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Memento 12号(2003年4月25日発刊)
読み物




部落解放に反天皇制は無用
灘 本 昌 久

はじめに
部落解放同盟は、1997年5月に開かれた第54回全国大会で、綱領を全面改訂した。この改訂の最も特徴的なことは、階級闘争主義、階級史観の放棄である。その理由については、部落解放同盟中央理論委員会委員長(当時)駒井昭雄氏による解説(注1)を参照していただきたいが、おおざっぱにいえば、こんな感じである。従来は連帯してくれる団体が労働組合くらいしかなかったが、現在は、企業・宗教団体・自民党を含む多くの政党に協力してもらっているので、そうした現状に、旧来の階級闘争主義的綱領があわない。素朴で現実的な理由だ。

この変化を巨視的・世界史的にいえば、階級社会の打倒により社会主義社会=平等社会を実現するという壮大な社会改革の実験が、1989年に始まる一連の東欧革命・社会主義崩壊により終焉した(数々の部分的成果をあげたが、総体としては破綻)ということであり、その日本的あらわれのひとつが、部落解放同盟の綱領改正であるということができる。

この改正全体については、特に異論があるわけではない。改正されたと聞けば、「あぁ、そうですか。時代の流れですかねぇ」という程度のものである。しかし、ひとつだけ大きなひっかかりを覚えることがある。それは、階級闘争主義を放棄したにもかかわらず、反天皇制条項が残ってしまっているということである。

前の84年綱領では、「前文」に次のようにある(注2)。
明治維新の改革は「解放令」(太政官布告)により賤民制度を廃止すると宣言したが、天皇制を頂点とするあらたなる身分制度に再編して温存され、部落民は悲惨な生活と最低の社会的地位から解放されなかった。これは維新後の資本主義発展の過程において、富国強兵・殖産興業をめざした支配階級が働くものを搾取し、支配するために封建的遺制を温存し利用したからである。さらに「日清」「日露」の戦争を通じて強化された天皇制権力は、帝国主義的侵略と民族排外主義を押しすすめ、部落差別を助長・拡大したのである。
そして、この「前文」のあとに続く「要求項目」のうち、大項目の4番目である「4.平和と人権、民主主義の達成のために」の第5項目に「天皇、皇族などの一切の貴族的特権の完全な廃止。」があげられている。これは全59項目中かなり後ろに配されており、49番目の項目である。

ところが、97年綱領では、「前文」は次のように非常に簡明になり、しかも、天皇に関する記述はまったくなくなっている。
わが同盟の目的は、部落差別からの完全解放の実現にある。
ふるさとを隠すことなく、自分の人生を自分で切り拓き、自己実現していける社会、人びとが互いの人権を認め合い、共生して行く社会、われわれは部落解放の展望をこうした自主・共生の真に人権が確立された民主社会の中に見いだす。

わが同盟の組織は「人間を尊敬する事によって自ら解放せんとする」部落大衆の結集体であり、差別と闘うすべての人びととの連帯をめざす大衆団体である。

わが同盟は、1922年「エタである事を誇り得る時が来たのだ」との血の叫びのもとに創立された全国水平社の歴史と伝統を継承し、部落差別を糾弾し、人権施策の確立を求め、すべての差別と闘う。また、部落差別を支えるイエ意識や貴賤・ケガレ意識と闘い、差別観念を生み支える諸条件をうちくだき、世界平和と地球環境を守り、人権文化を創造する。

われわれは、自力自闘の精神を鼓舞し、「世界の水平運動」と「自主・共生・創造」の旗を高く掲げ邁進する。
しかし、前文で削られたにもかかわらず、84年綱領における「要求項目」全59条に替わって制定された「基本目標」13項目のうち、第3項目という高位の条文に「われわれは、部落差別を支える非民主的な諸制度や不合理な迷信・慣習、またイエ意識や貴賤・ケガレ意識など差別文化を克服し、身分意識の強化につながる天皇制、戸籍制度に反対する。」とある。やや修飾語が増えたとはいえ、明確に「天皇制に反対」という立場であり、しかも97年綱領における順位は、84年綱領よりも繰り上がっている。

その結果というべきか、現在でも、部落解放同盟は毎年、昭和天皇の誕生日(4月29日)などおりにふれて「反天皇制」の集会やキャンペーンを繰り広げているし、全国各地での学校における日の丸・君が代反対運動の急先鋒となっている。現に、この原稿を書いている京都府部落解放センター(私が所長を務める京都部落問題研究資料センターは3階にあり、建物の1階には部落解放同盟京都府連合会が事務所をかまえている)の外壁には、「狭山差別裁判糾弾!無実の石川一雄さんをとりもどそう」「あらゆる差別を撤廃するため『部落解放基本法』を制定させよう」というスローガンにならんで、「差別の元凶・天皇制と対決し、元号、『日の丸』『君が代』強要に反対しよう」という10メートルはあろうかという巨大な垂れ幕がかかっている。

もちろん、部落問題解決にとって、部落解放運動の展開にとって、天皇制反対が必要不可欠であれば私も、強いてそれに反対するものではないし、むしろ率先して闘うにやぶさかではない。しかし、本当に部落差別の元凶が天皇・天皇制であり、部落解放運動がそれへの反対・対決を中心的スローガンとしてかかげつづけていなくてはならないものだろうか。本稿では、その点を考えてみる。
反天皇制であったころ
ところで、私自身、高校生から大学生時代にかけて、バリバリの天皇制反対論者であったことを告白しておかなくてはならない。単に論者であっただけでなく、行動にも移していた。何を隠そう、1975年7月17日、沖縄を訪問した皇太子夫妻に火炎瓶が飛んだとき、大学浪人中の私は、その実行犯のセクトほか複数の過激派が主催して沖縄で開催されていた皇太子沖縄訪問反対の集会に参加して、テロの「戦果」に拍手喝采していたのである。今にして思えばとんでもない話であるが、当時は、「アジアへの侵略戦争を引き起こし、沖縄に多大の犠牲を強いた天皇の息子が、何をノコノコ沖縄にやってくるか」という感じであった。その後も、反天皇は自明のこととしてあった。1981年10月15日、部落解放同盟京都府連合会吉田明委員長(当時)が、京都府商工会連合会長として、天皇の招待による茶会に出席するという、いわゆる「天皇茶会事件」が起きた。この時私は、「口では反天皇を叫びながら、天皇の招待で茶会に出席するとは何ごとだ!」と解放同盟に苦情をいったくらいなので、このころでも、相当な反天皇論者であったわけだ(注3)。のちに述べるように、反天皇の象徴的存在として語られることの多い松本治一郎でさえ、戦後、天皇の歌会始めに出席する予定だったのだから、吉田氏が解放同盟以外の組織の代表としてお茶会に出席することぐらい、べつに何の不都合もないのだが、そのころの私には許しがたいことであったのである。

今にして思えば、私の反天皇というのは、それほど考え抜かれた思想ではなく、ようするに、現在の社会が弱肉強食の不平等・不公正な社会であり、それは資本家階級が日本を支配して労働者に犠牲を強いているからであり、また、その頭目が天皇なので存在そのものがけしからん、とまぁ、そんな程度である。当然、戦前の日本の戦争は侵略戦争であり、それらは天皇が旗を振って扇動したものであると思い込んでいた。

しかし、日本近代史の勉強をすすめるうちに、そうしたことの自明性にいささか陰りを生じ、ついにはそのとんでもない誤りに気づくことになる。
天皇の戦争責任
私が、高校から大学にかけて日本の近代史を勉強するにあたり、基本においていた文献は、たとえば井上清著『日本の歴史』全3巻(岩波書店刊、1963-66年)や、遠山茂樹ほか著『昭和史』(岩波書店刊、1959年)であった(注4)。これらは、いうまでもなく戦後歴史学主流である左翼史観、唯物史観、講座派史観、マルクス主義史観(マルクスの歴史叙述自体はそれほど硬直的・教条的ではないので、スターリン主義史観というべきか)の産物である。したがって、戦前の日本の政治は絶対主義である天皇制によって牛耳られた専制政治であり、すべては天皇の意思によって決定され、国民に強制されたものとして描かれる。

1935年(昭和10)、天皇機関説事件が起こった。これは、美濃部達吉の唱える大日本帝国憲法の自由主義的・立憲君主主義的解釈(天皇機関説)にたいして、皇道派など軍のファシスト・在郷軍人会や右翼団体が、天皇を国の「機関」だとするのは不敬である、統治権の主体は天皇にありとして「国体明徴」を呼号し、美濃部達吉を貴族院議員辞職にまで追い込んだ事件である。私は、当然、帝国主義の権化・侵略の最高責任者である昭和天皇は、美濃部排撃の側に賛成したものと考えていた。ところが驚いたことに、実際は、昭和天皇の意見は次のように美濃部達吉および彼の唱える天皇機関説を支持していたのだ(注5)。
君主主権説は、自分からいえば寧ろそれよりも国家主権の方がよいと思うが、一体日本のような君国同一の国ならばどうでもよいじゃあないか。君主主権はややもすれば専制に陥り易い。で、今に、もし万一、大学者でも出て、君主主権で同時に君主機関の両立する説が立てられたならば、君主主権のために専制になり易いのを牽制できるから、頗る妙じゃないか。美濃部のことをかれこれ言うけれども、美濃部は決して不忠な者ではないと自分は思う。今日、美濃部ほどの人が一体何人日本におるか。ああいう学者を葬ることは頗る惜しいもんだ。

美濃部のは、多少行き過ぎたところがあるかもしれないけれども、決して悪いとは思わん。…陸軍が機関説を悪く言うのは、頗る矛盾じゃあないか。軍人に対する勅諭の中にも、朕は汝等の頭首なるぞ、という言葉があるが、頭首と言い、また憲法の第四条に、天皇は国の元首にして…という言葉があるのは、とりもなおさず機関であるということであるのだ。
また、「天皇=現人神」をいいたてる論調にたいして、「自分の位はもちろん別なりとするも、肉体的には武官長等と何等変る所なき筈なり、従て機関説を排撃せんが為自分をして動きの取れないものとする事は精神的にも身体的にも迷惑の次第なり」、つまり政治的地位は高いけれども、神様なんかではなく、同じ人間の体だよ、という意見をもっていた。また、皇道派の頭目である真崎甚三郎教育総監をはじめ暴走する軍部に対して「軍部にては機関説を排撃しつつ、しかもかくのごとき、自分の意志にもとる事を勝手に為すは即ち、朕を機関説扱いと為すものにあらざるなきや」と不快感をあらわにしている。当時の資料をすなおに読めば、天皇機関説排撃運動に昭和天皇が強くブレーキをかけていることは確かである。ところが、井上清氏の『天皇の戦争責任』(注6)にかかると、同じ資料を読んでも以下のような評価になる。
軍部のこの「信念」と政府の国体明徴の声明は、この後の日本のファッショ化と軍国主義化の思想原理となるが、天皇裕仁は、その両方ともに同意した。誰の助言も受けず、ましてやいかなる強制もなく、もっばら彼自身の思想と憲法論にもとづいて。そして彼自身がみとめていた無制限絶対の日本国統治権者たるの地位・性格の故に、天皇裕仁は、欲すると否とにかかわらず、日本のファッショ化、軍国主義化の最高の指導者の役割をになった。
しかし、井上氏の非難にもかかわらず、皇道派など天皇を担ぎ上げて政治・社会を暴力支配しようとする天皇制ファシストにたいする昭和天皇の怒りは、この天皇機関説事件の翌年、1936年に起こった二・二六事件で爆発する。反乱軍鎮圧を渋る軍上層の態度に業を煮やした天皇が、「暴徒にして軍統帥部の命令に聴従せずば、朕自ら出動すべし」「朕自ら近衛師団を率いて現地に臨まん」と語ったことは、有名な話だ(注7)。そして、極めつけは、2月28日に川島義之陸軍大臣と山下奉文陸軍少将が天皇を訪ねたときのことである。川島たちが、反乱将校は自刃してわび、兵隊は原隊に復帰させるので、ついては「勅使を賜り死出の栄光を与えられたし」という解決策をもってきたところ、とりついだ侍従武官長=本庄繁に天皇は次のような反応をみせた(注8)。
陛下には、非常なるご不満にて、自殺するならば勝手になすべく、かくのごとき者に勅使など、もっての他なりとおおせられ、また、師団長が積極的に〔武力鎮圧に―灘本注〕出づるあたわずとするは、自らの責任を解せざるものなりと、いまだかつて拝せざる御気色にて、厳責あらせられ、ただちに鎮定すべく厳達せよと厳命をこうむる。
勝手に自殺してしまえ、とは強烈なセリフである。天皇をとりまく重臣や軍部上層が右往左往しているときに、天皇制ファシストの反乱をたたきつぶしたのだから、大いにその手柄を賞賛されていいはずである。ところが、これが遠山茂樹氏らの『昭和史』にかかると、「こうして二・二六事件は、千四百余の兵力を動員しながら、あっけなく終わりを告げた。このことは、日本におけるファシズム支配をうちたてる上での天皇制の機構とイデオロギーがはたす強大な役割を示すものであった」(注9)となる。ところが、昭和天皇は単に反乱を鎮圧させただけでなく、引き続きこのような軍の暴走を徹底的に批判した。陸軍大臣に与えるため3月8日に作成した天皇の戒めの言葉は、以下のようなものである(注10)。
近来、陸軍において、しばしば不祥なる事件を繰り返し、ついに今回のごとき大事をひき起こすに到りたるは、実に勅諭に違背し、わが国の歴史を汚すものにして、憂慮にたえぬところである。ついては、深くこれが原因を探究し、この際部内の禍根を一掃し、将士相一致して、各々その本務に専心し、再びかかる失態なきを期せよ。
かなり厳しい言い方だが、これでも、余りきつい言葉になると、また側近が軍に逆恨みされて危険であるとする昭和天皇の配慮で、薄められているのである。この案にたいして、陸軍が不満をしめすと、天皇は「国体を汚すうんぬんの字句を避けたしとのことなるが、国体明徴を高調する陸軍において、国体を如何に解しありや」との「御下問」、この場合、詰問ともいうべき批判を侍従武官長に投げつけている。また、この文を陸軍大臣に与えるに先立ち、天皇は侍従武官長に「陸軍大臣に与うる言葉は、憲法を無視するがごとき将校に、普通の方法にて与え、果たして効果ありや」として、厳達をもとめている。そして、10日に陸軍大臣を呼びつけて言い渡したのち、また侍従武官長を呼んで、「陸軍大臣に与えたる、彼の言葉を大臣は如何なる手段により全軍に達するや」と質問している。天皇の心配は的中した。天皇の戒めを受けた軍の上層は、下からの反発を恐れて、10日もしないうちに会議を開き、うやむやにすることを申し合わせたのである。

二・二六事件のころ、昭和天皇の弟である秩父宮は、皇道派の頭に血がのぼった連中との付きあいがあり、かなりシンパシーを感じていた。そして、昭和天皇のところにやってきては、必要とあれば「憲法の停止もまたやむをえず」などと天皇親政の必要を説いたのだが、昭和天皇は頑として受け入れなかった(注11)。もし、二・二六事件の時期に、昭和天皇ではなく秩父宮が皇位についていたら、クーデターは成功していた可能性がなきにしもあらずで、その場合、皇道派にかつがれた天皇の親政=純然たる天皇制ファシズム権力が登場していたに違いない。

1932年の五・一五事件のあと、殺された犬養毅首相の後継を考えて「ファッショに近きものは絶対に不可なり」と天皇が西園寺公望に希望を述べていることも考えあわせると(注12)、下からの天皇制ファシズムの暴虐にたいし、昭和天皇は、孤軍奮闘したといってもいいくらいである。井上氏や遠山氏のような牽強付会の論法で責任を押しつけられたら、どんな善良な人でも極悪非道の悪人に仕立て上げられようというものだ。まるで火事場にかけつけて消火にあたって、消しそこなった人を、放火犯と同罪だといっているようなものである。まして、二・二六事件の時のように、消火に成功したのなら、なおさら放火犯と同罪といわれることはないはずである。両氏の説は、率直に感想をいって歴史の偽造である。

なお、ひとつエピソードをつけくわえておくと、天皇機関説事件で東京大学を追われた美濃部達吉は、戦後、帝国憲法改正の要不要を問われて、次のように、改正の必要なしと答えている(『朝日新聞』1945年10月20-22日)。
私は、いわゆる『憲法の民主主義化』を実現するためには、形式的な憲法の条文の改正は、必ずしも絶対の必要ではなく、現在の憲法〔大日本帝国憲法―灘本〕の条文の下においても、議院法、貴族院令、衆議院議員選挙法、官制、地方自治制、その他の法令の改正及びその運用により、これを実現することが十分可能であることを信ずるもので、たとえ結局においてその改正が望ましいとしても、それは他日平静な情勢の回復を待って慎重に考慮せらるるべき所で、今日の逼迫せる非常事態の下において、急速にこれを実行せんとすることは、いたずらに混乱を生ずるのみで、適切な結果を得る所以ではなく、したがって少なくとも現在の問題としては、憲法の改正はこれを避けることを切望して止まないものである。

右へ左へ大きくぶれる大部分の政治家・学者・国民を尻目に、節を守った大学者のみが言える名言といえよう。本当の民主主義は、運用でこそその真価が問われるということだ(むろん、制度の適正な改廃の必要性を否定するわけではないが)。
河原者と天皇
「悪いのはみな天皇のせい」という短絡した論法を捨てて、ここからは、いよいよ本論である部落問題と天皇の関係を考えていく。

冒頭のべたような綱領を読んでいると、天皇という頂点の対極にある部落民は、その昔から天皇に反対してきたと錯覚している人がいることも不思議ではないが、事実はそうではない。

ここからの話の前提として、読者には旧来の部落史を一旦白紙に戻してもらう必要がある。旧来の部落史とは、被差別部落の起源を、近世成立時の階級支配にもとめる、いわゆる「近世政治起源説」である。このことについては、すでに簡略に説明してあるので、別稿(注13)を参照してもらいたい。その上で、天皇と部落(清目・河原者→皮多→穢多と呼び名は変化していく)の関係を主として京都を中心に考えてみる(注14)。

中世において、京都では宿・声聞師・河原者(穢多)の三系列が主要な賤民集団である。そのうち、宿の中心的集団は比叡山延暦寺傘下の祇園社に属しており、犬神人と呼ばれていた。声聞師系と河原者系は、公家や武家に出入りしており、キヨメおよびそこから派生する庭造りなどに関わっている。声聞師は、古くは散所法師などとも呼ばれており、すでに1405年(応永12)に山科教言邸に出入りしたことが記録にあり、壁塗りや庭造り、清掃など屋敷のメンテナンスを手広く請け負っている。また、千秋万歳などの芸能も提供している。

河原者も同じく山科家などの公家や北野神社・相国寺など有力な寺社に出入りして、キヨメに関する職掌を担っていた。室町幕府の将軍足利義教は河原者を庭の造営に使い、善阿弥と称する山水河原者を特にかわいがって病気の時には薬をあたえるなど、非常に重用している。また、公家や寺社に出入りした時の、主人と河原者の問答などが記録されていて、興味を引く。山科家に出入りしていた川崎村(河原町今出川)の河原者は、連歌の発句を作ったといわれ、身分を越えて普及していたという連歌が、最下層の河原者にまで及んでいたことがわかる。最近の教科書には、この河原者が銀閣寺や竜安寺の庭造りにかかわったことが書かれてあり、東山文化の担い手として脚光をあびているが、竜安寺の石庭を河原者が作ったという確かな証拠はなく、むしろ忘れてはならないのは、河原者は御所(禁裏)のキヨメを担当し、また庭を造ったり庭木を手入れしていることである。こちらのほうは、史料的に確かでしかも、事例が多い。彼らは、「禁裏御庭者」「小法師」とよばれ、御所に出入りしていることにプライドを持っている。1588年(天正16)には御所で例年の小法師による掃きぞめが行なわれたとの史料があり、確固たる地位をしめていたものと思われる。恒例の禁裏における掃きぞめはこの後も続いているほか、たとえば、1734年(享保19)には蓮台野村(現在の京都市千本地区)小法師与次兵衛が夜の禁裏御用に菊の御紋付提灯の使用を許可されている(清目による小法師のはやい例は1303年3月)。

幕府が倒れて明治になって間もなく、蓮台野村年寄元右衛門が穢多身分廃止の嘆願書を京都府に提出したことは有名であるが、そこに御所での小法師役への待遇が列挙されており、これがなかなかの厚遇である。普段は、御所の中の詰め所に2人か3人、多忙の時は8人が出勤。元旦になると村年寄が麻の裃をつけ、藁箒を献上する。これは、宮中の儀式に使う飾り付けである。こうした勤めにたいしては、御奏者所、長橋御局、御台所などしかるべき場所に招き入れてもらって、銭・白木綿・銀などの報酬をもらい、雑煮・草餅・小豆粥の接待がある。また、天皇への献上米などがあると、それも一々配分にあずかる。五節句(桃の節句や端午の節句など)には酒や肴がふるまわれ、箱入りの牡丹餅・花栗も下賜される。そして、年末の「煤払い」では、内殿の前で儀式があり、そこで穢多の面々もちゃんとした器で味噌かけ豆腐などを頂戴する(注15)。部落の小作が地主の家で迫害され、かけた茶碗でお茶を飲まされていたのとはえらい違いで、御所で受けていた以上の丁重な扱いは日本国内の他のいかなる場所でも受けなかったはずである。当然、小法師たちの天皇を慕う気持ちには強いものがあり、たとえば1868年(慶応4)9月に予定されていた明治天皇の江戸への東幸にお供をしたいとの嘆願書が出されている。この願いは聞き届けられなかったが、1869年(明治2)の年末には、通例正月2日に献上していた藁箒を東京に送る必要があるので、12月12日までに納品せよとの指示があり、蓮台野村では期日を守って献上している。

なお、益井元右衛門のあとを継いでいた益井信は、朝廷に長く仕えたものがすべて士族に列せられているのに、小法師のみが平民になったのはおかしいという申し立てをしたところ、1900年(明治33)7月に内務大臣より許可がおりて、士族に編入された。これを祝う宴には、京都府知事や下鴨警察署長、愛宕郡長など、そうそうたるメンバーがかけつけている。
解放令と部落
このように、天皇にたいする穢多身分の思いは、決して差別・迫害といった言葉で表されるような苦痛に満ちたものではなく、親しみをもって仰ぎ見るような関係である。そして、1871年(明治4)8月28日に発せられた解放令=太政官布告「穢多非人等の称廃せられ候条、自今身分・職業とも平民同様たるべきこと」という即時完全廃止の布告は、穢多と蔑まれてきた当時の部落民にとっては、一日千秋の思いで待ち焦がれてきた宣言であった。以後現在に至るまで、天皇や日本の政府は、基本的には部落差別を解消しようとしてきており、その努力の度合いに積極的・消極的の差はあっても、部落差別を拡大・強化・再生産しようとしたことはかつてない(注16)。

実際、明治政府、京都府は旧体制、旧慣の一掃にやっきとなっていた。それは、解放令の翌月に京都府が出した通達でも明らかである。府は、「万民御愛憐の御趣意」を心得ない者があってはもっての他なので、村役人が解放令をよく理解し、村々に高札を掲げて徹底せよ、と通達している。

また、一般庶民の間にあるケガレ意識(解放同盟の綱領には1997年にはじめて現れた)をなくすために、あれこれと通達している。たとえば1872年(明治5)2月25日、太政官は「自今、産穢ははばかるにおよばず」と布告しているし、6月13日には葬式に参列した者が神社参りを避けるのは1日のみにせよと布告している。こうしたケガレ意識は、一般庶民の中に習俗として残っているのであり、政府があおるどころか、むしろ、近代化の邪魔になるとして、払拭に努力しているのである(注17)。
水平社と天皇
次に1922年(大正11)に創立された全国水平社の運動と天皇の関係を考えていこう。

従来、全国水平社の運動の歴史は、その代表的な通史である井上清著『部落の歴史と解放理論』、馬原鉄男著『水平運動の歴史』などに見られるように、基本的には左翼的見地から、いかに当時の労働者・農民の「無産階級運動」と連帯し、反権力闘争・反体制運動として活躍したかという問題意識で書かれているので、読者は水平社運動が天皇・天皇制とは果敢に対決したのではないかと思いがちであるが、この点はまったくの虚像である(注18)。無産階級運動の有力な一員であったことは間違いないのだが、一方で、水平社運動の親天皇ぶりは、相当なものである。このことは、藤野豊氏が『水平運動の社会思想史的研究』で詳細に述べている(注19)。

たとえば、水平社設立の呼びかけ文である「水平社設立趣旨」(注20)の文中、解放令は次のように位置づけられている。
遠く明治四年八月法律の発布とともに、明治大帝が御仁慈の下に、四民平等の名によってその不合理なる階級的差別は撤廃されたのである。しかれども、古来凝結したこの歴史的の伝統は、一片の法令を以ってよくその根底を破壊しえるものではない。徳川幕府が強いた厳格な階級的社会政策の効果は、今もなお強くいわゆる特殊部落民賤視の社会的感情として残り、恐ろしい拘束力を発揮し、直接間接、我らが社会的経済的位置の獲得を阻害し妨害しつつあるのである。
解放令によって、差別解消の基礎が作られ、それが天皇のおかげであるという認識が明解に述べられている。

そして、水平社運動に参加した人による明治天皇への感謝の行動は枚挙にいとまがない。たとえば、1922年10月5日に開かれた奈良県石上水平社結成大会では、「水平社団結」「水平運動の反対者は国賊なり」「水平社の声は社会の声なり」「旧思想を倒せ」の旗が立てられ、閉会の時には「天皇皇后両陛下万歳」「特種部落民万歳」「水平社万歳」が三唱されたという。また、京都の東七条水平社は、解放令発布より50年以上が経過したとして、その記念と明治天皇追悼の会を企画し、水平社創立の翌年、1923年8月23日に100名の参加で提灯行列をし、七条大橋より桃山御陵(明治天皇陵)を遥拝した。こうした動きは、大阪、山口、愛媛、愛知、など全国に及んでいる。その規模も、京都では1,500人から2,000人を数えるなど(もっとも、当時の新聞の数は当てにならないが、しかし話し半分としても相当の数である)、かなりの大衆的規模である。

奈良では1924年4月に、のちの昭和天皇が摂政として神武陵・橿原神宮を訪れたとき、水平社のシンボルマークである荊冠旗を押し立てて奉迎したところ、摂政宮が挙手で応えたので、水平社同人たちは感激のあまり「万歳万歳」を唱えた。また、愛知県でも摂政の宮が通過するときに愛知県下の水平社同人が名古屋離宮前で出迎えたところ「殿下は風になびく我が竹槍の荊冠旗の前を御通過の時、畏くも御挙手の御挨拶があった」ので、参加者は深く感激したという。奈良での奉迎の際、奈良県警や奈良県知事は、荊冠旗をたためと命令したが水平社は聞き入れず、侍従武官との交渉の結果、数十本の荊冠旗を1本にとどめた。その荊冠旗に挙手で挨拶があったのだから、水平社同人たちは得意満面だったろう。九州水平社『水平月報』第6号は、この件に関して「先帝陛下の解放令に思いを馳せ至尊御代々の御聖恩の前にうたた感涙にむせばざるをえない」と感激する一方、「荊冠旗を降ろせ―との命はすなわち我らが旗印を冒涜せるものであって又ただちに上、摂政宮殿下嘉し給うところを汚せしものである。不忠不義のはなはだしき限りではないか」と憤慨やるかたなしの風情である。

部落解放運動史上もっとも影響力のあった松本治一郎にしても同じである。松本は、1925年に開かれた全国水平社の第4回大会での演説中、次のように述べている(注21)。
わが国は皇室中心主義で行かねばならぬと誰でもいうが、そこには矛盾がある。それは徳川家の如きものが存在するから矛盾が生ずるのである。畏くも明治大帝が明治十五年一月十四日に陸海軍々人に勅諭をたまわったが、その勅諭を拝読すれば徳川将軍はいかに僭越なことをやっておったかという事がわかる。徳川家達は貴族院議長として時めいておるが、彼の祖先は強盗の大頭目であったのだ。強盗の大頭目であるものの子孫に位記返上を勧告するのは当然である。
軍人勅諭のことというのは、「ふたたび中世以降のごとき失体なきを望むなり」、つまり武家政治となり天皇の実権がなくなったことをいっている。松本は、部落の味方である天皇との対比で、徳川家をこきおろし、実際、爵位返上要求を水平社上げてとりくむのである。

全国水平社運動の唯一の戦術といわれた「糾弾闘争」についても、天皇をバックに差別撤廃をせまるという論法を使った形跡が濃厚である。たとえば、水平社は、差別的言動にたいして、謝罪状や新聞への謝罪広告掲載を要求することが多かったが、京都で起こった差別事件に関し次のような謝罪広告が掲載された(注22)。
畏れ多くも、明治天皇陛下が明治四年八月二十八日発せられたる御詔勅を無視し、差別的言辞を弄したるは、上陛下に対し奉り申し訳これなきとともに、天下の水平社諸彦に謹んで謝罪仕り候。

たまたま水平社同人御方々様のご親切なるご高説に感じ(水平社運動趣意)いささか謝意を表したく、かくのごとくに御座候なり。

全国市民の御方々様も、もし私のような誤った因習的差別観念のある人々は、一日も早く撤廃せられんことを幾重にもお願い申します。

『人間は元来いたわるべきものじゃなく、尊敬すべきことを自ら覚ってください』
明治天皇の聖旨を無視して申し訳ないという謝罪である。こういう謝り方は、この謝罪文だけでなく、たとえば、1925年1月に大阪・蛇草水平社に出された謝罪状も、これとまったく同文である。運動側から原案の提示があったかどうかは不明であるが、こうした謝罪内容を運動が求めていたことは間違いない(注23)。

当時、水平社運動に関係していた共産主義者にも、反天皇の主張はない。例えば、第一次共産党から活動していた水平社の活動家である高橋貞樹は、1924年5月に『特殊部落一千年史』を著しているが、解放令について次のように述べている(注24)。
しかして社会的革命の大宣言たるかの明治元年三月の御五ヶ条の御誓文のうちには、「旧来の陋習を破り天地の公道に基づくべし」という大文字があった。かくて部落民に対する穢多・非人等不当の賤称を廃止するの必要は大いに一般に認められるに至り、…そしてついに明治四年八月二十八日、有名なる太政官布告第六十一号の解放令となった。…かくて穢多・非人はその封建的義務と桎梏とを撤廃せられ、平民の同列たること、国民の一部たることを政治的に保証せられたのである。
このように、高橋は「明治維新の大革命」を高く評価している。この時期、まだ日本の共産主義者は天皇制を問題にしていないので、当然といえば当然である(注25)。

創立期からの水平社の活動家で共産主義者といえば、西光万吉がいる。彼は、もともと関東大震災のとき、全国水平社委員長南梅吉らとはかり、「混乱に乗じて天皇を京都に迎え、全国の部落民が立ち上って革命を起すという計画」(阪本清一郎)―いわゆる「錦旗革命」を実行に移そうとして、焼け野原の東京に行ったほどの天皇大好き人間で(注26)、1927年に日本共産党に入党した後も、反天皇にはなっていない。西光は、後年「私には純然たるマルキストになりきれぬものがあった。私はついに党の上級機関へ、日本の国体問題について再検討を要求した」と証言している。水平社運動の経験からすれば反天皇が受け入れられないのは当然のことだ。部落民の心情とはかけはなれている。

水平社運動の中で、忘れてはならないのは北原泰作の「天皇直訴事件」であろう(注27)。全国水平社は、軍隊内で頻発する部落差別に果敢に闘いを挑んだ。1926年に取り組まれた、福岡連隊差別糾弾闘争などはその代表的なものである。同年1月から始まったこの闘争は、労農党などの左翼勢力を巻き込んで、大衆的な反軍闘争にまで高まったのだが、それに恐れをなした軍側の反撃にあい、11月12日に「福岡連隊爆破陰謀事件」をデッチあげられて委員長の松本治一郎ほか十数人が逮捕され、一挙に水平社が守勢にまわった。この公判闘争の最中に、アナキストで「国家権力を心底から憎悪していた」岐阜県の部落出身北原泰作が、徴兵された。彼は、軍隊内で上官の命令にことごとく反抗したうえ、ついに1927年11月19日、軍隊内の部落差別を天皇に直訴した。陸軍特別大演習のあと、名古屋練兵場に整列した4万の兵を閲兵する昭和天皇(まだ即位直後である)の前に、北原は着剣した銃を右手に持ったまま、40メートルをダッシュして、馬前数メートルのところで折敷(軍隊用語で、右脚を折り曲げて尻の下に敷き、左膝を立てる姿勢。このまま捧銃の敬礼もできるし、「休め」にもなる)の姿勢をとり、次のような直訴状を左手にもって高く差し上げ、「直訴!直訴!」と叫んだのである。水平社のアナキストだったので無事だったが、4年前に虎の門事件を起した難波大助のようなアナキストなら、昭和天皇の命は危なかっただろう。
  訴  状
恐れ乍ら訴に及び候
一、軍隊内に於ける我等特殊部落民に対する賤視差別は封建制度下に於ける如く峻烈にして差別争議頻発し其の解決に当る当局の態度は被差別者に対して些少の誠意もなく寧ろ弾圧的である
一、全国各連隊内に於ける該問題に対する当局の態度は一律不変であるが陸軍当局の内訓的指示と視る事が至当である
一、歩兵第二十四連隊内に惹起せし差別争議の為め被差別者側の数名は警官の巧みなる犯罪捏造により牢獄に送られんとしてゐる
右の情状御聖察の上御聖示を賜りたく及訴願候恐々拝々
    昭和二年十一月
          歩兵第六十八連隊第五中隊
          陸軍歩兵二等卒  北原泰作
北原はたちまち捕らえられ、3日後に起訴、翌日新聞報道解禁、26日に陸軍軍法会議第1回公判、翌27日判決の言い渡しがあり、請願令違反により懲役1年の判決を受けた。

報道を解禁された新聞は、直訴状の全文と北原泰作が軍法会議で起立しているなかなか格好の良い写真を掲げ、「何ら不敬の意味なし」として、好意的記事を掲載した(注28)。『万朝報』『大阪時事新報』『婦人公論』など多くのジャーナリズムは、こぞって部落差別の残存を非難している。陸軍省は秘密裏に「軍隊内における融和対策」について次官通牒を発し、また翌年4月29日、内務省は天皇即位式にあたり、鈴木喜三郎名をもって「融和促進に関する訓令」を全国に発した。北原自身は、無政府主義者の自分が天皇の権威を持ち出すことに矛盾を感じたと回想しているが、効果はてきめんだったわけだ。事件を知って、北原の実家に寄せられた63通の投書は、多くが部落外からのものであったが、北原の行為に同情的なものが圧倒的多数であり、非難はわずか4通にとどまったという。迫害されたマイノリティーが天皇に助けを求めるという構図は、よほど日本人の心情にマッチしたのだろう。

このように、反体制的部落解放運動家でも戦前においては、天皇に対する反感はまったくみられず、ただただ、部落民というマイノリティーの後ろ盾になってくれるありがたい存在でありつづけたのである。そして、そのほとんど唯一の例外(注29)が、1933年4月に共産党に入党した北原泰作が同年12月に書いた「身分闘争に関するテーゼ草案」である(注30)。この「身分テーゼ」は、国際共産主義運動の総本山であるコミンテルン(実質はソ連共産党)が決めた日本における革命戦略「日本における情勢と日本共産党の任務にかんするテーゼ」(1932年5月20日発表。いわゆる32テーゼ)に準拠した指導方針の一つであり、非常に機械的に天皇制打倒を個々の大衆運動に押し付けたとして、後年批判の絶えないものである。テーゼは「共産主義者は天皇制こそ被圧迫部落民に対する野蛮な身分的差別と被圧迫部落民を含めた日本の勤労大衆に強盗的搾取を強制する元兇であること、それ故に被圧迫部落民大衆の封建的身分関係からの完全なる解放はブルジョア―地主的天皇制の顛覆なくしては有り得ないことを完全に明瞭に理解せねばならぬ」として、要求綱領の最後に「封建的身分制の元兇天皇制の廃止」が書き込まれている。これまで、共産党の方針はあまり部落解放運動に積極的ではなく、1931年から33年にかけては水平社内の共産党系メンバーが、水平社による身分闘争は階級闘争・革命運動の妨げになるとして、水平社の解消を唱えて策動し、水平社運動に大きな打撃を与えていたので、それから考えると共産党の指導方針に部落解放運動の必要性が明記されようとしたことは、大きな一歩なのだが、天皇制打倒のスローガンは、他の労働運動や農民運動にもまして、水平社運動にはまことに唐突極まりないものであったろう。もっとも、この時期以降、日本共産党は、大衆的基盤を失って自壊し、またメンバーの多くが検挙され、北原の指導をしていた共産党農村部長大泉兼蔵をめぐりスパイ容疑=「リンチ査問事件」が起こるなどして、結局は党組織の正式決定に至らなかったので、「身分テーゼ草案」は実質的な影響力はもっていない。

ところで、この時期、日本共産党は大揺れに揺れていた。1933年6月7日、日本共産党の巨頭である佐野学と鍋山貞親が獄中で転向し、コミンテルンの方針を批判した(佐野学は、1921年雑誌『解放』に「特殊部落民解放論」を載せ、水平社創立の大きなきっかけを作った人である)。彼らのコミンテルン批判は、情勢分析における革命情勢の過大評価やコミンテルンの官僚主義、天皇制打倒の押し付けなどにおよび、極めて的を突いた指摘であった。ところで、立花隆氏は、『日本共産党の研究』の中で、この転向について興味深い指摘をしている(注31)。佐野・鍋山の転向にたいして、左翼社会民主主義者たち(合法左翼で反天皇ではない)が論評しているが、彼らは、転向した共産主義者の行く末に危惧を表明している。たとえば、山川均は、佐野・鍋山の転向書は、日本的社会主義であり、社会民衆党を脱党して「日本国家社会党」を設立した赤松克麿の国家社会主義論に近く、日本主義的共産党はどこへ行ってしまうのかと。また、河野密は、彼らの日本主義的傾向は「共産党ですら」出たわけでなく、「共産党なるが故に」でた。それは、不自然なまでに日本人意識を拒否してきた反動で、付け焼刃が容易に破綻したのだと。

そして、この危惧は、部落解放運動内の共産党からの転向者にも当てはまる。西光万吉は、1928年3月15日に治安維持法で逮捕され、佐野・鍋山の転向直前の2月11日に自ら転向して出獄し、あとは皇国農民同盟というファシズム的農民運動に走っていき、また、本稿冒頭に述べた、天皇機関説事件では、美濃部の機関説を「欧州諸国の憲法学説を鵜呑みにした直訳的公式主義」として厳しく批判している(注32)。また、水平社内の共産党グループだった北原泰作・松田喜一・朝田善之助・野崎清二など多くのメンバーは、1938年ごろより全国水平社内でファシズム的分派活動を行い、1940年には部落厚生皇民運動をはじめるに至る。彼らは、全国水平社内の松本治一郎ら合法社会民主主義勢力を人民戦線の温床であると批判し、全国水平社撲滅運動を繰り広げる。

こうした人たちに共通していることは、極端な原理主義ではあるまいか。天皇を悪魔として罵倒し、すべての解決を妨げる邪悪の権化とする考え方は、天皇を神としてあがめ、すべてを解決してくれる正義の味方とする考え方に、容易に転化するのである。実際、戦後になって天皇制打倒を叫びだすのは、これらの天皇制ファシズムに手を染めた人たちであり、合法左翼・社会民主主義者だった人たちの多くは、戦後の象徴天皇制には賛成なのである。概して戦前の共産主義者には、超越的な権力に弱い人が多いように見受けられる。ひとことでいうと、天皇にすがりたい人が天皇制ファシズムに走り、コミンテルンにすがりたい人が「獄中18年組」に残留したのではなかろうか。

ところで1936年2月20日(二・二六事件の直前)、全国水平社の松本治一郎委員長が衆議院議員に当選し、社会大衆党や労農無産協議会の合同をはかるなど、反ファッショ統一戦線をめざして努力したことはよく知られている。その議会活動の中で「華族制度の廃止」を要求したことをもって、松本が、天皇制と闘ったと評価するむきもある。たとえば、馬原鉄男は『水平運動の歴史』(283頁)の中で次のように述べている。
松本に代表される水平社の人びとは、運動の発展のなかから、部落差別の根源を、経済的には半封建的な地主制に結びついて成長してきた日本資本主義の構造のなかに、そして政治的には天皇制身分秩序のなかに見いだしてきた。そして、その天皇制の軍事的支柱が帝国軍隊であり、社会的支柱が華族制であった。松本が華族制度を部落差別の「対立的存在」としてとらえていったことは、当然なことであった。
「華族制度」の後ろにわざわざ「(この場合天皇制とおきかえてもいい)」と注釈をつけているが、これはまったくの戦後的創作である。当時、華族の子弟や夫人の中に駆け落ちや非行に走る人が結構いて、新聞は格好のネタとして揶揄したり批判の記事をたくさん書いている。たとえば、帝国憲法作成にかかわった伊東巳代治伯爵の孫娘が家出をして、文学青年と同棲中に妊娠した、などというスキャンダルが、天皇機関説事件の真っ最中に、新聞紙上をにぎわしている。このころ、華族の評判は国民的に芳しくなく、現にずっと以前から天皇制ファシストのバイブルであった北一輝の『日本改造法案大綱』(1921年刊)でも、「華族制を廃し、天皇と国民とを阻隔し来れる藩屏を撤去して、明治維新の精神を明にす」とある(注33)。松本の「華族制度廃止」も、今でいうなら「消費税は弱いもの虐めである。金持ちからもっと税金をとれ!」というニュアンスに近い(もっとも、消費税反対ほど政策的に幼稚な主張ではないが)。そもそも、この議会に松本が提出した「華族制度改正に関する質問主意書」は、転向して出獄してきた北原泰作が、松本の秘書として労農無産協議会の鈴木茂三郎と合作したものである。北原は獄中で、共産党の教条的な革命戦略、とりわけ天皇制打倒の方針に完全に絶縁しているので、出獄してから天皇制に反対する理論武装を手伝う理由はまったくない。主意書では、次のようにいっている(注34)。
特権階級たる現在の華族制度の存在が、今日いかに社会を毒し、国民生活を不安に導いているかは識者の等しく認むるところである。…政府当局者は、機会あるごとに「わが国は同一種系の民族の血を成せるものにして、上御一人、下万民の国体なるが故に、一国一家族の邦なり」と説いている。もし当局のいえる所が真実であるならば、一君万民のわが国になんら差別待遇はないはずであり、またあってはならないのである。
まさに、戦前の水平社は、天皇の下の平等を終始一貫求めてやまなかったのである。

ところで、この一君万民をどう考えればよいだろうか。21世紀の今日に人間の平等を語るのに、「一君万民」を呼号する必要はないだろうし、呼号している人もいない。しかし、江戸の封建社会を倒し、近代日本を作る上で「天皇の下の平等」は、十分にプラスに機能したのではなかろうか。「神の下の平等」というキリスト教的平等観を認める人が、「天皇の下の平等」を一切認めないのは道理にあわないことだ。これまで見てきたように、明治以降の部落差別撤廃の歩みの中で、もっとも大きな後ろ盾は、終始一貫「天皇の下の平等」である。そして、それは近代国家日本の設計図の中に天皇を組み込んだ意図通りに機能した結果である。マイノリティである部落民が、マジョリティの一般国民にたいして、平等の扱いを求めることの根拠は、今の我々が考えるほど、自明のことではない。江戸時代なら、同じ百姓仕事をしていて年貢も納めているという「御百姓意識」(渋染め一揆)か、部落の生産物が国の役に立っているという職人的プライドがせいぜいで、これらは古い身分制を吹き飛ばすインパクトは到底もちえないものである。

戦前の経験をふりかえると、天皇制の危険なところは、「天皇の下の平等」を主張することとは別の所にあるように思える。一言でいうと、正義の味方=万能の天皇にすがりさえすれば、不況や外交上の難問を簡単に快刀乱麻で片付けてくれるという考えである。こうした英雄待望幻想は、別に天皇制があろうがなかろうが常に存在し、特に危機に瀕した状況に置かれた民族や国家にはありがちなことである。日本が共和制になったところで、拭い去れる危険性ではない。実際、世界でもっとも民主的といわれたワイマール憲法の中から、ヒトラーが台頭してきたことをもっても、そのことは証明されよう。むしろ、天皇の権威で解決可能なことは限定されたものであり、大部分は、政治家や国民一人一人の努力によるしかないという自覚があれば、過剰な期待をもつことも、また過剰な期待を裏切られて極端な反天皇になることもないのである。
戦後の再出発と天皇
さて、戦前の部落解放運動史に、天皇制反対の痕跡が極めて薄いとすると、反天皇制はいつから部落解放運動の決まり文句になったのであろうか。結論を先にいえば、部落解放運動の綱領に天皇制反対が現れたのは、はるか後年1960年のことである。それまで、1946年の部落解放全国委員会(部落解放同盟の前身)の行動綱領にも、1951年の部落解放全国委員会第7回大会で改正された綱領にも、1955年部落解放同盟の大会で決定された綱領にも、天皇制反対の直接的文言はないのである。46年の「5.華族制度及び貴族院・枢密院その他一切の封建的特権制度の即時撤廃」、51年の「1.一切の身分的特権と差別の完全なる廃止」、55年の「1.一切の半封建的身分関係の廃止と、基本的人権の確立。」などが、それを婉曲に示唆しないではないが、60年綱領の大項目4の6に「天皇制の廃止。一切の貴族的特権の完全な廃止。」とうたわれるにいたって、初めて明示的に天皇制反対が書き込まれたのである。あれだけ、戦後の左翼的言論が横溢した敗戦直後にあっても天皇制反対が綱領に書かれなかったのに、1960年になって、天皇制反対が現れるのはやや奇異の感がする。

戦後の部落解放運動のさまざまな理論闘争については、師岡佑行氏の『戦後部落解放論争史』が詳細に論じているところなので、詳しくはそちらを参照していただきたい(注35)が、簡単にいえば、戦後一貫して続けられてきた部落解放同盟内の共産党系対社会党系(ここには、戦前は共産党系であったが、戦後、部落の独自的利害を強調して共産党と対立した朝田善之助も含む)の路線闘争がからんでいる。朝田善之助らが1951年のオールロマンス闘争や53年の水害復旧闘争で、部落の具体的な生活上の要求を積み上げ行政闘争として組み立てようとしたのに対して、共産党系の人たちは、悪く言えば自分たちの革命戦略への従属をめざしたのである。この対立は、後に1965年の同和対策審議会答申の評価をめぐって激化し、朝田らは要求闘争を是認するのに対して、共産党は同和事業を政府の出してきた「毒まんじゅう」であるとして否定し、両者の対立が激化するのであるが、1960年綱領のときは、北原泰作が中心となり、部落解放同盟の路線に共産党色を盛り込むことに成功したのである。たとえば、綱領中の「アメリカ帝国主義に従属する日本の独占資本は日本の民主化をくいとめる反動的意図のもとに部落に対する差別を利用している。それゆえに現在では独占資本とその政治的代弁者こそ部落を差別し圧迫する元兇である。…部落の完全な解放は、労働者階級を先頭とし中心とする農漁民・勤労市民・青年・婦人・知識人などすべての圧迫された人民大衆の解放闘争の勝利によって日本の真の民主化が達成されたとき、はじめて実現する。それゆえに部落解放運動は平和と独立と民主主義のための広範な国民運動の一環であり、そのための統一戦線の一翼である。」というような文言は、当時の共産党の路線そのままである。これまでは、部落解放同盟内にいる、穏健派に対する配慮から、露骨な反天皇のスローガンは遠慮していたのだが、ここへきて一挙に盛り込まれてしまったのである。
松本治一郎の行動
ところで、戦前は天皇制反対を唱えなかった松本治一郎だが、戦後は、天皇制への賛美、あるいは天皇の神格化を批判する代表的な政治家となった。その典型が、1948年1月21日に国会で起こった「カニの横ばい事件」である。従来から行なわれていた、衆参両院の正副議長による天皇「拝謁」のおり、天皇にお尻を向けないために横に歩くやりかたを拒否したのである。確かに、これは天皇を神と崇める人たちからは反発を買う行動だった。しかし、松本は次のようにいうのである(注36)。
今日の議長は、人民国会の代表であって、天皇の臣下ではない。国会は、昔のヨクサン議会ではない。参議院は、けっして昔の特権階級の貴族院ではない。…迎えも見送りも議事堂の正面玄関でちゃんとしたのだから、当然尽くすべき儀礼は尽くしてある。こういう〔カニの横ばい―灘本〕儀礼は、旧憲法時代のそのままがおこなわれているので、新憲法にはふさわしくないと考える。議会を代表して、衆議院議長があいさつをすればそれで十分と思う。特に拝謁とかいうような古い言葉は新憲法下ではいけない。あいさつとか接見でいいじゃないか。…昔は臣下たる衆参両院の正、副議長が天皇に拝謁を仰せつかったが、今は国会を代表する接待役として、天皇にあいさつするのだよ。僕は天皇へのあいさつを拒否したのではない。だが、カニの横ばいのような儀礼は国会代表の人間性を冒とくするものだ。天皇を神に持ち上げることは、かえって人間天皇を侮辱することだよ。
まことに道理のとおった意見ではないか。今まで横ばいをうまくこなしていた参議院議長の松平恒雄(松平容保の四男、駐米大使、ロンドン軍縮会議首席全権、宮内相、枢密顧問官を務める)は、松本の意見を聞いて「僕も賛成だ。実は横に歩くことは嫌いだった。一度ころんだことがありますよ」といいだしたのである。

また、松本は副議長在任中、宮中の歌会始めの儀に招待された。初めての経験だから参加しようと思っていたのだが、招待状に、「陪聴仰せ付けらる」「出席を許可する」などの旧態依然たる文言があったため、出席しなかった。これも、道理のとおった行動である。松本治一郎は、この時期はすでに天皇制は必要なく、日本も共和制になるべきだと思っていたようであるが、彼の天皇制批判は等身大である。

さらに、松本による天皇制批判の代表的発言として、「貴族あれば賤族あり」という言葉があるが、あれも「天皇制批判」ではなく、華族制度批判である。彼は次のようにいっている。「改正憲法第十四条で〔すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、…差別されない。華族その他の貴族の制度は、これを認めない。―灘本〕、われわれは一切の卑下の気持ちを外側からも取り去られようとしている。だから、私は参議院副議長の就任のあいさつのときにもそれを持ち込んだ。賤族があるから貴族ができたのではなくて、貴族があったから賤族ができた。だから華族の制度をみとめないということで賤族がなくなるわけである。」(注37)

とかく、反天皇論者は、松本治一郎を反天皇の急先鋒に祭り上げたがるが、彼のスタンスは戦前から一貫している。誰も貶めず、誰も祭り上げずということだ。そこが、天皇をむやみに貶めたがる(そして、転向すればむやみに祭り上げたがる)偏狭な反天皇論者と違うところである。

明治から太平洋戦争を経て現在に至る被差別部落の経験からは、反天皇はでてこない。小作料が高いから小作農民が地主と闘う、労働条件が貧しいから労働者が資本家・経営者と闘うというのは筋が通っているが(革命的=反体制的に闘うか、改良主義的=体制内的に闘うかは別として)、部落が反天皇を掲げるのは、経験からは出てこない飛躍である。
戦後部落解放運動に反天皇の伝統なし
1960年の綱領に反天皇制が盛り込まれたといっても、それが部落大衆や部落解放運動の経験から導き出されたものではなく、どちらかというと経験の外部から唐突に持ち込まれただけであるということは、この後の部落解放運動がそれほど天皇制反対の運動を行なっていないことからもわかる。試みに、部落解放同盟中央本部機関紙『解放新聞』の1947年4月創刊号から1992年末に至る1601号(約10,000頁)の紙面において(縮刷版によったのでわずかに欠号あり)、「天皇」「皇室」「君が代」「日の丸」「紀元節」という天皇制に反対する文言が見出しに入っている記事を数え上げてみると、次のような結果になる(数え落としがあるかもしれないので、概算と考えていただきたい)。創刊から1975年までの29年間に、反天皇制をうたうような見出しの記事はわずか18件で、0件の年が多く、年平均0.6件に過ぎない。そして、1976年の天皇在位50周年反対のころから急に増えているが、それでも10年で87件と年10件にはみたず、月に1件あるかないかという状態である。それが、一段と多くなるのが1986年からで、7年で278件と年間40件近くになる。これくらいの数字になると、週刊の紙面に毎号に近い頻度で天皇制反対の記事が現れることになる。このように、反天皇言説が『解放新聞』の紙面を毎号のようににぎわせるのは、1980年代のなかば以降であり、最近のことに属する。



まちづくり運動と反天皇制
ここで話を冒頭の、1997年綱領に戻そう。部落解放運動が階級闘争主義を放棄したことは、当然のことで、いまさら部落解放運動を左翼運動・階級闘争として継続していく理由はないだろう。2002年3月末で同和事業の時限法が切れて、これからは、要求中心の行政闘争ではなく、地域に根ざした街づくりを進めていこう、そして、その時は、なるべく思想信条を越えて幅広く手をつないでいこうというのが、現在の部落解放運動の方向性である。そのとき、綱領中に置き忘れられた「天皇制…に反対する」という文言に、何か意味が見出せるだろうか。

今まで述べてきたように、中世から近世にかけての天皇と河原者の関係は、決して単純な支配・被抑圧の関係ではなく、庇護・奉公の関係であって、そこに部落の天皇への親近感の一端が根ざしていること。解放令以後、「天皇の下での平等」は国の基調として終始一貫しており、水平社の糾弾闘争もそれを基盤になされたもので、水平社運動を担った人が、内発的な動機から反天皇になることはなかったこと。戦前に松本治一郎が反天皇の急先鋒であったことはなく、戦後も天皇の存在を一定認めたうえでの、限定的な批判であったこと(私的にはともかく、公的には)。戦後、解放同盟が反天皇を綱領に明記したのは1960年からで、しかも運動の中に広まるのは、1980年代後半以降の短い歴史しかないこと。こうした経緯をふまえ、また普段の生活の中での差別問題の具体的像を考えると、部落問題の解決という点からみて、反天皇の運動を先鋭に繰り広げる必要は、どこにも見出せない。現在の部落解放運動に散見される極端な反天皇主義は、極端な天皇神格化と同様危険な発想であり、足が地についていない思想なのである。

※なお本稿は、灘本個人の見解であって、資料センターの統一見解ではない。関係者が、灘本と同一意見をもっているわけではないことをお断りしておく。
(なだもと まさひさ/京都部落問題研究資料センター所長)

(注1) 駒井昭雄「部落解放をめざす大衆団体として―部落解放同盟の新綱領・規約について」(『部落解放』425号、1997年8月、136頁)。なお、決定された新「綱領」およびそれを補足するための「部落解放同盟基本文書(案)」もあわせて掲載されている。また、この綱領改正に関して、前回の綱領改定(1984年)を主導した、部落解放同盟中央本部書記長(当時)小森龍邦氏の詳細で理論的な、かつ左からの批判がある。小森龍邦「部落解放同盟綱領改正をめぐる論理的諸問題」(『こぺる』32号、こぺる刊行会刊、1995年11月)なお、部落解放同盟の綱領は下記のホームページでも見ることができる。
http://www.bll.gr.jp/guide-koryo.html

(注2) 1984年綱領は、『解放新聞』1984年11月12日号4面によった。

(注3) 天皇茶会事件については、『解放新聞』1982年1月25日号3面、2月1日号3面、3月1日号10面を参照のこと。

(注4) このあたりの事情については、「日本の歴史をトータルに編む 戦後の左翼思想界を代表 井上清氏(の逝去)を悼む」共同通信 2001年11月27日配信、掲載紙 京都新聞ほか、を参照されたい。
http://www.kyoto-su.ac.jp/~nadamoto/work/20011127.htm

(注5) 1935年4月23日、鈴木貫太郎侍従長に昭和天皇が語ったもの。原田熊雄述『西園寺公と政局』4巻(岩波書店刊、1951年)238頁。本稿では、引用にあたって、適宜、句読点を付し、カナ・現代仮名遣いに直してある。以下同じ。なお、昭和天皇の時々の発言を、側近・政治家・軍人など様々な関係者の日記や証言から集大成したものとして、中尾裕次編『昭和天皇発言記録集成』(芙蓉書房出版刊、2003年)がある。

(注6) 井上清著『天皇の戦争責任』(現代評論社刊、1975年)47頁。私は、井上氏の業績を100パーセント否定するつもりはなく、アカデミックな著作も一般の人に読めるように心がけたところなど、多くのことを学んだ。しかし、この著作はそうした井上氏の業績の中でもっとも偏狭で教条的で読むに耐えないものである。天皇の戦争責任を左右から政治的に裁断する従来の方法とは違ったアプローチとして、加藤典洋・橋爪大三郎・竹田青嗣著『天皇の戦争責任』(径書房刊、2000年)をお奨めしておこう。

(注7) 本庄繁著『本庄日記』(原書房刊、1967年)235頁

(注8) 『本庄日記』278頁

(注9) 遠山茂樹・今井清一・藤原彰著『新版 昭和史』(岩波書店刊、1959年)128頁

(注10) 『本庄日記』292-294頁

(注11) 『本庄日記』163頁

(注12) 『西園寺公と政局』2巻288頁

(注13) 灘本昌久「知りたいあなたのための京都の部落史(超コンパクト版)その1・2・3」(『Memento』8・9・11号、2002年4月-2003年1月)

(注14) 以下の歴史的経過は、『京都の部落史』全10巻(京都部落史研究所編刊、1984-1995年)による。特に、第10巻の年表編の索引を使って年表本文を見てもらうと、各賤民集団と権門勢家の関係は詳細にわかると思う。

(注15) 蓮台野村年寄元右衛門「恐れ乍ら嘆願奉り候口上書」『明治之光』2巻7号(『京都の部落史』第1巻262-264頁、第6巻125-128頁)

(注16) 解放令、明治維新の評価については、灘本昌久「知りたいあなたのための京都の部落史(超コンパクト版)その3」(『Memento』11号、2003年1月)を参照されたい。

(注17) 『京都の部落史』第10巻 年表編の各項目を参照のこと。

(注18) 井上清著『部落の歴史と解放理論』(田畑書店刊、1969年 もとになったものは、1959年刊)、馬原鉄男著『水平運動の歴史』(部落問題研究所刊、1974年)これは、部落問題研究所編『水平運動史の研究』全6巻(1971-1973年刊)の解題を合本したものである。

(注19) 藤野豊著『水平運動の社会思想史的研究』(雄山閣刊、1989年)第1章「全国水平社創立の思想」、同書は、全国水平社の思想に関するもっとも包括的研究で、水平社に内包されるほとんどすべてのグループを描いている。以下の事例は、特に断らない限り、同書による。なお、藤野氏の「名誉」のために付言すれば、「まえがき」にもあるように、氏の問題意識はあくまで反天皇である。また、同書中の「水平運動は『平等な臣民』としての意識を完全に克服できずに、戦後の部落解放運動に道を譲ったといえる。」(38頁)、あるいは、「初期水平運動は、明治維新を経て成立した近代天皇制国家の本来の姿にこそ『一君万民』の平等な社会を錯覚して見い出していた」(49頁)という評価にもそのことは見て取れる。ところで、史料の解釈について一点。藤野氏は、全水青年同盟機関紙『選民』16号(大正14年5月15日)が「三百万同胞のためなら社会進化の法則を無視しても関わないと考えている者が多い」と批判しているのを、天皇制思想の影響にたいする憤りと解釈しているようだが、これは単に部落対非部落という色分けを重視しすぎる部落排外主義の傾向を反動的だといっているに過ぎないのではなかろうか(49頁)。

(注20) 『水平運動史の研究』第2巻132-133頁

(注21) 『水平運動史の研究』第2巻215頁

(注22) 『大阪朝日新聞京都附録』大正12年11月27日

(注23) 部落解放同盟中央本部編『写真記録 全国水平社六十年史』(解放出版社刊、1982年)31頁

(注24) 高橋貞樹著、沖浦和光校注『被差別部落一千年史』(岩波書店刊、1992年)166頁

(注25) 小山弘健編著『日本マルクス主義史概説』増補版(芳賀書店刊、1970年)101頁

(注26) 師岡佑行著『西光万吉』(清水書院刊、1992年)85頁

(注27) 北原泰作著『賤民の後裔―わが屈辱と抵抗の半生』(筑摩書房刊、1974年)

(注28) 『写真記録 全国水平社六十年史』61頁

(注29) 水平運動史の研究』第4巻24頁(馬原鉄男による解説)には、1933年3月3日に行なわれた全国水平社11回大会の直後に全国水平社の中央委員会が開かれ、そこで決定された「新方針書」に、水平社の運動は「身分関係の根拠であるブルジョア地主的天皇制に対する闘争として発展する重要な意義をもってゐる」と書かれてあるようにあるが、同書88頁では、「身分関係の根拠であるブルジョア地主的絶対主義支配に対する闘争として」となっていて、「天皇」の言葉はない。現在、手元に原資料がなく詳細は未確認である。

(注30) 『水平運動史の研究』第4巻481-489頁。作成の経緯については、『賤民の後裔』253-262頁を参照。

(注31) 立花隆著『日本共産党の研究』下巻(講談社刊、1978年)267頁

(注32) 『西光万吉』116頁、『水平運動の社会思想史的研究』211頁以降にも詳しい。

(注33) 北一輝著『北一輝著作集』2巻(みすず書房刊、1959年)294頁

(注34) 部落解放同盟中央本部編『松本治一郎伝』(解放出版社刊、1987年)176頁

(注35) 師岡佑行著『戦後部落解放論争史』全5巻(柘植書房刊、1980-1985年) ただ、論争の紹介は詳細を極めるが、師岡氏自身は強烈な反天皇論者であり、「部落解放をまじめに考えた場合、かならず天皇制の打倒に至るのは必然」(第1巻 45頁)という立場で書かれている。

(注36) 『松本治一郎伝』266頁

(注37) 昭和22年9月『政界ジープ』9号(部落解放同盟中央本部編『解放の父 松本治一郎』部落解放同盟中央出版局刊、1972年、33頁所収)


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