの戦略にもとづくところが大きいとはいえ、しかし内容においては、悲惨な大戦を生き抜いてきたものたちの戦後の理想を表現するものであり、国民の意思と希望を端的に表現していて、多くの国民がこれを歓呼してむかえた。わたしもそのひとりだった。

歴史の歯車が大きく廻りだしているとき、美濃部は取り残されていた。だからこそ、主権在君の明治憲法を変えなくてもよいと主張した。そして、「平静な情勢の回復」という空虚なことばを持ち出して、憲法の改正を永遠のかなたに送り込もうとした。灘本が美濃部のこの言葉を「名言」と評価するのは、まことにおかしな話だ。21世紀初頭の現在、日本国憲法が、まるで古靴のように扱われ、有事法案が成立し、イラクへの自衛隊の出兵が可能な法案が成立し、戦争体制がきづきあげられつつある今、この灘本の主張は小泉純一郎首相への貴重な贈り物であろう。
 「運用」は奴隷の論理
さらに見逃せないのは、灘本が「本当の民主主義は、運用でこそその真価が問われる」と述べているところだ。おそらく、灘本の念頭にあったのは明治憲法に新たな解釈を与えた天皇機関説だろう。しかし、「運用」の道具である天皇機関説がいかにかよわい存在でしかなかったのは、その運命から容易に推察できる。それだけではない。法律の「運用」が、そんなおめでたいものでないことは今日の基地問題のなかにはっきりしている。国土の0.6%しかない沖縄に日本の75%の基地が集中する状態は、たえず基地問題を生じさせてきた。そのひとつとして米軍兵士による婦女暴行がある。しかし「日米地位協定」という法律によって暴行した兵士を日本の警察はすぐには逮捕できない仕組みになっている。「日米地位協定」の第17条には「容疑者の身柄が米軍にあるときは日本側が起訴するまで米軍が身柄を拘束する」とあって、原則的には起訴までは暴行した兵士は米軍側に置かれることになっている。この法律の条項を「運用」によって、起訴前に逮捕することとなるのだが、「運用」とは米軍に「好意的配慮」をもとめる理不尽なお願いによってはじめて実現するという、きわめて屈辱的な内容となっている。

だからこそ沖縄県民は日米地位協定の見直し(改定)をもとめてきた。96年の県民投票では見直しをもとめる県民は48万人、有効投票の91%に達している。運用では県民の利益は守れないのである。しかし、その後もしばしば繰り返される、見直し(改定)をもとめる沖縄県にたいして政府や外務省がこたえる決まり文句はアメリカの意に沿った「運用の改善」である。つまり法律の本体に問うことなく「運用」によって、ことを運ぼうとする。「運用」とは、奴隷の論理なのだ。「民主主義の真価」は「運用」で問われるという灘本の主張は、外務省や政府が双手をあげて歓迎しても、米軍基地をかかえた沖縄県民の長年の闘いにまっこうから立ちふさがる反動的な内容しか持ち合わせないのである。
3.「貴族あれば賤族あり」
天皇制という概念―1930年代はじめ
 灘本は、中世から近代にいたる数々の事例をあげて、いかに部落と天皇とが親密な関係にあったかを示してくれる。わたしも参加した京都部落史研究所が『京都の部落史』編纂のための史料蒐集のなかで明らかになった事実が多いが、それまでの部落史には見あたらなかった事実の発見に胸をときめかせたものであった。

とは言え、灘本はこれまでの部落史に欠けていたところを補うために、さまざまな事実をあげているのではない。主題とかかわって「明治から太平洋戦争を経て現在に至る被差別部落の経験からは、反天皇制は出てこない」のであって「部落が反天皇を掲げるのは、経験から出てこない飛躍」であることを立証するためである。そしてここから「現在の部落解放運動に散見される極端な反天皇主義は極端な天皇神格化と同様危険な発想であり、足が地についていない思想である」という見方をみちびきだし、「部落解放に反天皇は無用」という結論に達するのである。ほんとうにそうなんだ、と思わせるレトリックで書かれ、ひきこまれそうにさえなる。

しかし、部落と天皇との関係が深く、親密だった史実が数多く見出されたとしても、そこから灘本のような結論にいたることはできない。まず知っておきたいのは部落のなかに反天皇制の思想が現れるのは、それほど古いことではない。しかも、灘本がしばしばあげる直接的な経験からでもない。

まず、天皇制という言葉、考え方、概念が登場するのは1930年代のはじめで岩波書店刊行の『日本資本主義発達史講座』に集まった野呂榮太郎ら講座派とよばれるマルクス主義者によってであった。万世一系をほこる天皇が君臨する日本独特の君主制を天皇制と名付けて研究の対象とした。しかし、正面切っての研究は治安維持法に抵触するおそれがあって避けざるを得なかったことを記憶にとどめておきたい。反天皇制という考え方は、天皇制という概念が生まれた30年代以後でないと現れることはないので、灘本が「明治から…」というのは天皇制認識の歴史をきちんと押さえていない勇み足であろう。
 「天皇制の打倒なくして部落民の解放はあり得ない」
天皇制が実践的な課題の対象として登場するのは、灘本も援用する国際共産主義運動の総本山コミンテルンが1932年5月に発表した「日本における情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」、略して32年テーゼとよばれる文書においてであった。32年テーゼは、満州事変以後、ますます侵略体制を強め軍国主義をすすめていく日本の行き方を阻止し、そのため天皇制を打倒して、まずは民主主義革命をなしとげようとする革命戦略を示すものであった。32年テーゼは元京都帝国大学教授河上肇によって邦訳され、7月には非合法機関紙『赤旗』に掲載された。

灘本は、この32年テーゼに準拠した部落問題にかかわる指導方針として日本共産党の「身分闘争に関するテーゼ」をあげる。しかし、32年テーゼにもとづいて作成された運動方針はこれだけではないのであって、33年3月開催の全国水平社第11回大会にさいして左派の全水解消派が作成した「運動方針討議委員会の意見書」がこれに先行して存在する。『赤旗』に発表された32年テーゼを参考に作成されたものであろうが、起草したのは「身分闘争に関するテーゼ」作成者のひとり北原泰作だったと考えられる。「身分闘争に関するテーゼ」は起草者のひとりがスパイとして告発されたために「実質的に影響力をもっていない」のにたいし、「意見書」は北原や朝田善之助ら全水左派によって討議されており、後述するように松本治一郎にも大きな影響を及ぼした。

この「意見書」には「天皇制の打倒なくして部落民の解放はありえない」とはっきりと「天皇制打倒」がうたわれている。部落のなかではじめて天皇制にふれた文書には反天皇制の旗が高々と掲げられていたのである。なぜ、「天皇制の打倒」なのか、「意見書」は「日本における政治的反動と封建制の一切の残存物と強力な主柱である天皇制はすでに吾々が述べた如く、特殊部落民を封建的身分関係に束縛する根拠である」と述べている。つまり天皇制こそが部落差別の原因ととらえてその打倒をうったえている。

部落解放運動のなかで天皇制が登場してくるのは、「意見書」にみられるように部落差別が存在する根拠をそこに見出したからである。灘本は部落と天皇との親密な関係をくわしく、かつ興味深く述べている。しかし、一度もふれていないのは、にもかかわらず、なぜ部落差別が存在するのか、という肝心のところである。したがって、この点にまったくふれない灘本の議論のすすめかたは、個々の史実の提示に終わっている。ここでも、灘本お好みの思考方法、個別具体的なものへの偏愛がうかがえて、けっして個々にはとどまらない部落差別の根拠をもとめることへの嫌悪と拒否がつよく感じられる。これが灘本の個性とすれば、それを認めるにはやぶさかではないが、それならそれで反天皇制の運動に言及することは避けねばなるまい。
 上層身分 VS 最下層の「特殊部落民」
 はじめて、部落のなかから、反天皇制の旗幟を鮮明にした「意見書」には、なぜ部落差別が存在するのか、その根拠をつぎのように示している。
特殊部落民は封建的身分の残存物である。今日封建的身分制の残存物として、天皇・皇族・華族・士族(これは実質的に解消している)等の上層身分があり、その対蹠的存在として最下層の特殊部落民がある。これ等の上層身分は今日猶おブルジョア・地主的天皇制の 下においては社会的・政治的諸特権を与えられて居るのに反し、特殊部落民はあらゆる市民的、政治的権利を剥奪されて殆んど「奴隷」に等しい状態が置かれている。
これは重要な指摘である。封建的身分制の残存物として、一方に「上層身分」があり、その対極には「最下層の特殊部落民」がある。「対蹠」の「蹠」は足裏、中国の大泥棒の名前でもある。こうした社会の構造こそが、部落差別をもたらしている。もたらしているのはこの社会を総体としてくるみこむ「ブルジョア・地主的天皇制」であって、前者には「社会的・政治的諸特権」が与えられるのにたいして、後者からは「あらゆる市民的、政治的権利を剥奪」している。天皇制が明らかな差別構造の温床であることを、ものの見事に示している。慧眼な読者はもはやお気づきだろう、これは、松本治一郎のよく知られている言葉、「貴族あれば賤族あり」と内容から言って同じではないかと。その通りなのだ。たんに内容だけではなく、実際、この「意見書」のこの認識が、そのまま松本に引き継がれていく。このことはもう一度あらためて見たい(「全国水平社第11回運動方針討議委員会の意見書」は拙著『戦後部落解放論争史』第1巻(柘植書房、1980年)、第3章、注7に全文を収録している)。

当時、「天皇制の打倒なくして部落民の真の解放はありえない」と認識したのは、少数の北原泰作や朝田善之助ら全水左派だったと考えられる。しかも、いまわたしたちはこの「意見書」をさしさわりなく読めるが、原文では「天皇」や「皇族」の文字は「××」「××」と伏字にされて、すぐに読み通すのは難しい。文字通り言論の自由が封殺されていた重苦しい時代だった。全水第11回大会の運動方針討議委員会では討議されたにしても、公然と議論されたことはなかったろう。そんなことをすれば、たちまち治安維持法によって逮捕、拘留、獄に送られることになる。天皇制問題がはじめて部落解放運動のなかで登場したとき、わずかな左派の活動家が提起した課題だったのであって、最初から広範な部落大衆の支持を受けたのではなかった。
 松本治一郎の「質問主意書」―誤読の典型
1936年2月衆議院議員に当選した松本治一郎は政府に対して「華族制度改正に関する質問主意書」を提出した。かつて徳川将軍家を継いだ公爵徳川家達にたいして辞爵勧告を行い、徳川家達暗殺予備で拘留までされていた松本は、「華族制度改正」を議員活動の大切な課題としていた。二・二六事件直後の緊迫した空気のなかで松本がこの「質問主意書」を提出したのもその一環であった。この文書を作成したのは北原泰作と鈴木茂三郎だと灘本が指摘するのはその通りだろう。

灘本が、この文書で注目するのは「政府当局者は機会ある毎に『我国は同一種系の民族の血を成せるものにして上御一人下万民の国体なるが故に一国一家族の邦なり』と説いてゐる。若し当局のいへる所が真実であるならば、一国万民の我国に何等差別待遇はない筈であり、またあってはならないのである」と述べている箇所である。そして、ここから「まさに、戦前の水平社は、天皇の下の平等を終始一貫求めてやまなかったのである」と結論づけるのである。これは、なんという文書の読み方であろうか。あまりの甘さ。明らかにここでは「政府当局者」のことばを言質にとって、「一国万民の我国に何等の差別待遇はない筈」と当局者に迫っているのであって、どうひっくりかえっても灘本のようによみとることはできない。

くりかえすが「戦前の水平社は、天皇の下の平等を終始一貫求めてやまなかったのである」と灘本が強調することこそ、歴史の偽造であろう。たしかに西光万吉はじめ、天皇に親近感を持つ水平社の幹部はいたし、糾弾のさいに明治天皇の五カ条の誓文が持ち出されたことも少なくなかった。しかし、水平社創立宣言が「人の世に熱あれ、人間に光あれ」で結ばれて、天皇陛下万歳で終わらなかったのはなぜなのか。宣言が「過去半世紀間に種々なる方法と、多くの人々とによってなされた吾等の為めの運動が、何等の有難い効果を齎らさなかった事実」と痛烈に指弾したのは、主要には解放令とそれ以後の政府による部落にたいする施策に対してなのであった。

だからこそ水平社結成直後に京都府警察部長中野邦一は、全国水平社は「安寧秩序を害する結社なりと認むるの外なし」として「内務大臣は治安警察法により水平社の任意解散を諭示し、若し応ぜざる時は強制的に禁止を命ずること」と内務大臣あてに意見を具申している。中野や池松時和京都府知事は反水平社団体の国民研究会の育成をはかり、そのリーダーを京都市の東七条部落の保育所を訪問した皇太子裕仁(のちの昭和天皇)の婚約者久邇宮良子に「拝謁」させて、権威づけをはかったことがあった。これらは、灘本も関係の深い『京都の部落史』第2巻にくわしく記されている。十分にこれらの史実を知っている灘本が、「天皇の下の平等」を水平社が追い求めてやまなかったと強調するのは、部落と天皇のあいだの親密な関係を明らかにすることにつとめてきたあまり、ひとつの価値観をつくりあげてしまったからであろう。事実は大きく歪められてしまっている。

「天皇の下の平等を終始一貫求めてやまなかった」のは、部落差別の撤廃をもとめる帝国公道会などすべての融和団体であった。強いて水平社というならば、全国水平社を除名された南梅吉が結成した日本水平社であろう。南は「億兆一人もその処を得ざるものあるは、これ朕が罪なり」という明治天皇の聖旨を奉じて日本水平社を組織した。しかし、数年で有名無実化したのであった。
 「質問主意書」の核心
ところで、「質問主意書のなかで一番大事な箇所は灘本の引用に先行するフレーズである。そこにはこうある。「特に被圧迫部落大衆は対立的存在として悲惨の極みにおかれている。一方にはあらゆる特権を有する上層身分の存置されることは他においてあらゆる特権を奪はれ圧迫される大衆の存在する対立的関係を生み出して来るのである」と。さらにまた、「然るに現制度においては一方は華族制度を設けてあらゆる特権を与へ、他方においてはあらゆる政治的経済的劣悪を強制されている国民大衆、就中最も悲惨なる境遇に圧しつけられてゐる部落大衆を存在せしめてゐる」ともある。

この不公平を解消するためには華族制度の改正が必要だというのだが、一方に「上層身分」、他方に「被圧迫部落大衆」を置く。この認識がほかでもなく、さきの「運動方針討議委員会の意見書」から来ていることは疑う余地がない。まして北原は「意見書」の起草者でもある。

「天皇制の打倒なくして部落民の真の解放はない」を主張する「意見書」が、もちろんこの部分が示されることはないが、政府にたいする「質問主意書」のなかに忍びこまされ、要約した形ではあるが、部落差別を生み出す社会構造を示すものとして取り入れられている。全国水平社の活動家はそれ位、したたかなのだ。このことに気付いた時、わたしは深い感動を覚えさせられた。いわば、「貴族あれば賤族あり」の論理が「質問主意書」のなかに息づいているのである。

灘本は北原がすでにこのとき転向して「天皇制打倒の方針に完全に絶縁しているので、出獄してから天皇制に反対する理論武装を手伝う理由はまったくない」という。しかし、これはあまりにも転向を字義通りに受け取り過ぎている。転向の内容はさまざまで、完全に方向を転換したものも居れば、偽装転向もある。北原の場合、後者ではなかったか。
 直感としての「貴族あれば賤族あり」
あまりにも文字で書かれた文書にこだわりすぎたようだ。部落のなかではもっとはやく「貴族あれば賤族あり」を直感していたものがいた。「質問主意書」を提出した松本治一郎がそうで、1924年、全水第3回大会に「徳川家一門に対する辞爵勧告」を提案しているが、後年このことをふりかえってこう述べている。「実をいえば、われわれは徳川一家のみを対象にしたのでは決してなかった。天皇・華族等のいわゆる貴族搾取階級全体に対して抗議したのである。…身分の低い卑しいものがあるから、崇められるべき、身分の高いものがわかるのであり、天皇その他をあがめさせるためには、ぜひ賤しいものをつくっておかねばならないということである」(『部落解放への三十年』、近代思想社、1948年。『松本治一郎対談集 不可侵不可被侵』、解放出版社、1977年所収、184〜185頁より重引)。

後になってからの述懐とはいえ信じてよいのでなかろうか。つまり全水創立の頃、松本は直感的に「貴族あれば賤族あり」の認識をもっていた。反骨の根源である。松本の提出した「質問主意書」に、「運動方針討議委員会の意見書」をもとにして、マルクス主義理論によってみちびきだされた、一方において「あらゆる特権を有する上層身分」があり、他方には「悲惨の極みにおかれている被圧迫部落大衆」が存在するという部落差別の構造についての認識が示されているのは、この直感と響き合ったからだ。
「質問主意書」は部落差別の根拠というべき「貴族あれば賤族あり」の認識が、部落の生活を通じての直感とマルクス主義による科学的分析とがひとつになったという重要な意味をもっている。こうして部落解放の実現には天皇制の問題がもっとも大事だという考え方が部落解放運動のなかにつちかわれていったのである。
 一君万民・君民一体、赤子一体化
とはいえ、それは直線的にすすんだのではなかった。すでに二・二六事件は勃発していたし、日中戦争がはじまった。マルクス主義者は非共産党系の労農派までつぎつぎと逮捕されていった。時局に順応しなければ、社会的に認められなくなる。1937年9月、全水中央委員会は「挙国一致」をうたいあげて、「集団闘争」の方針をふくむ綱領をおろし、「吾等は国体の本義に徹し、国家の興隆に貢献し、国民融和の完成を期す」にあらためた。国体とは、日本は神聖な天皇を上にいただく有難い国柄をさし、文部省は『国体の本義』を発行して、国体の尊厳をうたいあげ、天皇への絶対服従をもとめて国民の教化にあたっていた。

1940年5月、北原泰作・朝田善之助ら全水左派は部落厚生皇民運動全国協議会の結成をめざした。皇民運動では、部落差別とは「反国体的矛盾」の一つで「一君万民、君民一体の日本国民の冒涜である」とされた。同じ年8月、松本治一郎を委員長とする全水中央委員会もまた「愛国の赤心を代表し、国体の真姿を顕現すべく東亜皇道秩序建設の行者として、軍官民一体の全国民的運動に依る部落問題(国民融和)完全解決を目指し、大和報国の維新体制樹立に邁進す」ることを方針とし、「赤子一体化」をめざした。「赤子」とは国民はすべて天皇の幼な子であり、そこに差別などあってはならないというのである。部落解放運動すべてが「天皇」一色に塗り込められた。そして戦争体制にすすんで協力した。時局にうながされての天皇への接近であったが、このとき、灘本のいう部落と天皇との親密な関係が運動のなかで一挙に実現したと言えよう。
 沖縄戦―「集団自決」
1975年7月、海洋博覧会の開会に合わせて沖縄を訪れた皇太子夫妻(現天皇明仁と美智子)の前に火炎瓶が炸裂した。先日、那覇市内で開かれた写真展でその写真を目にし、あらためて、沖縄の人々のなかに独立への道を奪ったヤマトへの怨念の深さを見、石川啄木の詩「ココアの一匙」を思い出していた。当時、バリバリの反天皇論者だった灘本は事件を知って躍り上がって喜んだが、若気の至りと考えたのだろうか、「とんでもないことだった」と反省の言葉を記している。このときの感動をいまもなお頑固に抱きつづけているわたしには、その時の気持を灘本のようにかんたんに引っ込めることはできないでいる。

沖縄では地上戦に多くの県民が巻き込まれて死んでいった。県民の犠牲者は20数万人に達している。しかも少なからぬ人々が米軍に追いつめられて各地で「集団自決」をとげて、天皇陛下万歳をとなえて死んでいった。いま、ダイビング・スポットで知られている座間味島もそのひとつだった。宮城晴美の『母の遺したもの 沖縄・座間味島「集団自決」の新しい証言』(高文研、2000年)は「集団自決」をこころみ、生き残った母初江の感動すべき記録をつづった本だが、そこにはこんな話が出てくる。当時、初江は若い村の職員だったが、同じ年頃の女性4人とともに手榴弾で自決をはかった。真っ赤な岩つつじの花束をつくってそれを囲んだという。「宮城を遙拝し、『君が代』を斉唱しはじめましたが、万感胸にせまり、涙が溢れてどうしても最後まで歌いつづけることができません」のだった。手榴弾が思い切り強く石に打ちつけられた。しかし、爆発しなかった。何度もくりかえすが不発に終わった。初江らは辛うじて生き残ったのである。これとは別に小学校校長のいた壕では、校長はそこにいた人々に、静かに「最後の覚悟をして身を整えてください」と話し、「天皇陛下ばんざいをしましょう。立派に死んでいきましょう」とよびかけて、「天皇陛下ばんざい」と叫んだという。子どもたちを含め、全員が校長の言葉を追って「天皇陛下ばんざい」を三唱した。終わるか終わらないうちに、手榴弾が爆発した。たちまちにして生き地獄がくりひろげられたのである。

のちにキリスト教会の牧師をつとめ沖縄キリスト教短期大学を創設した金城重明は、当時、17歳だった。渡嘉敷島では上陸してきた米軍をまえに「集団自決」の阿鼻叫喚の地獄が展開し、両親弟妹の4人が命を絶った。死にきれなかった母親には金城自身が手をかしたと苦悩に満ちた告白を行っている。その金城は行為の背景に皇民化教育があり、「天皇讃歌」があったとして「12月8日の太平洋戦争突入以来、学童たちの内面は、ますます敵愾心のとりことなり、”鬼畜米英”への憎悪に駆り立てられていきました。学校では、毎日の昼食時間に、お箸を取る前に必ず歌う歌がありました。次のような天皇讃美の歌です。『箸取るらば天地御代の御恵み、君と親とのご恩を味はえ』。キリスト教で言うと、食前の祈り、讃美になります。学校の給食時間に、生きていくのに欠かせない食事を通して、天皇讃歌を毎日反復させられたということは、一種の”宗教教育”による洗脳だったのです。」(『「集団自決」を心に刻んで 一沖縄キリスト者の絶望からの精神史』、高文研、1995年)と記している。

沖縄戦にはこのような例は少なくない。米軍に追いつめられて「集団自決」をえらんだこと自体が、天皇中心の皇民化教育の結果であり、死を前にして「天皇陛下ばんざい」が叫ばれたのであった。いうまでもなく沖縄は1880年、日本が武力によって強制的に併合した琉球王国である。それまでは島津の支配を受けていたとはいえ、琉球王国であり、国王は清国皇帝によって任命されていた。その沖縄において皇民化教育が徹底し、併合以来、わずかの歳月で「集団自決」というおぞましい事態をまえに「天皇陛下ばんざい」が叫ばれるにいたったのであった。
 天皇制の裏構造としての「救済幻想構造」
なぜだろうか。皇民化政策のはたした役割は大きい。だが歴史家の色川大吉はこういう。「歴史的に日本民族とそれほど深い関係になかった琉球の人びとが、なぜ鉄血義勇隊とかひめゆり部隊とかに、天皇陛下万歳を叫びながら参加していったのか。それは皇民化教育のせいだ、外からの押しつけだといわれますが、私はそれだけではないと思います。沖縄の人たちも主体的に天皇を受けいれていたのです」。さらに「沖縄の人ほど、つまりは日本帝国主義のメカニズムの中では、辺境にあったり、疎外されていた人ほど、いったん信じると、天皇にたいする忠誠心や、天皇の下で我々も平等に扱われたいという、一体化願望を強くもつようになります。底辺にいる、たとえば被差別部落民の中にも、熱狂的な天皇主義者が多かったのです」と指摘しているのである(色川、前掲書)。

部落の場合、天皇との直接の関係をもつところが少なくないが、そんなことのまったく存在しない沖縄でも、天皇のもとで平等に扱われたいという一体化願望がつよく存在した。色川はその理由として天皇制が、たんに政治的、軍事的な支配構造であったばかりではなく裏構造として「救済幻想構造」をもつからだという。つまり、「天皇は、沖縄であろうとアイヌであろうと被差別部落であろうと、万民に対して”一視同仁”―皆同じように太陽のような大御親の愛情をもって望むものだ、とされています。天皇制社会主義とかいう言葉が出てくるくらい、平等幻想をふりまいていた」のであり、「そうすると、各層の人びとはそれぞれ上から支配されていると感じても、最上位にいる方からは、自分は理解され、愛され、同情されているんだ、と思いこみ(そう思いこませたのが戦前の皇民教育でした)、階級を超えた平等の象徴である天皇、あるいは公平無私の皇室に対して恋慕の情をもつようになるのです。このように戦前の天皇制は表と裏の構造が一体となった円環構造をなしていました」というのである。灘本が例示する数々の部落の天皇にたいする親愛の情も、最底辺におかれた人々に共通する、天皇制の裏構造としての「救済幻想構造」がもたらしたもので、部落に限られたものでないことがよくわかる。

しかも、政治的、軍事的天皇制が解体して、象徴天皇制に変化した現在において、形を変えてこの「救済幻想構造」は保たれつづけている。阪神淡路大震災のさい、防護服に身を固めた首相村山富市が部下を連れて被災者を見回ったことがあった。記憶につよく残ったのは、おなじ頃、現地を訪ねる天皇夫妻の姿も放映され、皇后美智子がある被災者のまえに立ち止まって膝を折って慰めの言葉をかけていた光景である。村山首相がそそくさと足早に立ち去っていくのと大きく違っていた。皇后の行為は心からのものだろう。しかし、いまにして思えば、それは天皇制の「救済幻想構造」をみごとに体現していると考えられる。皇室ブームがいまなおマスコミをにぎわしている背景は、天皇制のこの構造によるところが大きい。
 象徴天皇制
敗戦によって天皇制は大きく変わった。天皇がもっていた神聖な統治権は消滅し、政治的、軍事的支配力を失い、「日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴である」ということになった。いわゆる絶対主義天皇制から象徴天皇制への変化である。しかし、これもひろく言われているとおり、天皇制の長い歴史のなかで天皇が権力をもったのは古代の一時期と明治維新以降、敗戦までであって、中世・近世においては権力は持たなかった。しかし、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康などの武将たちが崇めつづけたのは、その権威にたいしてであった。全くといってよいほど武力も経済力も持たない天皇が宣示をくだして認めなければ将軍の地位にはつけなかったのである。

象徴天皇制が保持しているのが、この権威であって、本来の天皇制に戻ったといわれるのもこのことからである。だが、この権威は絶大である。国権の最高機関である国会は天皇が召集して開き、総選挙も天皇が公示してはじめて開かれる。首相も最高裁判所長官も天皇によって任命される。外国に派遣される大使、公使には天皇の認証状が必要であり、外国の大使、公使を受けいれるのも天皇である。もちろん、だからといって天皇が個人的に実施できるのでなく、内閣の助言と承認が必要である。その点からいえば、形式的であり、儀式的であるが、それなしには日本の権力機関は機能しない。だからこそ、権威であって、すべての権力の上に立っている。
4.戦後の部落解放運動と天皇制
 松本治一郎を注視した昭和天皇
敗戦後、政治犯が釈放され、特高警察、治安維持法が廃止となり、財閥解体が指令されるなど、占領軍の民主化政策が急速にすすんでいた1945年11月30日のことであった。皇居では昭和天皇が側近の侍従次長木下道雄を呼び寄せてつぎのように話し、指示をあたえた。「今日の午後、宮内大臣の石渡(荘太郎)が司法大臣(岩田宙造)から聞いたところでは、傍受した短波放送によれば、過日の衆議院の開院式に行ったときに、松本議員が陛下に敬礼していなかったと伝えていたとのことであった。朕は気付かなかったが、このような事実があったか、どうかを調査せよ」と。松本議員とは松本治一郎、その松本が27日の衆議院開院式で「敬礼」をしなかったというのである。このとき、天皇はこれはけしからんことだ。「不敬罪」にあたるとくりかえしたようだ。国内の治安にあたる内務省が機能不全におちいったこのとき、海外の情報蒐集にあたっていたのは、司法省だったが、松本の動向に注意をはらっていたことがわかる。いわば、極度に権力が失われた事態のなかで、天皇をふくめて、権力中枢は松本の動きを注視し、天皇は怒りのまなざしを向けた。

夜に入って天皇は再び木下を呼びだした。さっき木下に「不敬」、「不敬」と言い立てたのが気になったのである。おそらく、これは政治にかかわっていると占領軍に受けとめられ不利を招きかねないと考えたのであろう。「開院式に不敬ありたりとの短波通信の件は、通信の真偽を知らんとするに外ならず。不敬とがめをするにあらざるをもって、廉立ちたる調査をせぬ様注意せよ」とあらためて付け加えたのである。松本が開院式で敬礼しなかったか、どうかはつまびらかではない。この事実は1989年、雑誌『文藝春秋』5月号に発表された木下道雄の『側近日誌』によって明るみに出されたのであるが、敗戦直後の時期における天皇の松本にたいする緊張した視線ははっきりと映しだされている。それは松本の背後にある水平社、部落へのそれだと言ってよい。敵意であった。

灘本がくわしく紹介している「カニの横ばい事件」はそれから、間もなくおこっている。参議院副議長だった松本は昭和天皇への拝謁を拒否した。そのいきさつについては灘本の叙述にゆだねたいが、かつて松本が不敬を働いたのではないかと疑った天皇が、このときどんな思いであったろうか。興味のあるところである。
 天皇制がはじめて公然と議論された戦後部落解放運動の出発点
戦後部落解放運動は1946年2月19・20日の2日間、京都で開かれた部落解放全国委員会結成大会とひきつづき開催された部落解放人民大会に始まる。部落解放人民大会では公然と天皇制について論議された。これが部落解放運動のなかで天皇制を正面から論じ合った最初である。その内容は『部落解放人民大会速記録』(京都部落史研究所が復刻。京都部落問題資料研究センターで入手できる)がのこされていてくわしくわかるが、部落解放全国委員会の記録とはかなりの隔たりがあって、解放運動のなかでの天皇制について明らかにしようとする場合、見落としてはならない重要な問題点を示している。

全国水平社の名前で招集された。しかし、統一戦線による部落解放がめざされ、旧水平社の活動家だけでなく、かつて対立していた融和事業家や宗教家をふくめて全国委員会は結成された。また、広範な運動の展開がめざされ、社会党、共産党だけでなく、自由党、進歩党などの保守政党や労働組合の代表を集めて人民大会が開かれたのである。どのような議論がおこなわれたのか。記録ののこされている2日目の人民大会から見ていく。

まずは開会のあいさつに立った井元麟之だが、部落解放運動は保守派もふくめた統一戦線によって闘うことを主張したが、同時に「我々被圧迫部落民衆こそは征服者が支配している天皇制に最も鋭く対立する処のものであります」と旗幟を鮮明にしている。ついで経過報告は北原泰作が行うが、北原は「差別観念を発生せしめる処の根拠の溝水的な天皇制支配の打倒なくしては、溝水を徹底的に整理しなければ、蚊は絶対に殺されたと云うことは出来ないのであります」と主張した。「蚊」とは個々の差別事件や差別問題をさしており、部落差別の原因は天皇制にあるとみて、その「打倒」をうったえたのである。

北原はまた「ブルジョア革命を不徹底に終って、天皇制的な絶対専制的な財閥、結託せる軍閥、官僚的な地主のこの日本の支配体制こそ我々を極めて悲惨な奴隷的な状態に陥れている処の歴史的根拠である」と述べ、ブルジョア・地主的天皇制が部落差別の原因であると指摘した。すでにみた1933年の全水第11回大会の「運動方針討議委員会の意見書」が、ようやく日の目をみたのである。日中、太平洋戦争をはさんで形をかえて登場したのであった。13年の月日が流れていた。

天皇制についての発言が議場を包んでいった。進歩党の中川喜久は、あいつぐ天皇制批判や打倒の意見に堪えかねるように反論をこころみ、「現在の天皇制のそのままではなく、即ち修正された天皇制として、民主主義的に天皇制を護持しようと云うのであります」と天皇制護持論をとなえたが、たちまちブーイングの嵐に見舞われた。そのときの情景を『速記録』は「場内騒然となり、『天皇制打倒』『天皇制廃止』『言論は自由だ、一応は聞いてやれ』『民族完全解放』『もう止めろ、引ずり下すぞ』等叫ぶ者多く、拍手、爆笑、間断なく起り、演説を妨害された為に完全に速記すること能わず」と記している。

委員長の松本治一郎は「人民大衆の上に不都合極まる優越感をもって君臨している上層身分の者を完全になくすることであります。これなくしては真の民主主義体制確立はあり得ない」と語り、いま手にしている「民主主義」は連合軍によって与えられたものであって、人民の力によってでなかったことに注意をうながした。そして「自由は決して与えられるものではなく、自由は人民自らの手に依って闘い取らなければならない」と述べ、「完全なる民主主義革命の達成とは、封建的な旧勢力を根本的に一掃することであります」と強調したのであった。

部落解放人民大会の主題は天皇制であり、解放委員会のリーダーたちは天皇制との対決、打倒をうったえ、聴衆はこれに賛成した。これが戦後部落解放運動開始のさいの情景であった。
 なぜ「行動綱領」に登場しなかったのか天皇制を取り上げる困難さ
ところで、ふしぎなことながらその前日に開かれた部落解放全国委員会結成大会では、当面の運動の目標として「行動綱領」が決定されているが、天皇制にかかわるものとしては「華族制度及び貴族院・枢密院その他一切の封建的特権制度の即時撤廃」と「一切の身分的差別の徹底的排除と人種、民族、国籍による差別待遇絶対反対」がみられるにとどまっていて、人民大会で北原が強調した「天皇制打倒」の文字はまったく見ることができない。論理的にいってふしぎであるが、これが実際なのである。

ここから学びたいのは、「綱領」がすべてを示さないということである。「綱領」によって、部落解放運動のなかの天皇制にたいする意識は計ることことはできない。まずは灘本の方法は破綻していることを指摘しておきたい。しかし、問題はそれだけにとどまらない。なぜ、結成大会と人民大会という、日を接した二つの大会でこれまでの隔たりが生じたのかということ、そこに解放運動のなかでの天皇制問題を考えていくうえでの難しさがあると考えられる。

部落解放全国委員会は、保守陣営をふくめての部落解放の統一戦線をめざしていた。参加を表明した真宗大谷派は天皇家と関係が深い。それに政党のなかでも天皇制を正面切って取り上げて、廃止を主張しているのは共産党だけで、社会党をふくめて、その他の政党はいずれも国体護持で天皇制を支持していた。この戦術的配慮が「行動綱領」に天皇制条項を書き込むことを避けさせたといえる。しかし、部落差別の原因をもとめれば、天皇制に行き着かざるを得ず、戦術的配慮がほころびたのが、人民大会であった。北原が「行動綱領」を越えて、天皇制の打倒をうったえたのは、このためであった。しかも、それは多くの賛同を得た。

だが、その後、人民大会の反響を綱領に反映させようとする努力はほとんどといってうかがえない。ないのではなかった。1948年5月に開かれた部落解放全国委員会第3回大会では群馬県連の代議員が「天皇制廃止問題の展開について」と題して意見を述べ、討論も行われている。カニの横ばい事件はこの年1月におこっていた。しかし執行部は「別にこの問題だけを切りはなして運動を行うのでなく、特にこの運動がもつ観念的傾向の危険性をさけて、凡ゆる機会を捉えて最も有効にして適切な運動を行う」と抽象的な回答をおこなって、討論を打ちきった。つまり天皇制にたいしては当面、当たらず触らずで行こうというのである。

天皇制を真正面から取り上げることにたいするためらい、忌避の念がここには働いている。「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」という旧憲法の規定は教育勅語などを通じて骨の髄まで染みこんでいた。部落の場合、色川のいう天皇制の「救済幻想構造」がこれに輪をかけていた。天皇制を綱領にかかげるのは容易ではないのである。
 政治の季節のなかでの登場
部落解放同盟が綱領に「天皇制の廃止。一切の貴族的特権の完全な廃止」をかかげたのは1960年のことである。灘本は「戦後の左翼的言論が横溢した敗戦直後にあっても天皇制反対が綱領に書かれなかったのに、1960年になって、天皇制反対が現れるのはやや奇異の感がする」という。「左翼的言論」を評価の基準に置くのはいかにも灘本らしいが、そんなものを顧慮することなくすすめられたのが部落解放運動の魅力だったはずだ。

わたしは、部落解放運動の歴史を通観しつつ、ここに来てようやく天皇制が綱領のうえに現れるにいたった経緯を思わないではいられない。1933年の全水11回大会の「運動方針討議委員会の意見書」で非合法的に述べられた、部落差別の根拠としての天皇制の認識が、1936年の松本治一郎の政府に対する「質問主意書」にゲリラ的に現れ、敗戦後の1946年、部落解放人民大会ではじめて公然と語られはしたものの、そのまま沈み込んでいったものが、1960年になってようやく形をとって現れたのである。

なぜ、灘本は「奇異」というのか。灘本は解放運動のなかでの派閥抗争をあげるが、それはそれとしてきちんとまとめられなければならないが、このこととは直接に関係はない。わたしは、戦後の部落解放運動がしだいに力量を付け、社会的に拡がりをもってきた結果だと考える。部落解放全国委員会は松本治一郎公職追放反対闘争をたたかい、オール・ロマンス闘争に勝利し、1953年関西地方でおこった風水害には先頭に立った。1955年部落の青年、子ども、婦人が参加する第10回大会で、運動の大衆化をめざして部落解放同盟と改称した。マスコミが部落解放運動に注目しはじめ、社会党、共産党が運動方針に部落問題の解決をとりあげ、自民党も無視できなくなる。そして、1958年から60年にかけては教職員にたいする勤務評定反対闘争、安保闘争に積極的に参加した。とりわけ、勤務評定反対闘争では実力闘争をふくめて教職員組合を積極的に支持した。またおなじ時期にエネルギー革命によって閉山を強行しようとする三池炭坑と闘う三池労組を支援した。

それは政治の季節だった。敗北に終わったが、あらゆるものが問い直された。天皇制もそうだった。安保闘争のまっただ中、仕組まれたミッチーブームに乗って皇太子明仁と正田美智子の結婚式が行われ、テレビの視聴率がかつてなく高まった。だが天皇家への関心が高まったが誰もが浮かれたのではなかった。批判も同時に高まった。『中央公論』1960年12月号に作家の深沢七郎が天皇家を戯画化した小説『風流夢譚』を発表したのもそのひとつだった。

天皇制について綱領にまで明記することができなかった部落解放同盟が、勤務評定反対闘争、安保闘争、三池闘争などの高揚する国民的な闘いに参加するなか、天皇制への関心の高まりのなかで、天皇制を綱領にとりあげようとしたのは自然の動きだった。いままでの迷いを踏み切り、「天皇制廃止」を綱領にかかげた。そして、その綱領を変えることなく、21世紀の現在にいたっているのである。ちなみに、『風流夢譚』の場合、内容が不敬にあたるとして、発行所の中央公論社の社長宅が右翼の青年に襲われて家人が殺害され、中央公論社は編集者を入れ替え、編集方針を変え、これに抗議して大江健三郎らが執筆を拒否するにいたった。作者の深沢は右翼によるテロをおそれて何年もの間、逃亡を余儀なくされたのである。天皇制にはなるべくふれまい、そっとしておこうとするタブーの実際的な背景である。
 二つの天皇制条項
ところで、部落解放運動史上、綱領に最初にかかげられた天皇制についての条項について取り上げるなら人目をひくように「奇異」とあげつらってみせるのではなく、発表された綱領の文言にもっとていねいな考察を示すべきであった。灘本があげた「天皇制の廃止。一切の貴族的特権の廃止」は、たしかに1960年9月に開かれた第15回大会で決定したものであった。第1次草案は「天皇制の廃止。一切の貴族的特権と待遇、地位の完全な廃止」であり、これが討議を通じて前記の条項に落ち着いたのである。ところが、奇妙なことに、1960年、解放新聞社が発行した『完全解放への道―部落解放同盟第15回全国大会報告集』には、「天皇・皇族など一切の貴族的特権の完全な廃止」と記載されており、第16回全国大会の『報告書』でもそうなっている。だが第17回大会から第20回大会までの全国大会のさいの綱領には、最初の「天皇制の廃止。一切の貴族的特権の廃止」に戻されている。そして、第21回全国大会以降には、これとは代わって「天皇・皇族など一切の貴族的特権の完全な廃止」となった。1997年には改定されて、差別意識をとりあげた「基本目標」の第3項のなかで「身分意識の強化につながる天皇制、戸籍制度に反対する」と改められ、現在にいたっている。はじめて解放同盟の「綱領」に登場した天皇制条項は二つあって、1960年代前半にはめまぐるしく入れ替わっている。ここではこのことに注意したい。大会で、原案の「天皇制の廃止」の文言が、天皇制の戦後の変化を考慮していないことに不満で、修正をもとめたのが北原泰作であって、これに代わるものとして提案したのが「天皇・皇族など一切の貴族的特権の完全な廃止」だったのである。

灘本は当時の部落解放同盟のなかでの派閥にふれて「共産党系対社会党系(ここには、戦前は共産党系であったが、戦後、部落の独自的利害を強調して共産党と対立した朝田善之助も含む)の路線闘争がからんでいる」と指摘しているが、せっかく取り上げるなら、この二つの天皇条項とのかかわりを述べなければならなかった。つまり、灘本のいう「共産党系」が解放同盟中央本部のイニシャチブをにぎっているときには前者、「社会党系」など「非共産党系」がにぎっているときには後者が持ち出されているのである。

そして、このことは灘本がもっともらしく述べる「これまでは、部落解放同盟内にいる、穏健派に対する配慮から、露骨な反天皇のスローガンは遠慮していたのだが、ここへきて一挙に盛り込まれてしまったのである」が、いかに実際と違っているかを具体的に示している。この大会で綱領に天皇制条項をくわえることは、共産党系だけでなく、社会党系=「穏健派」にも共通していたのであって、けっして灘本が面白おかしく言い立てるように「一挙に盛り込まれてしまった」ようなものではなく、二つの路線がせめぎ合っていたのであった。
 なぜ80年代後半からか
灘本の論文のなかで、もっとも興味深かったのは、部落解放同盟機関紙である『解放新聞』から「天皇」「皇室」「君が代」「日の丸」「紀元節」という天皇制に反対する記事を時間的におって部落解放運動と天皇制との関係を明らかにしようとつとめたところである。灘本によれば、創刊の1947年から75年までの29年間に反天皇制をうたう記事はわずかに18件で、0件の年が多く、昭和天皇在位50周年の76年から85年間での10年間は87件であり、86年から92年までの7年間に278件と、80年代後半に入って急激に増加していることを指摘する。天皇制に関する言説を数量でみようとは、とても考えつかないやりかただが、灘本が言いたいのは「反天皇言説が『解放新聞』の紙面を毎号のようににぎわせるのは、1980年代のなかば以降であり、最近のことに属する」という点にある。

しかし、これは考えてみれば当然のことであって、1976年に天皇在位50年式典が開かれ、79年に元号法制化が実現するなど、天皇制を強化する動きはみられたが、それほど目立った動きはなかった。それが82年に中曽根康弘内閣が登場して、靖国神社公式参拝、政府による建国記念日式典の実施など、「戦後政治の総決算」の掛け声のもとで新たなナショナリズムを高揚がはかられるなかで、天皇制がつねに前面に立てられてきた。中曽根は天皇について「いっさいから離れているがゆえに天空にさんぜんと輝いている太陽のごときもの」から一歩すすんで「平和的文化的な天皇を中心にわれわれが結束」することをもとめたのである。『解放新聞』に天皇制関係の記事が増えはじめるのはこのためである。

灘本が作成したグラフ「『解放新聞』にみる天皇制関係記事」からは、88年に記事数が激増し、89年がこれについでいることがみてとれるが、これは昭和天皇が重体におちいり、死去したことの反映である。88年9月、昭和天皇が重体におちいった。テレビも新聞も毎日のように容態を大きく報道し、各地に設けられた記帳所での平癒祈願の署名が600万に達した。祝賀会や運動会までが取り止めとなった。天皇制について考えるために開かれた集会は会場を断られ、地方議会では天皇快癒祈願決議に反対した共産党議員が問責決議をあげられたり、発言が議事録から削除された。長崎市議会で、天皇の戦争責任に言及した市長の本島等は自民党や右翼から嫌がらせや脅迫を受けた。翌99年1月の昭和天皇の死去、皇太子明仁の即位、朝見の儀など、大喪までマスコミはひきつづいて大きくとりあげた。「天皇制、一切の貴族的特権の廃止」を綱領に掲げている解放同盟の機関紙『解放新聞』が、この天皇フィーバーを批判的に取り上げるのは当然であり、だからこそが記事数が増えたのであった。

どうやら灘本が『解放新聞』の天皇関連記事に関心を寄せるのは、もっぱら記事数であって、内容ではないらしい。言いたいのは「反天皇言説が『解放新聞』の紙面を毎号のようににぎわせるのは、1980年代のなかば以降であり、最近のことに属する」。このことが言いたかったようだ。「戦後、解放同盟が反天皇を綱領に明記したのは1960年からで、しかも運動の中に広まるのは、80年代後半以降の短い歴史でしかないこと。こうした経緯をふまえ、また普段の生活の中での差別事件の具体像を考えると、部落問題の解決という点からみて、反天皇の運動を先鋭に繰り広げる必要は、どこにも見出せない。現在の部落解放運動に散見される極端な反天皇主義は、極端な天皇神格化と同様危険な発想であり、足が地についていない思想である」。ここから灘本は「部落解放に反天皇制は無用」との結論をみちびきだすのである。

まず、灘本に聞きたい。レトリックの巧みさには舌をまかされるが、「先鋭に繰り広げる」反天皇の運動とは具体的になにを指しているのか。また「極端な反天皇主義」とはどのような考え方、主張をいうのか。寡聞にして知らないが、まさか読者をして反天皇の運動に尻込みさせるために、このような言葉をパソコンから招き寄せたのでないことを祈るのみだ。そして、最後に尋ねたいのは、ずいぶんと部落と天皇との親密な関係について述べられているが、ではなぜその部落に部落差別が向けられるのだろうか。この肝心のところに一言もふれていないのが気になるのである。
5.現代天皇制と部落差別
灘本の所論にたいする批判は終わった。どこを押しても「部落解放に反天皇制は無用」ということにはならないのである。だが、灘本は最後に「2002年3月末で同和事業の時限法が切れて、これからは、要求中心の行政闘争ではなく、地域に根ざした街づくりを進めていこう、そして、その時は、なるべく思想信条を越えて幅広く手をつないでいこうというのが、現在の部落解放運動の方向性である。そのとき、綱領中に置き忘れられた『天皇制…に反対する』という文言に、何か意味が見出せるだろうか」と現在の解放運動にふれて問題提起をおこなっていて、これを見逃すことはできないのである。
 気宇壮大に
 まずは「現在の部落解放運動」についてだが、解放同盟も全解連も灘本が要約するように「地域に根ざした街づくり」ということになっているらしい。もちろん「街づくり」運動そのものは多くの課題があって、それ自体容易ではないだろう。だが、全国水平社創立以来の歴史を学んできたものにとって、これだけではあまりにつつましく、なにか萎縮してしまったのではないかと心配になってくる。「人の世に熱あれ、人間に光あれ」と人間の解放を高らかにうたいあげて水平社は出発したのではなかったか。それから80年後の現在、世相は殺伐とし、世界は人を人とも思わない暴力に満ち、小泉内閣はブッシュに呼応していつでも戦争できる体制をととのえた。水平社創立宣言がいまなお生命力を保っているのは、このきびしい現実と正面から向き合っているからである。

いうまでもなく、部落解放運動は、まずは部落の差別からの解放をめざす運動であって、水平社を創立した人々は、それがまっすぐに人間の解放につながることを知っていた。このことが、いまあらためて問われているのであって、「地域に根ざした街づくり」のみに収斂させるのは、あまりにもみみっちいと言わねばなるまい。
 差別意識の後退と差別事件
20数兆円におよぶ同和対策事業によって、部落の生活環境は大きく変化した。それにともなって部落に対する意識も大きく変わった。地域改善対策協議会の「平成5年度同和地区実態把握等調査」によれば、部落差別が最も端的に現れる結婚にしても、部落民と部落民でないものとの結婚の比率は年齢が低いほど高まり、20歳代では 70%に近いが、夫婦ともに部落民の比率はほぼ25%である。そして部落民でない親の場合、子どもが部落民と結婚することを認める割合は85%を越えている。差別意識は大きく減少してきたのである。この事業のはじまった60年代末には考えられなかったような変化である。高く評価してよい。

だが、同じ調査で「人権を侵害された」経験をもつものは3割をこえ、「相手に抗議した」のは、わずかに20.2%、「黙って抗議しなかった」は46.6%に及び、半数近くが抗議もせずに泣き寝入りをしている。また、部落差別事件はいまも発生しつづけている。『全国のあいつぐ差別事件 2002年版』(部落解放・人権政策確立要求中央実行委員会、2002年11月)によれば、(1)差別投書・落書き・電話、(2)インターネットによる差別事件、(3)地域社会での差別事件、(4)差別身元調査事件、(5)就職差別事件、(6)企業・職場での差別事件、(7)公務員による差別事件、(8)結婚差別事件、(9)教育現場における差別事件、(10)宗教界での差別事件、(11)マスコミ・出版界における差別事件、というように多様にわたっている。
 インターネットによる部落差別
なかでも注目したいのは、インターネットによる差別事件だが、同書では三重県人権問題研究所の田畑重志の分析結果として、インターネットでの差別事象は2001年には253件にのぼり、2000年に比較して4倍近くにあがっていると指摘されている。さらに「部落問題大辞典編集用掲示板」、「部落問題大辞典編集用掲示板2」など差別することを目的とした掲示板がみられ、「『部落問題大辞典編集用掲示板』のような地名リスト的な内容から家族が身元調査をしているという悩みが寄せられている」というのである。

わたし自身、最近ある問題について、検索していたら「その地域に住んでいる方なら、どうしても口に出せない『エッタのすること…』。部落民に食い潰されるこの地域、…戦前の平民、”新平民”の区分けは必要だ」という文章に出くわした。明らかに部落差別である。おそらく、インターネットの性格から言って、若い年齢層だろう。その人々が部落差別をインターネットのうえで振りまいている。差別意識は決して死滅してはいない。
 現代天皇制―象徴、この高貴な存在
歴史的につくられてきた部落にたいする差別意識は、これを呼び起こしてきた部落の劣悪な生活実態が改善されたことによって目立って減少しているが、まったくなくなったのでなく、根深く現れている。これはいったん形成された意識は、これをつくりだし、支えてきた条件がなくなっても、一定期間は持続するという社会意識の性格からくるものである。しかしさらに重大な要因として、この国には、この意識を再生産する社会構造としての天皇制がいまなお存在することをあげねばならない。

昭和天皇の死後、明仁が天皇の位についた。明仁天皇は代替わりの「朝見の儀」において「皆さんとともに日本国憲法を守」ると述べるなど、昭和天皇との違いをはっきりさせた。明仁の個性として、(1)みずからを「象徴」としてアピールしていること、(2)広島、長崎、沖縄などの戦争経験を忘れないこと、(3)公害に反対し、環境に気を使うこと、(4)マイホーム主義者であること、の4点を、渡辺保はあげるが(『戦後政治史上の天皇制』、青木書店、1990年)、わたしは、(5)天皇家の血筋に百済系渡来人が混じっていることを自ら表明したことを付け加えたい。このほとんどが昭和天皇には見られなかったところで歓迎したい。

だが、明仁は、たんにミッチーブームに乗って登場した「マイホーム主義者」ではない。日本国憲法の第1章第1条によって「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」なのである。この点について、明仁天皇はみずから「日本の天皇は文化といったものを非常に大事にして、権力がある独裁者というような人は天皇の中では非常に少ないわけですね。そういった特色が長い間あるわけです。この象徴というものは決して戦後にできたものではなくて、非常に古い時代から象徴的存在だったといっていい」(薗部英一編『新天皇の自画像・記者会見の記録』文春文庫、1989年、渡辺前掲書より所引)と語っている。ここでは「権威」という言葉こそ、使われていないが「古い時代からの象徴的存在」という言い方に、このことが現れている。「古い時代からの象徴的存在」つまり「権威」をにない、「高貴」であることを自認している。
 NHKと中曽根、森両首相
いま、偶然、NHKのニュースで明仁の従弟にあたる三笠宮寛仁の入院を報ずるのが聞こえてきた。敬称として「さま」がつけられているのが耳障りなのだ。普通一般と等しく「さん」でいいのではないか。そういえば、明仁の孫、まだ赤ん坊の愛子にも「さま」が付けられているのを聞き過ごしていた。おそらく、皇族には「さま」をつけるのが、NHKの方針なのだろうが、ここにも明仁天皇がみずから認める「高貴」さを巨大マスコミが下から支え、世間もこれを受け入れていることを、物語っている。

それだけではない。戦後政治の大転換をはかった中曽根首相は、天皇を大空に輝く太陽にたとえ、平和で文化的な天皇をかつぎだすことで、軍事大国に進もうとする日本をカモフラージュしようとした。また不戦日本を戦争のできる国に変えた小泉首相のパトロンを自任する森喜朗は、首相だった2000年5月、「日本国はまさに天皇を中心にしている神の国であるということを国民の皆さまにしっかり承知していただきたい」と発言して大きな波紋を引き起こした。政権党である自民党をバックとする二人の首相が、天皇を「太陽」にたたえ、「神の国」の中心だと、高く持ち上げている。そこには、天皇制を軍国化の飾りにしようとする底意がうかがえるが、ここでは天皇を特別に高貴な存在として位置づけていることに注目したい。
 象徴天皇制が差別を生み出す
つまり、明仁天皇みずからが、文化的伝統を担う権威として高貴な存在であることを自認するだけでなく、政権担当者みずからが天皇を天より高く、神のなかの神だと持ち上げ、特別視している。NHKがこれに追随するのは当然のことかも知れない。ここで思い出されるのは「貴族あれば賤族あり」の名言である。敗戦によって天皇制は大きく様変わりして象徴天皇制にかわった。しかし、天皇を特別の存在として、高貴なものとして自認し、崇める見方はいぜんとしてつづいている。このように高貴な存在を認めることは、おのずから他方における卑賤なものの存在を認めることことになる。つまり、象徴天皇制そのものが、いぜんとして差別構造であり、古い歴史に由来する部落差別をくりかえす大本となっている。インターネットに差別文書が登場するのもこのためである。部落差別だけではない。都知事石原慎太郎がくりかえす「第三国人」発言や北朝鮮にたいする挑発的発言を支えているのも、この差別構造である。傲岸不遜にみえ、そのことが喝采を招くことになっているが、いわば、この構造のピエロ、道化師に過ぎないのだ。
 「天皇制・皇族の一切の貴族的特権の廃止」をもとめて
この7月17日、祝日「みどりの日」を「昭和の日」に改める法案が衆議院を通過した。いったん廃案になったこの法案が復活の動きを見せてきた。「みどりの日」の4月29日は昭和天皇の誕生日で戦前は「天長節」として盛大な祝賀会が催されていた。有事三法案、イラク派遣法案が成立し、軍事大国に大きくカーブを切ったこの時期に、昭和天皇の遺徳を偲ぶとされる「昭和の日」法案が衆議院を通過したことは、いつでも戦争することのできる国となった軍事大国の頭に天皇制をかぶせようとするもので見逃すことはできない。すでに中曽根首相の時代から天皇制によって軍事大国を荘厳しようとする方向がとられてきたが、ここに来てその一歩が踏み出された感はつよい。このような天皇制の政治利用に反対することは喫緊の課題となっている。

だが、部落差別と闘う運動にとっては、部落差別をはじめ社会的差別をうみだす構造としての天皇制を廃止することはさらに根本的な課題である。1997年の「身分意識の強化につながる天皇制…に反対する」という解放同盟の綱領は、この方向をはっきりと示すものとして、きわめて重要である。この運動は、明仁天皇をもこちらの側に立つことがもとめられる長く、容易ではない、道義性の高い道のりではあるが、「人の世に熱あれ、人間に光あれ」を実現するのに避けることのできない一項なのである。
(もろおか すけゆき/在沖縄)


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