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Memento 11号(2003年1月25日発刊)
読み物




知りたいあなたのための京都の部落史(超コンパクト版)その3―膨大な史料と研究を前にして途方に暮れないために―
灘 本 昌 久

本誌8、9号で『京都の部落史』の前近代の概略を私なりに紹介した。この試みはけっこう好意的に迎えられたと同時に、近代の「コンパクト版」にたいする希望も意外に多かった。そこで、今号では近代の部落史理解の鍵となる、「解放令」および「松方デフレ政策」について論じたい。

明治維新と解放令
部落問題にとって、1871年(明治4)8月28日の「解放令」は、賤民身分の制度的廃止という点で、巨大な意義をもつ。個人的体験や実感とは別次元で歴史的に評価すると、解放令の意義の大きさにくらべれば、のちの全国水平社創立(1922年)や同和対策審議会答申(1965年)は、小さな出来事である。しかし、「解放令=空手形」論さえあるように、近代部落史研究のなかで、「解放令」の評価はずいぶんと低い。

解放令に対する批判は、ようするに解放が名目に過ぎず、逆に従来の斃牛馬処理権や刑警吏役など身分に付属した特権が廃止された分だけ被差別部落には不利益だったという論調である。そして、それと対極をなすものとして、士族への「厚遇」が持ち出される。「封建的抑圧政治の張本人である彼らをこのように手厚くもてなし、封建制の最大の犠牲者であるエタ・非人身分のひとびとには、一片の布告だけですててかえりみなかった」(部落問題研究所編『部落の歴史と解放運動』初版1965年、新版1976年、199頁)というわけだ。

しかし、こうした解放令にたいする批判は、おおいなる偏見であるといわなくてはならない。まず、解放令が漸進的解消でなく、即時無条件解消であるということが注目される。幕末の解放論にせよ、京都府からの建議にせよ、すべて何がしかの条件付きで、徐々になくしていこうというものであった。職業訓練をほどこしたうえで平民に組み入れようとか、公共事業への功労者から順に取り立てるとか、いわゆる抜擢解放論である。にもかかわらず、実際に明治政府が出した解消論は「穢多非人等の称廃せられそうろう条、自今身分・職業とも平民同様たるべきこと。」と、そっけないばかりの即時無条件解消であり、これが当時の人にとっていかに過激なものであったかは、現在の我々が想像する以上のものであっただろう。

漸進的解消論の案が吹き飛んで、即時全面解消になった理由は、上杉聰の包括的研究『明治維新と賤民廃止令』(解放出版社、1990年)によれば、大蔵省による無税地の廃止や土地売買解禁に向けた財政的事情が強く作用したものとされるが、近代的統一制度をつくるために旧弊を一掃するということは、明治維新の革命性のあらわれであっても、その逆ではない。1863年、南北戦争開始から3年近くたってアメリカ大統領リンカーンにより発せられた「奴隷解放宣言」は、南軍に負けつづけた北軍が、戦争に勝ちたさにしぶしぶ出したという感じであるが(なにせ、宣言の段階では北軍に忠実な奴隷州の奴隷は解放の対象外!)、黒人解放史における南北戦争の意義は変わらない。革命政権は善意で良い政策を実現するというよりは、自分の弱さをカバーするためにより広い支持を集めるべく改革を推し進めるということが多い。そしてそのことをとおして、歴史的必然性が貫徹していく。

解放令発布直後の1871年(明治4)9月に、京都府は政府にたいしてアメリカ産牛輸入の許可をもとめている。これは、牧牛事業をおこして、旧穢多・非人身分の人々の職業の開拓や生活の支援にもつなげようとして着手したものである。73年に現在の京都大学医学部あたりに牧場までできたのだが、部落の要望とは一致しなかったのか、部落大衆の参加はなかった。しかし、けっして政治の側が部落の行く末にまったく無関心であったわけではない。

いっぽう、その手厚いもてなしを受けたとする士族たちはどうか。江戸時代から明治維新にかけて、いちばん割りを食ったのは、公平に見て武士身分であろう。部落問題の通史をみれば、ほとんどの場合、旧武士身分は禄に代わる公債をもらったことが強調されているが、たとえば、戊辰戦争に敗れた旧徳川家臣団の場合、明治の初めの2年間で家禄は5分の1に削減されて、無償に近い廃止処分にあっており、旗本・御家人の家来にいたっては、ほとんどが農商身分に編入されている。また、1871年(明治4)7月の廃藩置県によって所属がなくなり、1873年1月の徴兵令によって職業的存在意義がなくなったすべての武士たちは、秩禄処分によって打ち捨てられるのである(ただし、その後警官・教員・官吏など公務員化して生活を支えるようになったので、「士族=没落」とのみいえるわけではない)。封建領主制の廃止という点で、日本は徹底している。イギリスあたりでは、封建領主がブルジョア革命をへて地主に化けていったのだが、日本では耕作地は地券をもらった百姓たちの手に無償でわたった。(中村哲『明治維新』、集英社、日本の歴史16、1992年)

特権を廃止された旧武士の不満は強く、神風連の乱(1876年)、秋月の乱、萩の乱などを起こし、1877年ついには倒幕の最大・最強の功労者であった薩摩武士たちが西南戦争を起こしたが、徴兵で集められた国民の軍に鎮圧された。この時期、伊勢暴動など政府の近代化政策(重い地租、小学校建設、徴兵、時として解放令)に反対する農民一揆があいついでいたが、不平士族の反乱と結びつくことはなかった。秩禄処分など封建的特権=華族・士族の権益廃止に世論は支持をおしまなかったのである。

この西南戦争鎮圧のために従軍した京都府天田郡の部落出身兵士武田勇三は「田原坂において昼夜激戦十八日の間つかまつり、なお、植木において昼夜十五日間戦争つかまつり、何れもことのほか激戦にて粉骨尽忠つかまつりそうらえども、お蔭をもって、数日間の戦争に刀きずは申すにおよばず、玉きずなど一ヶ所も受けもうさず、…さりとて、諸人に遅れをとりそうろう義もこれなく、一途に進軍つかまつりそうらえども、無難にて、賊軍もその後追々退軍」(漢字・仮名使いは替えてある。以下同様―灘本)に追いやった後、戦病死を遂げている。また、何鹿郡の部落出身兵士岸本彦吉は、1874年(明治7)に大阪鎮台の軍に入隊し、10月には近衛兵となり、一等卒として西南戦争に従軍している(『京都の部落史』第2巻33頁、第6巻246頁)。「解放令=空手形」論によれば、この兵士の死は無意味な死かもしれないが、そうでなはい。近代革命である明治維新の結果、平民として兵士に取りたてられた部落出身兵士が、反動武士による反革命戦争を鎮圧し、封建時代の亡霊を殲滅したのである。これによって、明治維新への逆流はおさまり、以後、反政府運動は自由民権運動が主役となる。もし、反乱士族側が優位にたつようなことがあれば、全国の不平武士が呼応して立ち上がり、明治維新は大混乱に陥ったことだろう。また、秩禄処分の緩和など封建的特権への大幅な譲歩を余儀なくされたにちがいない。

解放令にたいして、当の部落大衆は、当然のことながらもろ手を上げて歓迎した。1872年(明治5)のこと、桑田・何鹿両郡の部落大衆は、「御国恩」にむくいるため、費用を負担し人夫6,000人をだして亀岡から京都に通じる交通の要衝である老ノ坂峠を切り下げて、人々が行き来しやすく整備し、府知事から表彰されている(第2巻19頁、第6巻130頁)。この他、部落に残されている史料の中には、解放令が布達され村のすみずみに浸透していく経過が書き残されており、その文面に見る部落の人々の目は、喜びに満ちている。

今まで通史的に言われてきていることとはちがい、明治維新およびその後の展開の中で、権力機構は上に行けば行くほど被差別部落側の肩を持ち、下へ行けば行くほど旧習を守ろうという傾向がある。従来、そこを間違えてきたのは、部落差別が時々の国家権力によって支配の道具として作り出されるという誤解があったからである。差別の根っこは村落共同体レベルにあるということに気がつけば、結論はさかさまになる。

たとえば、氏子加入の問題がある。江戸時代の民衆のイデオロギー統制は、仏教を使った檀家制度を通じて行われた。これにたいして、明治維新政府は、神道を通じて国民のイデオロギー統一をはかろうと、国民すべてが神社の氏子になることを強制した。当然、部落の人々も国民の一員として、氏子になるべき存在である。ところが、京都では部落の側は、浄土真宗の場合がほとんどで、阿弥陀さんは拝んでも、村の鎮守様は拝もうとせず、また一般の村人も自分たちの神社に元穢多であった人をいれようとはしなかった。そうしているうちに、国民総氏子計画に遅れをきたしたため、京都府は部落民を氏子として加入させるように厳しく督励した。1872年(明治5)6月28日、京都府の福知山出張所は三郡の区長にたいして、7月11日までに部落の人々を氏神に加入させなければ「厳重の沙汰におよぶ」と厳命している。権力機構の上のほうの人々にとっては、民百姓の旧態依然たる差別意識・差別慣行はさぞいまいましく映っただろう(第2巻21頁、第6巻537頁)。

さらに明治期の部落差別に、「部落学校」という存在がある。これは、本来同一校区でなければならないにもかかわらず、被差別部落と同じ学校になるのを嫌がって、部落のみの学校を作らせる、あるいは場合によっては単に本校への登校を拒否するというものである。こうした問題が、全国各地で引き起こされる。京都府は、部落学校問題が比較的少ないが、1900年(明治33)に中郡善王寺村で統合問題がおこった。部落総代が部落の児童を本校に通学させたいと村役場や郡役所にかけあったが相手にされなかったために、知事に直訴したところ、知事は「普通教育奨励の折から捨て置きがたし」として視学を派遣して統合に動き、4月1日から「公然登校の運びに至った」というものである(灘本昌久「明治期京都における被差別部落の義務教育について」『京都部落史研究所紀要』3号、1983年)。村長たちは、地元民の意向に強く規定されるのにたいして、戦前の知事は内務大臣の指揮監督を受けて天下ってくる官僚であったので、近代化政策に必要であれば、在地の古い慣行などは無視して平気なのである。

「コミンテルン史観」の病
このように明治維新および解放令が、部落差別解消に大きな力となったにもかかわらず、「解放令=空手形」論が幅をきかせた背景には、解放令発布後50年をへても水平社運動をおこさざるをえなかったように、根強く部落差別が残ったということがあげられるだろう。

しかし、より大きな原因としては、戦後歴史学の明治維新にたいする偏見が大きく災いしたといわなくてはならない。「戦後歴史学」は単に戦後の歴史学というだけでなく、狭義には講座派系のマルクス主義歴史学をさし、その起源は国際共産主義運動の総本山たるコミンテルンの御神託である「32テーゼ」(1932年に出された日本革命戦略の綱領)にまでさかのぼる。「32テーゼ」以前の日本のマルクス主義者による明治維新理解は、野呂栄太郎が「明治維新は、明らかに政治革命であるとともに、また広範にして徹底せる社会革命であった。それは、けっして一般に理解せられるごとく、たんなる王政復古ではなくして、資本家と資本家的地主とを支配者たる地位につかしむるための強力的社会変革であった」(「日本資本主義発達史」1930年初版→『野呂栄太郎全集』新日本出版社、1965年、58頁)と述べているように、なかなか素直なものだった。ところが、日本の共産主義運動に押し付けられた「32テーゼ」では、「日本に於て1868年以後成立した絶対君主制は、その政策は幾多の変化を見たにも拘らず、無制限絶対の権をその掌中に維持し、勤労階級は(に)対する抑圧及び専制支配のための官僚的機構を間断なく創り上げた」(『現代史資料14 社会主義運動1』みすず書房、1964年、617頁)となって、明治維新の革命性にたいする評価などは、吹き飛んでしまった。32テーゼは、1931年の満州事変勃発で、日本軍国主義による東からの侵略に危機感をもったコミンテルンが、大急ぎで学者をかきあつめて作ったもので、日本の支配制度を絶対主義ツァーリから類推した面が強い。日本の共産主義者ははじめ相当の抵抗感を持っていたのだが、結局は「聖典」となって戦前の無産運動を誤らせた。

そして、この線にそって「講座派」(戦前の共産主義的学者のうち、『日本資本主義発達史講座』に結集した人々で、日本共産党に近い。のちの社会党左派につらなる左翼学者は雑誌『労農』に結集し「労農派」と呼ばれる)の学者による研究がなされて戦後に受け継がれ、集大成されたのが遠山茂樹の『明治維新』(初版1951年→岩波現代文庫、2000年)である(自由主義史観の藤岡信勝はこうした戦後歴史学の歴史観を「コミンテルン史観」と名づけているが、経緯はまったくそのとおりである。『汚辱の近現代史』徳間書店、1996年、74頁)。

遠山によれば、明治元年のさまざまな開明的布告は「天皇制が幕府制と争い、薩長が諸藩の離反を喰い止めながら、天皇制絶対主義をこの世に送り出す陣痛期の麻痺剤であったにすぎず、かの啓蒙専制主義以前のものであった」(文庫、209頁)、「矢つぎ早やに遂行される、いわゆる開明的諸政策の本質は、いかなる意味でも絶対主義のブルジョア政権化を表現するものではなく、専制権力のあらわな圧力の下に強行される、絶対主義の貫徹以外の何物でもなかった。」(文庫、225頁)というような評価となる。

遠山氏は、あまり部落史について発言されていないように思うが、戦後の部落史研究をリードした井上清や部落問題研究所関係の研究者、その他研究者のほとんどがこういう歴史観をベースにしているので、解放令など欺瞞の最たるものであるという評価が定着したのも当然のなりゆきだ(細かくいえば、遠山・井上両氏の間に議論があったが、ここではおく)。

もっとも明治維新をマイナス評価する歴史家ばかりだったわけではなく、そうした欠点を克服しようという試みは、早くからなされていた。京都大学人文科学研究所での共同研究をまとめた桑原武夫編『ブルジョワ革命の比較研究』(筑摩書房、1964年)は、前書きにもそうした問題意識を明記してあるし、共同研究会のメンバーであった河野健二の『フランス革命と明治維新』(NHKブックス、1966年)および中村哲の『明治維新』(集英社、日本の歴史16、1992年)、梅棹忠夫『日本とは何か―近代日本文明の形成と発展』(NHKブックス、1986年)などは講座派的明治維新観の克服を意図しているものである。

松方デフレ政策と部落の貧困化
では、解放令を積極的に評価することができるとすると、その後の部落の貧困な生活は、何によるのか。それは、まったく「松方デフレ政策」に起因するというほかない。

西南戦争を戦うにあたって、明治政府は大量の不換紙幣を発行した。ようするに、お金がないので、お札を刷ったわけである。当然、急激なインフレが起こる。これは歩きはじめたばかりの日本の資本主義経済発展にとって、非常な問題である。そこで、松方正義大蔵卿(今でいう大蔵大臣)が紙幣整理を中心とする強力なデフレ政策を、1881年(明治14)から数年間にわたって敢行した。その結果、近代的通貨・信用制度が確立したのはいいのだが、ひどい不景気に見舞われて、多くの農民は債務に苦しみ、土地を手放して小作人になった(このあたりは、通史にあるとおりで、高校の教科書にも書いてある)。京都では、西陣の機織業が生産額を6分の1にまで落とすにいたっている。

この松方デフレ政策で、同様に非常な打撃を受けたのが被差別部落の経済である。前回に述べたように、江戸時代の末には、穢多村の経済は皮革関連・履物産業を中心に発展をとげ、一般の村と肩をならべ、あるいは凌駕する勢いであった。この状況は、明治維新を経ても続いていた。しかし、そこへやってきたのが、松方デフレである。製造業及びそれの販売で成り立っていた部落の経済は、たちどころに大きな打撃を受けた。たとえば、京都駅にほどちかい東七条地区に関して、『柳原町史』は次のように述べている。「本村は…皮革商および雪踏・下駄・沓・履物表等をもって生活す。…旧穢多職は安政已来漸次盛んにして、慶応・元治より明治初年頃に至りその極度ともいうべき有様なりしが、同12・3年頃より衰微の兆しを顕わし、16・7年に及びてそのはなはだしき惨状は見るに忍びざるなり。」(第6巻242頁)そして、部落の窮乏状態を把握すべく、京都府勧業課が1886年(明治19)にまとめた調査報告書『明治十九年臨時 旧穢多非人調書』によれば、東七条部落の惨状を次のように述べている。1,111戸のうち「362戸は生活に差しつかえこれなし。1.雑業者、世上一般の不景気に拠り、目下生活に困迫するもの749戸。右困迫の者今日の糊口の実況 749戸の内、400戸余はわずかに所有するところの衣類物品等を売却してようやく口を糊するものにして、又残る349戸余は、所有品もなくただに近隣の救助を受け、あるいは荘内かつ他の慈善者の助力を受け糊口するものにして、ややもすれば飢餓に陥らんとする等の状態なり。」こうした窮状は、各地の部落に見られた(第2巻40頁)。

このように、松方デフレ政策は、1800年代の部落の経済動向にとっては、もっとも大きなできごとなのであり、『京都の部落史』第2巻では12ページにわたって詳述してあるが、今までの部落史ではあまり重視されておらず、せいぜい明治の近代化が部落にもたらしたマイナスのうちの一つくらいにしか認識されていない。『部落問題・人権事典』(解放出版社、2001年)には項目としても立っていないし、まだ明治期の部落問題が充分に研究されていなかったころに発刊された前述の『部落の歴史と解放運動』では、「明治30年代に入って、日清戦争を契機として、日本全体に軽工業を中心とする産業資本が確立する時期に入ると、一般の中小企業とおなじく、部落産業は全面的に崩壊していった。」(222頁)というふうに、近代化の中で駆逐されていく零細資本一般の運命としてかたづけられている。しかし、もし幕末から明治初期にかけての部落での製造業の発展がなければ、松方デフレによって部落産業があれほど甚大なダメージを受けることはなかっただろうし、またその後の貧困問題は症状がもっと軽かったに違いない。

以上のように、部落の貧困化自体には、差別によって受けた不利益という側面は弱い。むしろ、その後立ち直っていく過程で、社会に進出できなかったということが、部落問題としてとらえられなければならない。そして、部落がこの貧困から本格的に立ち直るのは、1960年代の高度経済成長と同和事業の開始をまたなくてはならないのである。
(なだもと まさひさ/京都部落問題研究資料センター所長)

人権教育における参加型学習の意義と限界
伊 藤 悦 子

はじめに
昨年11月9日に、当資料センター主催でシンポジウム「『京都の部落史』教材化に向けて−なぜ、何を、どう教えるのか−」を開催したが、私の予想以上(20人も集まればいいかと思っていました)に参加者が多く、部落史学習のあり方についての関心が高いことを実感した。シンポジウムはテーマを離れた展開になった点では反省点も多く、その反省は今後のセンターにおける催しものに活かしていきたいところである。

しかし、センターはあくまでも「歴史」それも「部落史」を研究対象にしてきたという経緯があることから、どうしても「部落問題学習のあり方」さらには「人権教育のありかた」について、センター全体として企画をすることはなかなか困難である。そういう意味で今回、シンポジウム反省会番外編として、今流行の参加型学習について個人的に思うことを記すことにしたい。

そもそも参加型学習が同和教育において試みられるようになったのは、1995年から始まった「国連人権教育の10ヵ年」(注1)との関連からである。国連の人権教育あるいはそのベースとなったヨーロッパあるいはアメリカの人権教育の実践を大阪大学の平沢安政氏(注2)などが紹介し始め、多文化教育、開発教育、国際理解教育の内容や方法論を同和教育にも活用していこうとしたことによる。参加型学習が実践者の間で認知されたのは、『わたし、出会い、発見 自分らしさを発見し、豊かな仲間づくりをめざす教材・実践集』(大阪府同和教育研究協議会刊,1996年)の発行が契機になっているだろう。この本は現在まで版を重ねており、続編がパート4まで出版されている(注3)。また、昨年は参加型学習を普及させるために京都府教育委員会も学習冊子『わたし、あなた、みんなの人権』を発行し、すべての小学校・中学校の教員に配布している。そうした学習冊子は滋賀県においても作られている。今や、参加型学習はブームである。

実際、私自身も大学の授業で参加型学習は取り入れている。また、当センターで運営委員をしている外川正明氏との共著で「小学校における同和問題指導についての考察(2)−部落問題解決へのスキルを育てる−」(『京都教育大学教育実践研究年報』第14号 1998年)を著したりもした。したがって、私自身は参加型学習を決して否定する立場ではない。しかし、学校教育現場や社会教育現場で「参加型学習ありき」で実践がなされている状況を見ると、首を傾げざるを得ない状況があることも確かである。

そういう意味でこの3年ほど、「参加型学習の意義と危険性」と題した話をあちこちでしてきたので、その骨子を以下に明らかにしたい。
京都市の住民意識調査にみる教育課題
なぜ、今参加型学習が必要なのか。何のために、どのように、何を参加型学習で行っていったら、人権教育をよりよいものにすることができるのか。こうした問題意識に基づいて、参加型学習の必要性の根拠として私は各地の人権意識調査を検討してきた。
 
人権問題に関する意識調査は、各自治体で実施されており、地域的にも継続性という点でも相当の分量が集積されている。ただ、行政職員が統計手法もいい加減に実施したものから、統計会社に全面的に依頼したもの、研究者を交えて検討会を経て作成されたものまで、調査報告書は玉石混交である。また、その意識調査実施の目的とその後の活用の仕方も、調査が調査だけで終わってしまったり、行政関係職員の間だけで読まれて終わったり、調査結果から教育啓発計画を作成したりなど、さまざまである。

今回取り上げる京都市の『人権問題に関する意識調査報告書』は2002年に(財)世界人権問題研究センターが発行したもので、2000年に調査されたものである。世界人権問題研究センターに集う研究者12人が報告書を執筆しており、行政の報告書に比べると問題意識が鮮明で興味深い報告書になっている(私自身は参加していない)。ただ、どういう事情かわからないが、クロス表が明らかに読み間違えられていたり、考察の根拠が曖昧な叙述が見受けられるなど、熟読させてもらうと課題もある報告書であった。

しかし、当然のことながら、こうした報告書からは人権教育・啓発の課題が浮かび上がってくるわけで、今回は参加型学習の必要性という点で二つの資料をみておきたい。

まず、「被差別体験とその対応」に関する結果である。「他人から差別的な扱いを受けたことがありますか」という問に対して、31.5%が「ある」と回答しており、それへの対処として五つの選択肢から選んでもらった結果(図1)をみると、「世の中にはいろいろな人がいるのだからと受け流す」が36%で最も多く、「すぐその人と話し合う」は13%にすぎない。同じような質問を亀岡市で実施した結果も、「受け流す」がトップであった。

確かに「悪い噂を流された」などの被差別体験は抗議のしようもないが、性差、学歴、収入、職業、家庭環境、国籍・民族などに基づくさまざまな差別的な取り扱いが「野放し」になっている。この状況の背景には、いちいち「めくじらをたてない」方を美徳とするような雰囲気があるのかもしれない。しかし、要因の一つとして、被差別体験に対する対応の仕方を我々は知らない、もっと言えば「慣れていない」ということが挙げられるだろう。抗議する事は勇気もいるし、気力も必要である。その場の雰囲気も毀すし、人間関係も失うかも知れない。だから、我慢する。何もケンカをする必要はないが、軽く指摘をすることができる程度の対処方法は身につけたい。なぜなら、人権は誰かによって守ってもらうものではなく、自らが戦いとるものだからである。住民の多くが自らの人権についての自覚をもち、侵害に対応できること、それが日常的に展開されることが、国連人権教育の10ヵ年で提唱されている「人権文化」の内実であろう。

こうした行動力のなさ、実際生活での対処能力のなさは、「解決への態度」にも表れている。図2は「あなたは人権問題の解決のためにどのようなことをしようとお考えですか」に対する回答結果である。「何をしてよいのかわからない」が43.4%いる。この回答の背景には無力感や「面倒くさい」も入っているだろう。しかし、やる気はあるが方法がわからないと躊躇している人がいることも推測できる。

したがって、こうした「何をしてよいのかわからない」人が「できるところから行動したい」に移るためには、それなりに方法論を学ぶ必要がある。また、「できるところから行動したい」という態度をもっている人が、実際の生活で行動するための能力や具体的な方法論を学ぶ必要があるだろう。


参加型学習の意義と限界
このように、人権意識調査結果から得られた課題に対応するのは、具体的で使える「知恵」であり、それは系統的学習よりはむしろ、参加型学習によって得られる事柄ではないだろうか。つまり、人権のための知識というより、「人権のための技術」である。技術はやってみて習得するものであり、実践が必要である。この一点からだけでも参加型学習は必要であろう。

参加型学習は、単にいままでの部落史学習や同和問題学習がマンネリ化し、人々に「受けない」から「受けるもの」「おもしろいもの」としてするものではない。系統的学習が積み重ねてきた成果を受けて、系統的学習ではできないことを参加型学習で補うのである。

現に、海外の人権教育の翻訳を読むと、幼児や小学生段階では参加型学習が多いが、人権についての系統的学習は中学生や高校生段階で行われている。学習の目標や流れのなかで、参加型学習が位置づけられるのであって、今までの同和問題学習では受けないから参加型学習をやってみようと言うことでは、決してないのである。

ただ、実際の参加型学習の実施状況をみると、ゲームがゲームで終わっていたり、ロールプレイ(役割演技)やシミュレーション(場面設定)が、その場限りのもので、日常的な生活場面と結びつかないものになってしまっているものが多い。子どもたちは、参加型学習によって能動的に動き、学習しているクラス内は活気に満ちた状況を呈するが、ではその学習で何を得ることができたか、何を感じることができたかの「振り返り」が弱いために、「ああおもしろかった」で終わってしまっている。あるいは学習目標とアクティビティがそぐわなくて授業がうまく展開できない場合も出てくる(私はこの失敗が多い)。

参加型学習は方法論である。その際に、学習の目標、方向性、内容との吟味が必要であり、また、シミュレーションをする場合には、当然参加者の実態に合わせたものでなければならない。そうしたいくつかの当然の配慮をした参加型学習で、しかも連続的に実施し、系統的学習を組み合わせたものが実施されれば、よりよい人権教育が実施されるだろう。なによりも避けなければならないのは、参加型学習をすれば人権教育をしていると思われることである。

おわりに
現在、「総合的な学習の時間」を利用した人権学習がさまざまに試みられている。数時間をかけて、さまざまな調査活動や表現活動がなされ、子どもたちが能動的に学習している。このような参加型学習については、学力保障の問題や学習意欲の向上の問題など、もっと別の観点で論じる必要があるだろう。それらについては、今後の課題としたい。
(いとう えつこ/京都部落問題研究資料センター運営委員)

(注1)http://www.kantei.go.jp/jp/singi/jinken/を参照

(注2)主な著書・訳書
   『アメリカの多文化教育に学ぶ』(明治図書出版刊,1994.4)
   訳書『多文化教育 新しい時代の学校づくり』(ジェームズ・A・バンクス著,サイマル出版会刊,1996.3)
   共訳書『読み書きの学び 成人基礎教育入門』(アナベル・ニューマン著,岩槻知也訳,部落解放研究所刊,1998.4)
   訳書『入門多文化教育 新しい時代の学校づくり』(ジェームズ・A・バンクス著,明石書店刊,1999.10)

(注3)『わたし 出会い 発見 part2 ちがいに気づき、豊かにつながる参加型の人権・部落問題学習プログラム実践集』(大阪府同和教育研究協議会刊,1998)
   『わたし 出会い 発見 part3 人権総合学習をはじめよう人権総合学習プラン集』(大阪府同和教育研究協議会刊,1999)
   『わたし 出会い 発見 part4 新しい学びをより豊かに人権総合学習Q&A』(大阪府人権・同和教育研究協議会刊,2001)

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