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Memento 10号(2002年10月25日発刊)
読み物




部落史研究の現在と学校教科書
灘 本 昌 久

はじめに
最近の部落史研究の動向を反映して、小中学校社会科教科書の部落史の叙述も大きく変わってきた。ひとことで言うと、近世政治起源説をすてて中世起源説をとるようになり、賤民と称された人たちがいかに差別迫害されてきたかという陰の部分に焦点をあてる傾向から、いかにプラスの社会的役割を果たしてきたかという光の部分に焦点をあてる叙述に変わってきている。

旧来の「暗黒の部落史」は、同和事業を獲得するときのアジテーションではありえても、部落差別意識にメスを入れ解消するという点では、逆効果の面が多いので、こうした見直しは歓迎すべきことと考える。ただ、新しく出てきた教科書をいくつか見てみると、史実誤認や不十分なところ、また古い枠組みをひきずっている点が散見されるので、本編では部落史研究の立場からそうした問題点を指摘することにする。なお、教科書は研究の定説をもとに叙述するものであり、研究の最前線を追いかけまわす性質のものではない。ここで指摘する意味は、教科書の書き換えや授業内容の改善を直接要求するものではなく、あくまで、参考に供するというふうにご了解いただきたい。
部落史学習の位置付け
ところで、本論に入る前に、果たして小中学校で部落史学習は必要かという根本問題を考えておかなくてはならない。部落史学習に限らないが、不用意な人権学習というものは、差別の解消どころか拡大再生産に手を貸すことになりかねないので、注意が必要である。たとえば、最近、私の友人からこんな経験談を聞いた。家に帰ってきた小学5年生の子どもがいうことには、「お母さん、ぼく42という数字嫌いや…」。お母さんが理由を問いただしてみると、小学校で和太鼓演奏の実演があった。そして、それに関連して、太鼓には部落産業という背景があり、穢れにたいする差別につがなる問題がある。またそれらは現代でも「4」や「9」という数字を忌避する日本の迷信ともかかわり…という説明を先生がした。それを聞いて帰ってきた子どもが、上記の感想をもらしたというのである。何も触れなければ、素直に和太鼓の演奏を聞けたものが、先生の説明によって、いらぬマイナスイメージを付け加えたことになったかもしれない。もちろん、この一例をもって、人権学習の必要を否定するものではないが、子どもがどの年齢までは感覚的な理解をし、どの年齢以上であれば理屈で理解するのかは、考慮すべきことだろう。やればいいというものではない。大学生くらいになると、そういう気遣いは比較的無用で、徹底的に中身を深めていけばいいのだけれど、年齢が低い場合はそうもいかない。私の素朴な実感からいくと、小学生に中世起源の部落史学習が可能かどうか、あるいは必要があるかどうかは疑問で、中学生でも、ちょっとむつかしい感じを受ける。このあたりは、今後議論していきたいところである。
民衆史の一部として
部落問題を日本史授業の中でとりあげる場合、二つのアプローチがあると思う。ひとつは、今までなされてきた部落問題学習の一環としての部落史学習である。つまり、今に残る部落差別がどうして成立して、どのように現在に至るかを学習し、部落差別解消に役立てようという立場である。この場合は、古代賤民制の崩壊から説き起こして、中世賤民集団の成立と室町文化とのかかわり、江戸時代における身分制の確立と、幕末の身分統制政策、解放令という順序でその移り変わりを説明することになる。

もうひとつは、民衆史的アプローチである。これは、歴史を動かしてきたのは、ひとにぎりの権力者ではなく、名も無き民衆であるという考えだ。先生「大阪城を造ったのは?」生徒「大工さん!」というのは冗談にしても、その時々の歴史を作ってきたのは、指導的な立場、権力の立場にいた人の貢献もさることながら、現場の職人芸が大きな役割を果たしているのは、決して昔だけのことではない。さきごろノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊東大名誉教授の仕事にも、無数の部品メーカーの職人芸が生きているのは、同じことである。

この二つのアプローチのどちらをとるかで、部落史学習の語り口は相当変わってくる。前者の場合は、概略以下のような流れの話となる。古代末から中世にかけて、一般農民の共同体からはじき出され、あるいは脱落・流出し、中世非人(社会外の社会)となった人びとが、宿・声聞師・河原者などの賤民集団を形成し、河原者はケガレの処理を中心とする職能集団として、さまざまな仕事を担う。そして、動物の死骸などケガレの処理は、本来、河原などに埋めてしまえばこと足りるのだが、病弱になって働けなくなった耕作用の牛馬は、単に飼い置くわけにもいかず、その屠殺も河原者の仕事である。こうしてできた動物の死骸から様々な物を作る化製業系の仕事が発生する。皮革の製造はいうに及ばず、接着剤としての膠や漢方薬である牛黄など、さまざまなものを工夫して製造した。戦国大名が、城下町築造の際に、自分の出身地から皮多を引き連れて来て優遇したのは、こうした特殊技能を重視してのことである。また、犯罪の取り締まりや処罰も、ケガレの処理の一形態で、古くから河原者もたずさわっていた。近代になっても、各地の部落に十手や御用提灯が保存されていたのは、そうしたことに由来する。また、ケガレの処理から発展したものに、権門の住居のトータルコーディネーターという役割もある。本来は、庭を清浄に保つのがケガレ処理の本義であろうが、徐々に土木技術や作庭技術・理論を発展させていった。また、警察業務との関連もあるが、庭者の陰の任務として、諜報活動も重要な仕事であった。こうしたケガレ処理関連の仕事とは別に、河原者たちは営々と農地の開墾・耕作に努力し、江戸時代に入ってからは、一般の百姓とかなり近い存在となっている。江戸時代の中期以降は、町人文化の発展に連動して、製造業、とりわけ雪踏の裏張りの原料である皮革を独占的に製造していた関係で、履物関連産業が一挙に開花・発展して、皮多村の経済が飛躍的発展をとげる。また、動物の屠殺や化製業に関する知識、および処刑などの刑吏役から来る人体に関する知識が発展して、医療技術にたけた穢多身分の人が輩出される。1777年(安永6)、武州榛沢郡新戒村の穢多が「医道巧者」なので、もっと活躍してもらおうとの世論が高まり、村や近郷の人々あげての身分引き上げ嘆願運動があったことは、あまりに有名である。また、1771年(明和8)の小塚原で杉田玄白らに人体解剖をしてみせたのが、刑場で働く穢多の虎松のお祖父さんであった(平成14年度版の小学校6年生用教科書 東京書籍)。また、京都府蓮台野村の益井元右衛門は眼病院を設立して、相当高度の外科手術をし、果ては部落の子どもたちにドイツ語まで教えていた(灘本昌久「明治期京都における被差別部落の義務教育について」『京都部落史研究所紀要』3,1983年)。他にも多くの地域で被差別部落から名医が多く出ているが、これらは斃牛馬処理や刑吏役と強い結びつきを想起させる。

以上は、部落問題の理解をはかるという意味からの部落史の骨組みであるが、もうひとつの民衆史的アプローチから被差別部落の歴史を位置付ければどうなるだろうか。この場合は、部落問題の系譜的、系統的理解にこだわらなくても、時々の下層民、賤民、被差別民の社会に対する貢献として、様々なエピソードをとりあげればいいことである。「時々の生活の改善や、文化の発展には、さまざまな階層の人々が努力し、貢献しました」と。そして、室町文化における庭造りや、『解体新書』のための人体解剖など、比較的プラス・イメージの強い上澄みのところを積極的にとりあげていけばいいわけである。この場合、特にキヨメ→河原者→皮多→穢多→同和地区民の系譜的連続性にこだわる必要はなく、他の職人や賤民の貢献と並列してとりあげることができる。

もちろん部落史がこの二種類にすっきりと色分けされるわけではないし、またどちらが好ましいと結論付けるつもりもない。ただ、冒頭述べた例でわかるように、小学生にあまり前者の系統的部落史を教えると、どんな誤解をしたり否定的イメージが刷り込まれるかわからないので、注意を喚起しておきたい。教える側の力量を相当問われるし、ある種の気迫もいる。中途半端には教えにくいのである。ただ、逆に部落差別の理解という点では、民衆史的アプローチでばらばらのエピソードを教えたぐらいでは、なかなか差別の問題が心の底からわかったという具合にはなりにくいという欠点もある。
現在を過去に投影する誤り
次に、部落史学習の中で、陥りやすい誤りについて指摘しておきたい。それは、現在の価値観や経験を過去に投影してしまうということである。次のようなことがあった。20年以上前の話であるが、京都に遠方から修学旅行でやってくるために、先生が下見に来られた。同和教育に熱心な学校だったのか、同和問題学習を取り入れたいというのである。そして、こちらが京都の部落に関する説明をし、キヨメ役の解説をしたところ、「掃除などという人の嫌がる仕事を押し付けられていたのですね」という反応だった。京都の穢多村が担当していた、小法師役(御所のキヨメ)、二条城掃除役などは、決して押し付けられていた訳ではなく、どちらかというと本誌前号で述べたように、他の賤民集団から奪い取ってでもやりたい仕事であって、穢多村の沽券にもかかわる重要なことなのである。昔、学校では「罰掃除」というのがあったので、そうしたことから、「掃除=させられる」という連想が働くのかもしれないが、部落史の理解としてはありがたくない反応である。

これとは逆に、今の職業ステイタスで高いものを過去の賤民の歴史から拾い出そうという傾向もある。先ほどの医療と穢多身分の関係などが典型的であるが、成績の良い子は医学部に行かせたがる現在の価値観を過去に投影して、「穢多身分の仕事は、人に嫌われることばかりではなく、医学にかかわる仕事にも従事しました」という教え方は、欺瞞的といえよう。前述のように、穢多身分と医学のかかわりは、「皮はぎ」「首切り役人」との密接なかかわりから出てきているものである。そんなことを小さい子どもに教える必要はないが、教える側は踏まえておく必要があるし、大学生くらいなら、理解可能なことである。蛇足かもしれないが、「首切り役人」が医療技術にたけているのは、日本に限ったことではない。阿部謹也氏は『刑吏の社会史』(中央公論社,1978年)の中で中世ドイツにおける刑吏と医学について次のように指摘している。「中世において人体解剖は禁じられていたし宗教的制約が大きかったが、拷問や処刑を実施した刑吏は自ら生体解剖を行ない医学の最先端に立っていたのである。…人々は大学を出た医者よりも刑吏の治療の方を信用していた。…大学を出た医者は人体解剖することを許されていなかったからである」(132頁)。そして、ドイツでも刑吏と「皮剥ぎ」の関連が見出されるそうなのだから、人間のやることはよく似ている訳である。更に、ドイツ語にいう「angstmann」という苗字が「死刑執行人」という意味であることと、穢多の総大将「弾左衛門」という呼び名は「断罪」に由来するものではないかという推測を重ね合わせると、ますますもって興味は尽きないのである。
芸能と賤民
以上は、大枠の話であるが、以下で、教科書に散見される史実誤認や誤解と思われる点をいくつか列記しておきたい。

本誌8号に、私はうかつにも「竜安寺石庭を築造した庭者」という表現を使った。また、同様の表現をしている教科書も多くあるが、実は、竜安寺の石庭を河原者(庭者)が作ったという証拠はない。竜安寺石庭の庭石に刻んである名前が河原者ではなかろうかという、希望的観測があるだけである。また、銀閣寺も河原者によって作られたという確たる証拠はなく、善阿弥という庭造りで名を成した河原者を重用した足利義政が、善阿弥の死後、銀閣寺(東山山荘)を造営し、庭木の選定や収集に河原者を使っていたので、ひょっとすると庭のコーディネイト全体を河原者にまかせたのではないかとの推測はなりたつが、史料上確たる証拠はない。善阿弥が生きていたら銀閣寺の庭造りを彼にまかせたことはまず間違いないだろうが、善阿弥の死後作られた銀閣寺の庭園の作者はわからない。河原者が作ったことが確実なのは、むしろ禁裏(御所の内裏)のほうだ。これは、1474年(文明6)あたりから、『言国卿記』などにたびたび出てくる(『京都の部落史』第3巻555頁など)。

また、室町文化のところで、河原者の庭作りとならんで登場するのが、観阿弥・世阿弥の能であるが、これを賤民芸の一種と見る傾向がある。しかし、芸能史研究家の山路興造氏によれば、能は古代以来の猿楽の系譜を引くプロの芸能集団に属するものであり、室町時代以降声聞師など賤民集団が演じた千秋万歳にみられる祝福芸とは別系統の芸能である(『翁の座』平凡社,1990年 17頁〜、『京都の部落史』第1巻115頁〜)。能と庭造りを並列して、中世賤民の文化への貢献とひとくくりにするわけにはいかない。
政治利用論
能のことは、まだ目をつぶるとして、江戸時代初頭の身分制の確立のところで、多くの教科書が、「穢多・非人身分=分裂支配の道具論」を採用していることにはびっくりさせられる。武士に向かう農民の不満を下に向けさせるという論理なのだが、江戸時代の幕藩体制の成立と身分制の確立を罪悪視するところからくる誤解だろう。もうすこし、戦国の動乱を終わらせ、二百数十年の平和と安定をもたらした江戸時代、そしてその基礎をなした身分制を積極的に評価するべきである。下剋上を終わらせた(下剋上自体は、農民の上にのしかかっていた重層的な所領関係を一掃し、領主―領民のシンプルな関係にした点でプラスであるが)ことは、多くの庶民にとっても福音であったはずで、であればこそ、江戸時代にあれだけの経済・教育・文化などさまざまな面での素晴らしい発展があったのである(梅棹忠夫『日本とは何か―近代日本文明の形成と発展』日本放送出版協会,1986年)。江戸時代の初めに、身分制度の確立のため締め付けられたのは、第一には諸大名であったし、武士も身分制度の枠をがっちりとはめられた。マルクス主義的な階級闘争史観を克服するためにという触れ込みで編纂されたはずの扶桑社版の教科書までが「百姓や町人に自分たちとは別の恵まれない者がいると思わせ、不満をそらせることになったといわれる」という具合に、ばりばりの「政治支配の道具論」を採用していることには苦笑させられる。

こうした誤解と連動して、江戸の後半に起こってくる穢多身分に対する風俗統制にも大きな誤解がある。多くの教科書が「長年差別に苦しんできた穢多身分の人々が、江戸の終わりころについに立ち上がった」、あるいは、「財政難に陥った藩が、倹約を命じ、穢多身分の風俗を統制した」という趣旨のことを書いているが、むしろ、江戸時代の平和と安定の中で、商品経済が発展し、町人向けの履物製造業が繁盛するなどの追い風を受けた穢多身分が、百姓身分を凌駕するまでに成長してきたので、旧体制である幕府や藩は、古い殻に閉じ込めようとして、風俗統制を強化したのである。穢多身分の経済発展と人口の増加があれほどでなければ、風俗統制のために必死になる必要はなかった。
解放令=空手形論
近代の部落史の部分で気になるところは、多くの教科書が、「解放令=空手形論」を採用していることである。「形式的には平等になったが、それまでの特権(斃牛馬処理、免税)が廃止され、仕事の保証など政府からの援助がなかったので、かえって貧困化した」という書き方である。しかし、江戸時代後半からの穢多村の経済発展は、明治時代に入ってからも続いている。京都の中心的部落である崇仁地区の記録である『柳原町史』によれば、「安政已来漸次隆盛の域に進み、慶応より明治六、七年迄は其極度とも云ふべき有様」であったという。解放令の出された明治四年は、まだピークの前の上り坂である。したがって、成立して間もない貧乏革命政権が、解放された穢多村に経済援助をする理由はまったくなく、またその必要もなかったのである。

重要なことは、部落の貧困化は差別問題とはまったく別のところからやってきたことにある。それが、松方デフレ政策にほかならない。1877年(明治10)に勃発した西南戦争で、明治政府は最強のプロ戦闘集団である薩摩武士を相手に多額の軍費を使い、不換紙幣を乱発したために、悪性のインフレに見舞われた。その解決のために、松方正義大蔵卿が急激な紙幣整理というハードランディング方式をとったために、一挙にデフレになり、部落の製造業が壊滅的打撃を受けたのである。決して、部落が狙い撃ちされて被害をこうむったわけではなく、また差別されて貧乏になったわけでもない。解放令は、江戸時代の解放論が抜擢解放(行ないが良かったり、社会に功績のあった者から順に身分を引き上げる)とい漸進的方式であったのに対して、明治政府の出した解放令は即時無条件全面解放という画期的なものであり、明治政府が青臭いまでに革命的であったことを物語っている。部落の貧困化は、そうした解放令とはまったく時期も原因もことなることにより引き起こされたのである。
おわりに
以上、最近の歴史教科書に見られる部落史の問題点を羅列的に指摘したにすぎない。今後、旧来の部落史の全面的見直しと批判をしなければ完結しないのであるが、とても私の能力の及ぶところではない。今後、少しでも勉強を続けて、その一部なりとも責を果たしたいと思っている。
(なだもと まさひさ/京都部落問題研究資料センター所長)

『京都の部落史』史料を読む 第4回 芸能を楽しむ
中 島 智 枝 子

はじめに
古典芸能を代表する歌舞伎であるが、今日では劇場へ出かけて観劇することはあっても、愛好者が歌舞伎を演じるということはほとんど見られない。ところが、江戸時代も中期以降になると、歌舞伎を人びとは演じ楽しみだすようになるのである。

歌舞伎の歴史を簡単に振り返ると、1603年(慶長8)、京都の四條河原での出雲阿国の念仏踊りが始まりといわれている。出雲阿国の踊りは当初「ややこ踊り」といわれたが、それに所作を付ける工夫を加え阿国歌舞伎として好評を博した。出雲阿国によって四条河原から始まった歌舞伎は、その後、京都、江戸、大坂等の都市の芝居小屋で興行されるようになっていく。そのうち、歌舞伎役者達が地方に出かけ芝居を行うようになり、このような地方興行を通して歌舞伎は地方に浸透していった。また、地方にも歌舞伎を行う集団が結成され、歌舞伎の裾野が広がっていく。やがて、人びとは歌舞伎を観るだけではなく自らが歌舞伎を演じるまでになるのである。これが村芝居といわれているものである。

村芝居を手懸かりに江戸時代末から明治初期にかけて人びとが芸能を自ら演じそれを楽しむ遊芸について京都の部落史というフィールドでその一端を見てみたい。
村芝居について
村芝居の成立について、守屋毅氏によると、「村芝居−なかでもその中核をなす地芝居の始期は、享保以前にまでさかのぼる可能性をもちつつ、その全国的規模での成立は、ひとまず宝暦〜天明という時期で押えて差し支えないように思われる」ということである(『村芝居 近世文化史の裾野から』 122ページ,平凡社,1988年)。

これに対して、景山正隆氏は、「地芝居は享保以前から各地で盛んに行われるようになっていたのではないか」とし、「いずれにしても、地芝居の発祥はかなり古く、その時期を明確にすることは困難である」といわれている(景山正隆「人形と村芝居」『日本芸能史』6所収,法政大学出版局,1988年)。

守屋、景山両氏で村芝居の成立、発祥の時期について異なっているものの、ともかく江戸時代中期頃から各地で盛んに行われるようになっていたといえるだろう。そして、村芝居は文化・文政期(1804〜1830年)以後に地方に広範に浸透し、隆盛を極め、幕末から明治初期にかけてもっとも盛んに行われたといわれている。

守屋氏、景山氏いずれも村芝居を地芝居とも表記されているが、守屋氏によれば次のように述べられている。村芝居を指す語として農村歌舞伎、地狂言、地芝居、田舎芝居等の用例があるが、「村芝居という言葉がもっとも穏当である」(前掲書 124ページ)。というのも、村芝居は、それまで行われてきた村の祭礼の行事に歌舞伎の上演が結合することによって成立し、村の年中行事として土着した。これからも、村芝居は村の祭礼との結びつきがきわめて強いこと、そして村の年中行事の一つに組み込まれている点にその特色を見ることが出来るということである。

さらに、村芝居の盛行をもたらしたものに、江戸時代を通して増えていった「休み日」との関わりも深いということである。祭礼とともに「休み日」、「遊び日」の増加が、人びとに遊興への関心をもたらし、遊興の中に歌舞伎への熱中が占めることとなった。このことからも、村芝居の歴史は単に芸能史的な意味だけではなく、近世期の農民文化の面での新しい展開と見るべきであるとされる。
村芝居の禁止
江戸時代中期以降、各地で盛んに行われるようになった村芝居であるが、幕府は度々村芝居に対して規制を行った。幕府の規制について、天保の改革の時期に京都で出された触で簡単に見てみよう。

天保の改革が始まった1841年(天保12)11月、村々の神事祭礼のみならず、「作物虫送、風祭」等と称し、芝居・見世物同様の催しが行われていることに対して「不埒之事」とし、このような渡世をする者や風儀の悪い旅商人や河原者を村に立ち入らせることを禁止する達を出している。同様の触は1799年(寛政11)にも出されているが、「近来猥ニ相成候趣相聞」とあることからも一向に守られることがなく盛んに行われたのであろう。

村芝居や見世物を禁止する理由として、芝居などに百姓が熱中することは「遊興惰弱よからぬ事を見習、自然と耕作ニも怠り候よりして荒地多困窮ニ至、終ニ其果ハ離散之基ニも成候事ニ候」という。芸能を「遊興惰弱よからぬ事」とし、取締りの対象として、「遊芸・歌舞伎・浄瑠璃・踊の類、惣て芝居同様之人集メ」ることを禁止した[『京都の部落史』第5巻 490ページ]。

ついで、翌1842年(天保13)12月、風俗取締りの一環として上記の達しで「河原者」と称された歌舞伎役者等に対して「芝居之有る町内限り」に住うこと、「素人」との交際の禁止、身分を慎むこと、また、百姓、町人に対しては、「元来役者共は至っていやしきものにて、百姓・町人とは身分の差別之有る」ことを弁えること等を触れている[第5巻 494ページ]。

歌舞伎役者の社会的地位は、1708年(宝永5)の小林新助と弾左衛門との相論で、弾左衛門側の敗訴により、役者が弾左衛門の支配から脱してはいるが、この布令でも「役者共は至っていやしきもの」とあるように社会的賤視からはまだ解放されていなかったといえる。とはいえ、賤視される一方で、交際の禁止を出さざるを得ない程、役者と町人達との交際が頻繁に行われていたということが、この触から見てとれるだろう。

この後、1843年(天保14)2月、役者だけではなく芝居札売茶屋をはじめとする芝居の興行関係者もすべて芝居町内に居住するように命じている。また、役者が住居町外の芝居に出る場合は、通勤を認めず、当該町に移住することを命じている[第5巻 494〜495ページ]。

この時とられた芸能に対する厳しい統制策は、祭礼の際の村芝居の禁止や歌舞伎役者への統制強化にとどまらず、大道芸にも及んでいる。

1842年(天保13)10月、「唄念仏・軒附」と称して「素人ニ而夜分唄・三味線・浄瑠璃等かたり歩行」することを禁止している[第5巻 491ページ]。「軒附」、「歩行」とあることから、「素人」、すなわち町人達が市中で夜分、三味線を片手に唄念仏や浄瑠璃語りを行っていたということであるから、今日でいう「流しの歌手」が生まれていたことがうかがえる。

一方、非人身分が行っていた大道芸に対しては、翌1843年(天保14)2月、寺社の境内や小路などで歌舞伎狂言の仕形をして人びとから銭を得ていることを取り締るように悲田院年寄りおよび小屋頭に申し渡している[第5巻 495ページ]。

京都では非人の雑芸者を与次郎とか与次郎の手代(『淀古今真佐子』)などと呼んでいたということである。門付芸などの雑芸者や厄払い等は、四座雑色支配の下に岡崎に置かれた悲田院に統括される非人小屋が洛中洛外に約70箇所あり、この小屋に間借りのかたちで居住していたと言われている。非人身分の雑芸者によって繰り広げられた大道芸の中に歌舞伎が取り入れられ、辻芝居として好評を博していたことについては、本誌第6号の拙稿「辻芝居について」ですでに触れている。

天保の改革の時期に出されたこれ等の触を通して、歌舞伎や浄瑠璃などが当時の人びとにとっていかに身近な芸能として愛好されていたかを知ることが出来る。
柳原町の「休日遊」
1.「休日遊」について

芸能に人びとはどのように接し、楽しんだかを、本稿は村芝居から見ようとしているが、村芝居については、『京都の部落史』史料編では、明治14年に行われたものが収録されているのみである。そこで、「柳原町史」の中で柳原町の「休日遊」の記述を中心に見てみたい。

愛宕郡柳原荘の戸長役場が京都府の依頼を受けて、1887年(明治20)に着手した「町村沿革取調書草稿」とそれを清書した草稿および江戸時代の古文書からなる「柳原町史」は、同町の沿革、組織、生業、賦役、慣習等が詳しく記されている。その中の「休日遊」の項に次のような記述が見られる[第5巻 498〜500ページ]。


一、氏神祭礼 四月上卯ノ日、稲荷祭、七条郷、小稲荷 五月十四日、日吉祭。八条ノ上 ハ流シ餓(俄)ト云ヒテ、村内軒先ニ於テ演シ、又軒付ト云ヒテ、浄瑠璃及ヒ端歌等ヲ唱ヒ三味線ヲ弾テ楽シミ、小児ハ十二ト云ヒテ献燈ヲ舁歩行ス。


この箇所については『京都の部落史』と『日本庶民生活史料集成』第14巻(三一書房,1971年)に所収のものとの間で3ヵ所に異同がみられる。「餓」の箇所には『京都の部落史』では「(俄)」と編者注記が加えられている。『日本庶民生活史料集成』では「餓」はそのままである。「餓」とすると意味が不明になり、「俄」と解するほうが妥当であると考えるので、本稿では『京都の部落史』の編者注記に拠りたい。また、「端歌」であるが、『日本庶民生活史料集成』では「短歌」とある。さらに、「献燈」であるが『日本庶民生活史料集成』では「献酬(樽カ)」とある。いずれも『京都の部落史』に拠ることとする。

柳原町の七条郷、小稲荷では伏見稲荷神社の祭礼で四月上卯ノ日に行われる稲荷祭り、八条上では日吉神社の祭礼で五月十四日に行われる日吉祭り当日、「流し餓(俄)」が町内の家の軒先で演じられ、「軒付」と呼ばれる浄瑠璃や端歌などを歌い三味線を弾いて楽しむことが行われている。また、子供達の間では「十二」といわれる行事が行われている。「十二」では、子供達が灯りをかついで町内を歩いたようだが詳しいことは現在のところわからない。錦林では大豊神社の祭日、「奉燈」と書かれた下に提灯を上段に2個、中段に4個、下段に6個、合計12個を吊り下げたものを子どもたちが引き廻す「十二灯」の行事が行われている。「十二灯」と呼ばれる行事は錦林だけではなく、府下では久美浜町でも行われているということである。柳原町の「十二」と呼ばれる行事もこれらと同じものなのか、今後検討してみたい。

「柳原町史」によると柳原町には神社は当時なかった。解放令を前後する時期、伏見稲荷神社や日吉神社の氏子として七条郷や小稲荷、八条上の人々が組み込まれ、それぞれの祭礼の一端を担っていたということは考えにくい。この事項が「休日遊」の項に記載されていることからも、それぞれの町域が属する神社の祭礼に合わせて各町が祭礼当日、町内で祭日を楽しんだと考えたほうが妥当と思われる。当時は祭日を休日として、遊興を楽しむことが広く行われていたということであろうか。

2.流し俄

柳原町での祭日の遊興に流し俄が行われていたことが注目すべき点である。俄は仁輪加とも二〇加とも表記され、江戸時代中期から明治にかけて京都・大坂・江戸吉原・博多で流行した大衆演劇の一つである。俄とは、「にわかに思い付いたこと、ハップニングなことを仕出かすことということで、人の意表をついて楽しみ娯しませる芸能行為のこと」、「滑稽・風刺・洒落・頓智などの即興頓作」(西角井正大「俄・万作・神楽芝居」『大衆芸能資料集成』第8巻所収,三一書房,1981年)である。

西角井氏によれば、これを職業とする者も出てきたという。寛政以後(1789年〜)のことであるが『守貞謾稿』にも大坂のプロの俄師が取り上げられており、江戸に出て寄席稼をする者も見られたという。安永・天明期(1772〜1789年)には「座敷俄」がおこり、この頃「流し俄」も盛んに行われ、やがて、見世物としての「独り俄」、数人で行われる「立合俄」、芝居がかりの「長俄」等が行われるようになった。俄提灯(手持ちの角提灯)を持って、「にわかじゃ、にわかじゃ」といって流し歩き、客の所望によってその場で即席の俄を演じたのが「流し俄」である。さらに、「京都では古く、今宮・祇園・御霊・稲荷などの大きな祭礼の場で自然発生的に仮装の即興が行われていたらしい(『孔雀楼筆記』)」ということである。

ボテ鬘に素顔で演じられる俄はにわかに思い付いたことをパロディーとして演じればいいというものの、観客の笑いを誘うには常日頃から修業が必要とされるだろう。俄を演じた人々は、稲荷祭り当日、町内で演じただけではなく、町外の祭礼の場をはじめとした場所に出かけ俄興行を行っていたということも考えられるのではないだろうか。

3.軒付

「浄瑠璃及ヒ端歌等ヲ唱ヒ三味線ヲ弾テ楽シミ」とある「軒付」であるが、「村芝居の禁止」で見た、1842年(天保13)10月に出された達、「軒附と唱、素人ニ而夜分唄・三味線・浄瑠璃等かたり歩行候者」とよく似た芸態の芸能であるといえる。

端歌について、『守貞謾稿』では、「時々変化流布する小唄の類を云ふ。惣名、長唄に対する名目か。嘉永の頃より、歌沢某なる者、始めて師匠となり一家をなし、種々の小唄を三弦とともに教授する・・(中略)・・これまた今世、一種遊民の業となる」。幕末の頃に始まり、三味線の伴奏で唄われた小唄が端歌である。「一種遊民の業」とあることから、端歌を職業とする人々が現れ、それらの人びとは「遊民」と見られていたということである。このことからも、軒付も俄と同様、祭日に町内で見られただけではなく、軒付を行った人々は町外に出かけ、三味線の音色に合わせて端歌を唄い流しの稼をしていたと考えられる。

柳原町には悲田院支配下の七条裏があり、その非人小屋に住む住民達の多くは辻芝居等の芸能に従事していたことは本誌第6号で見たが、「柳原町史」の「休日遊」の記述から、七条裏の住民に限らず他の柳原町の人々の中にも芸能稼をしていた人びとが多数存在していたといえる。

「休日遊」の記述から、祭日ともなれば柳原町内は、俄の滑稽劇が軒先で行われ、三味線の音色にあわせた端歌が各所から聞こえ、祭日らしい華やいだ光景が見られたことだろう。そして、住民達はそれらを楽しみ、憩いの時を過ごしたことがうかがえる。
むすび
近世後期、地方の村々で盛んに行われた村芝居であるが、前述した通り『京都の部落史』で見られるのは、保津の部落での村芝居だけである。保津の部落で芝居が行われたのは、1881年(明治14)10月20、21日のことである。この時の芝居については、『京都の部落史』では「村芝居と水難事故」[第2巻 50〜51ページ]中、松方デフレによって部落の困窮が深まる中にあって芝居を楽しんだ当時の生活の一端が詳しく記述されているので第2巻を読んでいただきたい。

保津の村芝居の歴史を考えるにあたって遺されている史料は、今のところ、「第十四年 明治暦/ 芝居入出雑用帳/ 世話方/ 松本作蔵」と題された表紙が付けられた史料だけである[第6巻 257〜260ページ]。

「歌舞伎については、丹波・丹後によくのこされるたくさんの舞台が往時の盛況を物語り、天座(福知山市)などでは請われて客演した地狂言の歴史も伝えられる」(京都府教育委員会編刊『京都の民俗芸能』,1975年)ということである。村芝居が盛んに行われた丹波地方に位置する保津村だけに、丹波地方で行われた村芝居との関わりも無視することが出来ない。このような意味からも保津の村芝居については稿を改め見てみたい。
(なかじま ちえこ/京都部落問題研究資料センター運営委員)

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